28
夕方六時。
零は再び月の自宅の前へ戻ってきた。
昼間と変わらず、家から人が出てくる気配はない。
零は月の家から少し離れた場所から、様子をうかがうことにした。
そのとき――。
月の家の玄関の扉が開いた。
とっさに物陰に隠れる零。
玄関から白いスーツ姿の月が出てきた。
その後ろには、西田がいる。
「先生、原稿の締切は明後日です。今のペースじゃ間に合いませんよ!」
「分かってるわよ、そんなこと!」
「分かってるなら、外に出歩かないで原稿を書いてください!」
西田がそう言った次の瞬間。
パァン!
乾いた音が周囲に響いた。
「なっ……!」
零が思わず息を呑む。
月が西田の頬を思い切り平手打ちしていた。
西田は頬を押さえ、呆然と月を見る。
「あんたに指図される筋合いはないわ!」
月の声は怒りに震えていた。
「今すぐ消えて!」
「先生……」
「これ以上、私をイラつかせないで!」
月はそう吐き捨てると、西田を家から追い出し、玄関の扉を勢いよく閉めた。
西田はしばらく玄関を見つめていた。
そして深いため息をつき、一人で歩き出す。
零はその姿を見て、西田に声をかけた。
「西田さん、大丈夫ですか?」
「……あ」
西田が振り返る。
「朝日さん……はい、大丈夫です」
西田の頬には、まだ赤い手形が残っている。
零は少し困った顔で尋ねた。
「清水さんはこれから、外出されるのですか?」
西田は少し迷ったあと、答えた。
「はい。おそらく、斎藤さんの家に向かうかと…」
「?……斎藤さんの家に?」
「はい。言い忘れてましたが」
西田は声を落とす。
「先生は時々、男性の家に行くことがあって…」
「……」
「夜に出ていって、そのまま朝になって帰ってくることが……何度かありました」
零の胸が、ズキッと痛んだ。
「……そう、ですか」
それだけしか言えなかった。
「では、僕はこれで」
「はい。お気をつけて」
西田と別れたあと、零はその場に立ち尽くしていた。
『先生は時々、男性の家に行くことがあって…。
夜に出ていって、そのまま朝になって帰ってくることが……何度かありました』
零の頭の中で西田の言葉が何度も繰り返される。
「そんな……」
胸が苦しい。
まだ二人がそういう関係だと決まった訳じゃない。
それでも、零はショックを受けずにはいられなかった。
――斎藤静と清水月の関係を調べる。
そのために始めた調査だった。
なのに今は、二人がどんな関係なのか知ることがこわくなっていた。
「……二人は一晩中、一緒にいるってこと…?」
そこで、零はふと、夜の水族館での出来事を思い出した。
静が何気なく口にしていた言葉。
『夜泣きがひどくて』
そして、お洒落なバーで静が言っていた言葉。
『仮に僕が不眠症で、添い寝してほしいとあなたに頼んだら、どうしますか?』
「……まさか」
零の胸がざわつく。
あのときは意味が分からなかった。
けれど、もし『夜泣き』『添い寝』というのが、清水月のことだったとしたら。
「……」
二人は夜、一緒のベッドで過ごしている。
その時に何をしているのか。
考えたくない。
それなのに、頭の中では勝手に二人が同じベッドで過ごしている光景が浮かんでしまう。
「……憶測で考えるは、やめよう」
零は自分に言い聞かせる。
そんなことを考える必要はない。
これは仕事だ。
ただ、依頼された調査をしているだけ。
そう思った、そのときだった。
「!」
月の自宅、玄関の扉が開いた。
零は反射的に顔を上げ、月に見つからないよう物陰に隠れた。
それから間もなく、清水月が玄関から出てきた。
昼間とは服装が違っている。
白地に淡い花柄が入ったワンピース。
銀色の長い髪が背中へ流れている。
月は周囲を確認することなく、歩き始めた。
「?」
零は月の姿を見て、ふと違和感を覚えた。
月は手ぶらだった。
バッグも持っていない。
スマートフォンさえも、何も持っている様子がない。
(まさか、必要なものは全部、斎藤さんの家に置いてあるってこと…?)
零は月から少し距離を取る。
そして、月が向かった方向へ歩き始めた。
「……」
調査のため。
そう自分に言い聞かせながら。
零は月の後を追った。




