第八話 速報
木目の壁が、声を吸う部屋だった。
正面奥の三人掛けのソファに永井総理が座っていた。両脇には官房長官と、与党幹事長の小宮山。左右の側面に向かい合うように、一人掛けの椅子が等間隔に並ぶ。
閣僚、省庁トップ、関係局長クラス。各列の前には、書類を置くための低い木のベンチが、列に沿って一本ずつ伸びていた。テーブルというには低すぎる。膝から少し前に身体を倒さないと、書類の端も取れない。
中央には、橙色の絨毯が広く残る。
永井総理の正面、向かい合う側面の列までは、人が立てば五歩、座ったままでは届かない距離だった。
誰かが何かを言うためには、その都度、身体を前へ出さなければならない。
私の席は、永井総理から見て右側、入口寄りから三つ目。長辺の途中にあたる。永井政権の発足から、この席を私は替えていない。
黒の革表紙の手帳を、腰の高さで開いた。万年筆のキャップを外す。ノートの隅に日付を入れ、議題の頭文字に薄く下線を引いた。Vの一字。
天井からの間接照明が、ノートの紙面を平らに照らした。
永井総理が、膝の上に揃えていた資料の角を、二本の指で揃え直した。整え終わるまで、誰も話し始めなかった。
空調の駆動音が、室内に軽く響く。
「では、始めて」
永井総理の声は、低く、抑えてあった。普段であれば、高い声で威圧し、自分の立場をはっきりとさせてから、話を進める。そういうタイプだ。
日本において、二人目となる女性総理。
永井総理はこの「二人目」と呼ばれることを毛嫌いし、常日頃から「実質的に初の女性総理は私」と豪語している。
経産省の事務方が、向かいの列の二つ目から、半拍遅れて姿勢を半分起こした。膝の上の資料を、ベンチの縁に少し乗せる。指先が、紙の角でわずかに引っかかった。
彼は、身体を斜め前へ出した。座ったまま、永井総理の正面の角度まで、肩を捻じる。声が壁に吸われないよう、わずかに顎を引いていた。
「お時間頂戴いたします。まずは――」
投資、雇用、技術協力、地方誘致、国際的注目、広報効果。資料のページが順に開かれ、説明が積み上がっていく。地方への波及、関連企業の動き、自治体首長の温度。事務方の声は淀みなく、しかし語尾が一本調子にならないよう、所々で間を作っている。
永井総理は、膝の上の資料に視線を落としたまま、最後まで聞いた。途中で遮ることはなかった。
経産省の事務方が、説明を閉じる位置で短く息を吸った。
「――以上が、現時点で整理いたしましたご報告でございます」
彼は資料を畳んだ。膝の上で、紙の音が短く立った。
数秒、誰も動かなかった。
それから、何名かの閣僚が手元の資料をめくる。その紙の音だけが、辺りを支配した。
永井総理が、ゆっくりと顔を上げた。
「そんなことは、分かっているのよ」
経産省の事務方の喉が、一度上下した。
永井総理は、その喉の動きを確認し、自分の権威に相手が尻込みしているのを確認した。そのうえで、続けた。
「投資が来る、雇用が生まれる、地方に波及する。そういうご説明を聞きたくて、ここまで時間を作ったわけじゃないの」
声は、一段、温度を落としていた。声が小さくなったのではない。重さが、中央の絨毯の上で増えた。
「私が知りたいのは、来るのか、来ないのか。そこの一点」
彼女の右手の指の根元が、膝の上の資料の上で、数回のリズムを刻んだ。叩いた、というほどの音ではなかったが、苛ただし気なその動作だけで、経産省の事務方の身体が、椅子の上で背筋を伸ばす。
「ご報告できる範囲で申し上げますと――」
引き取ったのは、外務省の事務方だった。経産省と入れ替わるように、半身を起こす。
「依然として、日本が有力候補であることに変わりはなく、ご本人側からも、前向きなご発言が続いております」
「有力候補……」
永井総理が、その語を口の中で転がした。
「結果として、候補としては二番目でした、来ませんでした、では困るのよ」
外務省の事務方が、視線を一度、膝の上の資料の上に逃がした。
「ここまで検討会、調整会議に時間を割かせたうえで、空振りで済む話だと思っていらっしゃるなら、それは違う」
永井総理は、彼を直接見ていなかった。わかっていないわねと、呆れるように中空に視線を向け、頭を振る。
誰も答えない。いや、答えられない。
私はノートの端に、「有力候補/引用注意」と書き、行を変えた。
万年筆の先が、一度紙の繊維に引っかかった。
外務省の隣の椅子に座っていた事務方が、わずかに口を開いた。内閣府の参事官の一人だった。
「個人の長期滞在に関しまして、国がどこまで働きかけを行えるかという点には、若干、法解釈上の問題もございまして……」
声尻が、慎重に下がっていく。中央の絨毯の手前まで来た声が、そこで一度、低くなった。
その語尾を、横から拾ったのが、幹事長の小宮山だった。
彼は丁寧語を崩さなかった。永井総理の隣のソファから、上半身をわずかに前へ出す。
「法解釈上の問題、というのは」
膝の上で、両手を組む。
「できない、という意味でしょうか。それとも、まだ整理していない、という意味でしょうか」
声は荒げていない。むしろ穏やかだった。穏やかなまま、同じ語を二つに割って、穏やかながらに圧をかける。
参事官は、視線を一度、膝の上の資料に落とした。額の生え際に、薄く光が浮いていた。
「現時点で、できないという結論には、至っておりません」
「では、明確にしてください」
小宮山の声は、最後まで同じ温度だった。
「総理がご質問になっているのは、できる範囲の中で、何をどう整えるか、という話だと、私は理解しております」
永井総理が、ひとつ頷いた。
「そう。本人が望む環境を整え、自ずと選択をするように誘導する。それが政治というものでしょう?」
彼女は続けた。
「国会で問われた時の言葉で構わない。政府としてのアピールを、説明できる形で残しておいて」
小宮山が、ほぼ同時に頷いた。
「世論への筋立ても、党としてこちらで揃えます。前与党とは何が違うか、国民の目にもはっきりとわかるはずです」
短く嫌味を差し込み、それ以上は引かなかった。
私はノートに、「働きかけ/受け入れ準備」「対比論点」と書いた。万年筆を持つ手が、少し汗ばんでいた。
ノートに走る手元の動きが、いつもより少しだけ速くなっていることに、自分で気づいた。
次に発言したのは、財務省主計局次長の九条だった。彼は、私から見て左側の列、永井総理寄りに立っていた。
年齢のわりに早い昇格で、発言は短く、いつも絞られている。今日も同じだった。彼は身体をあまり前に出さなかった。
「税務上の初期対応については、日本においての税務担当を把握し、住所判定の整理、行政照会の方針、関係自治体への事前案内、この三点を当方の窓口で進めております」
九条は、それ以上の話には踏み込まなかった。
永井総理の視線が、絨毯の上を横切って、九条の上で一秒ほど止まった。
「踏み込んだ話は」
「現段階では、特に」
「分かりました」
永井総理の言葉は短かった。税の中身を、この場でこれ以上詰めるつもりはない、ということだった。
国税庁の課税部長が、九条のあとを引き取り、住所判定の運用について短く補足した。専門用語が並んだが、永井総理はほとんど目を上げなかった。彼女の関心は、税の数字ではなく、発表のタイミングと、政府として「見せられる材料」にあった。
会議は、そのあたりで一度、温度が下がりかけた。
私は万年筆のキャップを、閉めようとした。
その時だった。
入口の方で、扉が一度、小さく動いた。
内閣官房の事務スタッフが、頭を下げた姿勢のまま、絨毯の上に足を踏み入れた。
「失礼します」
声は控えめだった。けれど、中央の絨毯を歩く靴の音は、両側の列に等しく届いた。
彼は、絨毯の真ん中を、五歩で進んだ。
手にしていたのは、薄いタブレットだった。
永井総理のソファの正面で、彼は膝を軽く折った。画面を総理に見せる角度で差し出す。
彼女が、画面に視線を落とした。
一秒。
二秒。
小宮山が、ソファの上で身体を捻り、永井総理の肩越しに身を寄せた。反対側に座っていた官房長官も、半歩分、身体を傾ける。両側面の列の閣僚たちも、椅子の上で身体を斜めに前に出した。
誰も声を出さなかった。
私の万年筆の先が、膝の上のノートで止まっていた。
永井総理の表情は、変わらなかった。眉間も、口の端も。ただ、画面から目を離さない。視線の角度が、一段、深くなった。
彼女は、差し出されていたタブレットを自らの手で持つと、もう一度だけ確認するように凝視してから、おもむろに立ち上がった。
「準備して」
とだけ言った。
その直後にもう一言、
「すぐに」
永井総理が手にしていたタブレットが、無造作に小宮山の眼前に突き出された。
彼女の開いた片方の手が、一度だけ、ぐっと握られるのが見えた。
絨毯の幅を挟んだ向かい側の列からは、たぶん、見えていない。
私はその一動作だけを目で追って、視線をノートに戻した。
万年筆のキャップを、外し直す。
ノートに、「マスコミ対応」と書いた。
タブレットの中身は、私には見えない。
その場にいる大半の者も同様だが、総理の反応で全てを察したのか、その顔には喜色が浮かんでいる。
永井総理が、それまでより半トーン高い声で、閉会を告げた。
各省庁の事務方が、足早に去っていく永井総理の背に向けて礼をした。その後を、何名かの官僚が追った。
小宮山が、永井総理すぐ後ろに付いた。
「広報の段取りは、こちらで動きます」
永井総理は振り向かず、小さく頷いた。
私もノートを閉じた。万年筆のキャップを、今度こそ閉めた。
退出のために扉に向かって歩き始めると、官房の事務スタッフが私のところまで歩いてきた。
「真壁副長官、各社へのリリースの段取り、控室でご相談よろしいでしょうか」
私は短く頷いた。
「すぐ行く」
省庁ごとに団子になった固まりを横目に、歩みを速めた。
◇ ◇ ◇
事務所は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
モナコから戻って、二週間。電話の数も落ち着き、節子さんがワイドショーをつけたままお茶を入れる時間が、事務所の中に戻ってきていた。
あかりがコピー機の前で資料を揃えている。節子さんの席からは、コメンテーターの声が低く流れている。
とりあえずの山は、乗り切った。
私は、壁の時計に目をやった。
10時を、少し過ぎたところだった。
そろそろかな、と思った。
画面の中で、司会者の声が、半拍、止まった。
節子さんが、湯飲みを置く手を止めるのが、視野の隅でわかった。
「先生」
節子さんが言った。
声の温度が、いつもと少しだけ違った。
私は顔を上げた。あかりも、コピー機の前で動きを止めた。揃えかけの紙をコピー機の上に戻し、節子さんの方へと向かった。
私もペンを置き、立ち上がる。
席に座る節子さんを背後に、二人で並んだ。
事務室のテレビに映ったワイドショーのスタジオは、普段とは違うあわただし気な様子だった。
スタジオの中で、司会者がスタッフを呼ぶ声が、低く聞こえる。
司会者に紙の束を渡しに走り寄るスタッフ。カメラはスタジオの全景をとらえたままで、画面端のコメンテーターの一人が、ガラスのコップへ伸ばしかけた手を、半ばで戻していた。
慌ただしさの理由を、私たち三人は理解していた。
あかりが、ぱっと私の方を向いた。
「先生、黒塗りから解放されますね」
声は、いつもより半オクターブ高かった。
その言葉に、私も頬の力が緩みかけた。
とりあえずの山は、乗り切った。
ただ、次の山がいままさに立ち上がろうとしている。
私は、頬の力をもとに戻した。
「お茶、いれてきますね」
「すみません」
節子さんは立ち上がると、画面内の慌ただしさを横目に、給湯室へと姿を消した。
「ただいま、入りました情報によると――」
司会者の上ずった声を耳に、テレビへと視線を戻す。
画面の中で、司会者が紙片に視線を落とし、戻し、もう一度落とす。
司会者の続く言葉を、画面の上部に流れる白い文字が、先に伝えていた。
【速報 イーサン・ヴァルガス氏、日本移住を表明】
<第一章 了>
次回より 第二章 日本に住むということ




