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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第一章 水面下の嵐

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第七話 閣下のお嬢様


 応接スペースには、男が二人立っていた。


 一人は、五十代後半から六十代に近い。濃い色のスーツに、少し古い柄のネクタイ。髪には白いものが多いが、姿勢はまっすぐだった。


 もう一人は、四十代くらい。いわゆる中堅と呼ばれる世代だが、私よりは年上だろう。


「麻生先生。本日はお時間をいただきありがとうございます」


 年長の男が先に言った。


「麻生です」


 名刺入れを開きかけたところで、年輩の男の手がそれを制した。


「先生のお名刺は、空港でいただいておりますので」


「……そうでしたね」


 私はそう答えて、相手の名刺だけ受け取った。


 『内閣官房 副長官補付 参事官 大和田 修平』


 隣の男も、少し遅れて名刺を差し出した。


 『国税庁 課税部 個人課税課 課長補佐 塚本 智樹』


 二枚の名刺を左手にまとめ、空いた手で促す。


「どうぞ、おかけください」


 私は言った。


 正面に相対して初めて、年長の男――大和田の顔に見覚えがあることに気づいた。


 空港のターンテーブルで、私の視界を遮った人物であることを、いまさらながらに思い出した。


 一同が席に着いたタイミングで、節子さんがお茶を運んでくる。湯飲みを三つ置く手つきは、いつもと変わらない。


「どうぞ」


「恐れ入ります」


 塚本だけが、深めに頭を下げた。


 節子さんは盆を引き、応接スペースを出ていく。扉の開け閉めのわずかな時間、事務室の方からあかりがキーボードを打つ音が聞こえた。いつもより少し速い。


 塚本が薄い手帳を開いたのを合図に、大和田が口を開く。


「それで、本日は」


 言いながら、大和田は両肘を膝に乗せ、手のひらを組んで前かがみになった。


「イーサン・ヴァルガス氏の日本滞在に関しまして、事実関係を確認させていただきたい」


「確認、ですか」


「はい。政府としても、長期滞在の可能性がある以上、関係省庁で前提を揃えておく必要があります」


 前提を揃える、という考えは理解できる。


 関係省庁が動くなら、どこかで同じ土台を持っておく必要はある。ただ、その土台を作るために、私がどこまで話せるかは別。


「先生はモナコでご本人と面談され、日本側の個人税務をご担当されるんですよね」


「はい、その通りです」


「ヴァルガス氏ご本人から、日本滞在に関するご相談は受けておられる」


「私が受けた依頼は、日本に滞在した場合の税務に関することです」


 塚本のペンが動いた。


 大和田は、組んだ手をほどかなかった。


「日本に長く滞在される可能性はある、という理解でよろしいですか」


「可能性という表現であれば」


「それは、どのくらい?」


 ぐいぐい来る。


 そう思ったが、顔には出さなかった。


 空港で声をかけられた時もそうだった。こちらの都合を確認する前に、必要な場所へ話を運ぼうとする。乱暴というほどではないけれど、答えて当たり前だという意思を感じた。


 塚本の手帳に走るペンの音を聞いていると、ひとつ答えるごとに、こちらの言葉が別の場所へ運ばれていくような気がした。


「期間については、私も伺っていません」


 私は言った。


「あくまでも日本に滞在する前提で整えてほしい、そういう依頼です」


 塚本のペンが止まった。


 大和田は、組んだ手をほどき、顎のあたりをさすった。


「そうですか……」


 私の言葉に込めた意思表示を、大和田は確かに拾った。


「先生にも、職業上の制約がおありなのは承知しています」


 大和田は続けた。


「ただ、本件は、通常の個人税務の範囲には収まりません。警備、外交、経済、自治体との調整、市場への影響、これらを考えていただきたい」


「理解はしているつもりです」


 大和田は、そこで少しだけ口元に笑みを浮かべた。


 それから、わかっていないとでも言いたげに首を振る。


「イーサン・ヴァルガス。55歳。推定資産150兆円。自動車、通信、宇宙開発、金融、エネルギー、SNS。関連企業は各国にまたがり、雇用も、株価も、通貨も動かす。本人がどこに拠点を置くかだけで、政治も市場も大きく反応する」


 大和田は、そこで一度言葉を切った。


「先生の事務所の中だけで収まる話ではありません。国益というものも考えていただきたい」


 私は、そこで少しだけ姿勢を正した。


「国益と、依頼者の情報をお話しすることは別です」


 大和田は、数秒だけ私を見ていた。


「なるほど」


 声の温度が、少し変わった。


「まずはお詫びからするべきでしたね。先日は、ご無礼を」


 私は顔を上げた。視線の先に、腰を折る二人の男の頭部が見えた。


「空港では、少々急なお願いになりました」


「頭を上げてください」


 私が言うと、大和田が先に姿勢を戻した。塚本はそれより半拍遅れた。


「ヴァルガス氏と接触した日本人弁護士がいるという報告を受け、我々も急ぎ空港へ向かった次第でして」


 大和田は「しかし――」と一言付け加えると、事務所を見回した。


 壁向こうにある書棚と父の写真。その方角へ顔が向いたところで、視線だけを私に戻した。


「閣下のお嬢様だったとは」


 久しぶりに聞く、父のあだ名だった。


 私は、机の端に並べた名刺を、人差し指で軽く揃えた。『大和田 修平』の名前に記憶はなかった。


「父とは面識が?」


「ええ。私も一時期、財務省におりました。直接の部下というわけではありませんでしたが、あの頃、麻生さんを知らない者はいなかった」


 大和田は、懐かしむような顔をした。


「今さらではありますが、お悔やみ申し上げます」


「ありがとうございます」


 私は短く頭を下げた。


 大和田は、それ以上父の話を続けなかった。


「さて、本日はこれで退散させていただきます」


 そう言って、大和田は立ち上がった。


「本日は、先生のお立場を確認できました」


 塚本も手帳を閉じ、それに続いた。


 私も立ち上がった。


 応接スペースを出ると、節子さんが事務室の方から顔を上げた。大和田は、その場で軽く会釈した。節子さんも立ち上がってそれに応えた。


 玄関まで案内し、エレベーターの方へ出ようとしたところで、大和田が片手を軽く上げた。


「ここで結構です。また何かの際には、ご協力をお願いします」


 さっきよりも、少しだけ柔らかい声だった。


 私は一拍置いて、頭を下げた。


「できることは」


 大和田は、それ以上は言わなかった。


 塚本も深めに会釈し、二人は折よく止まっていたエレベーターに乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 私は踵を返し、事務所の中へ戻った。


「先生」


 あかりが、自席から顔を上げた。


「何だったんですか?」


 私は応接テーブルに戻り、そこに置いたままの資料の束を指先で軽く叩いた。


「この件」


 あかりは、すぐに納得したような顔になった。


「みんな翻弄されてますねー」


 節子さんが、応接テーブルの湯飲みを盆に移した。結局、誰も湯飲みには口をつけなかった。


 あかりは手元の資料に視線を戻し、すぐに一枚を持ち上げた。


「あ、先生。ここなんですけど――」


 私は名刺を二枚重ね、机の端に置いた。




     ◇     ◇     ◇




 ビルを出ると、外の光が少し和らいでいた。


 歩道の照り返しが、靴の先に白く乗る。日差しを避けるように、ビルの影に沿って歩いた。


「あまり、出ませんでしたね」


 塚本が言った。


「そうでもない」


 歩道にはサラリーマンの姿が多く、12時を回ったということがわかった。


 社員証を首から下げた男たちが横を通り過ぎるのを待って、言葉をつづけた。


「ヴァルガスは来るぞ」


 私が言うと、塚本が顔を上げた。


「でも、何も決まっていないと」


「気づかなかったか?」


 私は歩きながら言った。


「電話が何度も鳴った。あの規模の事務所にしては多い。机の上の資料の束も、この時期にしては異常だ」


 私は、信号のない細い横断路の前で一度足を緩めた。小型の配送車が通り過ぎる。


「戻ったら内調に上げるぞ」


 塚本は歩きながら手帳を開きかけ、すぐに閉じた。


「どこまで伝えればいいでしょう」


「全部だ。見たもの、聞いたもの。それで向こうも気づく」


「はい」


「うちができるのはここまでだ。あとは本職に任せて、上の判断を待つ」


「分かりました」


 コインパーキングの精算機が見えてきた。黒に近いグレーのセダンが一台、端の区画に停まっている。


 塚本が精算機の前で足を止めた。


 差し出されたキーを受け取り、先に車へ向かう。


 助手席のドアを開けると、車内には外の熱がこもっていた。シートに腰を下ろし、ドアを閉める。


 車体の下で、ロック板が下がる音がした。


 少し遅れて、塚本が運転席に乗り込んでくる。


「お待たせしました」


 塚本がエンジンをかけると、送風口からぬるい風が出た。


 領収書をサンバイザーに挟んでから、塚本は車を発進させる。


「先ほどの、閣下というのは」


 私はシートベルトを引き出した。


「あの先生の父親の、省にいた頃のあだ名だ」


 行き交う車の間隔を探ってから、車はゆっくりと車道を左に曲がって進んだ。


「どういう由来なんです」


「口が悪くて、名前が麻生。そこへアニメの話だ。誰かが面白がって、そう呼び始めた」


「アニメですか」


「詳しかったからな」


 私は窓の外へ視線を逃がした。


「そんなに有名な方だったんですか」


 塚本の声には、少し意外そうな響きがあった。


「上とやりあったんだ。それも、かなり上の方と」


「今では考えられないですね」


「昔でも考えられなかったさ」


 麻生さんは、面倒な人だった。


 相手の立場は理解する。事情も聞く。けれど、忖度は一切しない。筋が通らなければ、会議の空気ごと止める。


 上にとっては、扱いにくい人だったと思う。


 ただ、下には面倒見がよかった。


 そこまで思い出して、さっきの応接室の顔が浮かんだ。


 似ている。


 思わず、口元が緩んだ。


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