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静は床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
頬を軽く押さえながら、男を見つめる。
「……今、右腕で殴りましたね?」
「……」
男が自分の右腕を見る。
先ほどまで『折れた』と騒いでいた腕だった。
静は淡々と続ける。
「右腕の骨が折れているのであれば、人を殴るなんてことはできません」
「っ……」
男の顔が歪む。
自分の嘘が完全に見破られたことに気づき、悔しそうに拳を握った。
静は服についた埃を軽く払いながら、上着のポケットへ手を入れる。
「ちなみに、こう見えて私は警察官です」
「なに!?」
静は警察手帳を取り出し、男へ見せた。
「今の行為は暴行罪にあたる可能性があります。2年以下の拘禁刑もしくは30万円以下の罰金または拘留もしくは科料…このまま、あなたを逮捕することも可能ですが……どうします?」
「わっ……悪かった!」
男の態度が一変する。
静は男を見つめたまま、零の方に掌を向ける。
「僕ではなく、彼女に謝ってください」
「……」
男は零のほうへ向き直る。
「わ、悪かった……」
「わ、私のほうこそ、すみませんでした!」
零も慌てて頭を下げる。
男は気まずそうに頭を掻くと、隣にいた金髪の女性、咲子とともに店の出口へ向かった。
二人が店を出ていき、扉が閉まる。
店内には、しばらく静寂が残った。
その時__。
パチパチパチ……。
一人の客が拍手を始める。
それにつられるように、周囲の客からも拍手が起こった。
「……」
零は呆然と静を見る。
静は何事もなかったように警察手帳を上着のポケットへ戻した。
そして、そのまま零へ視線を向ける。
「大丈夫ですか?」
「それは私の台詞です!」
零は慌てて静の頬を見る。
「私より自分の心配をしてください。さっき思いっきり殴られてたじゃないですか…」
「大したことありません」
静は淡々と答える。
「あなたに怪我がなくて良かったです」
「……」
零は思わず黙り込んだ。
自分のことより、相手のことを心配をする、静の優しさに零は心を打たれた。
騒ぎが収まり、店内に再びジャズが流れ始めた。
零は静の顔をじっと見つめた。
「……斎藤さん」
「はい?」
「唇から血が……」
よく見ると、静の唇の端が切れていた。
そこから、ほんの少しだけ血が滲んでいる。
「怪我してるじゃないですか…」
「これくらい、大丈夫ですよ」
静は気にしていない様子だった。
零は鞄からハンカチを取り出す。
「じっとしていてください」
「?」
零は静の唇へそっとハンカチを当てた。
血を拭う指先が、わずかに震える。
近い。
静の顔が、すぐ目の前にある。
零は胸の鼓動をおさえながら、傷口を優しく拭った。
「……はい。もう大丈夫です」
「ありがとうございます、零さんは本当に優しい方ですね」
そう言って静は零へ向かって、優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間__。
零の胸が、強く高鳴った。
「……」
分かった。
自分は、この人が好きなのだ。
ただ尊敬しているだけではない。
静に優しく笑いかけられるだけで、こんなにも嬉しい。
怪我をすれば心配になる。
そばにいるだけで、胸が落ち着かなくなる。
『自分は斎藤静に恋をしている』
そう自覚した零は頬を少し赤くしながら、静から視線を逸らした。
「どうしました?」
「いえ……、なんでもありません」
その後、二人はカウンターに並んで座り、酒を飲みながらいろいろな話をした。
仕事の話。
最近見た映画の話。
どうでもいいような些細な話まで。
一週間ぶりに会った二人は、穏やかで楽しい時間を過ごしていた。




