表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第一章 水面下の嵐

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/21

第六話 黒塗りの仕事


 東京は、梅雨明けをしたらしい。


 朝のニュースで、天気予報士が晴れやかに言っていた。


 窓の外の光は、たしかに昨日より強い。ブラインドの隙間から入る光も、熱を帯びている。


 それでも、事務所の中の湿度は高かった。


 古いエアコンは、仕事をしていることを伝えようと、低い音を立てている。そろそろ、除湿器の購入も考えなければいけないかもしれない。


 モナコから戻って三日目には、暫定の運用ができていた。


 新規相談は、原則として受けない。継続中の案件は、期限の近いものだけ私が見る。外に出せる手続きは、外に出す。


 この方針のもと、事務所は実作業に入った。


 今日、机の上に乗った作業は三つ。登記情報の取得、在留関係の必要書類表、海外資料の条項翻訳。


 ほかにも動いているものはある。けれど、午前中にこちらから返さなければいけないのは、その三つ。


 視線を壁に向けると、時計は10時少し過ぎを指していた。


 その下のホワイトボードには、節子さんの字で来客予定が書かれている。


 来客まであと少し。それまでに、この三つはカタを付けておきたい。


「先生、これ、翻訳に出す意味ありますか?」


 あかりが、印刷資料の紙面を共有するように、横から差し出した。


 黒塗りが多い。契約書の本文は残っているが、当事者名、所在地、資産管理会社の名前、関係者の個人名、金額、日付の一部が消えていた。残っているのは、条項の骨だけだった。


「これだと、ニュアンスまで追いきれないですよね?」


「それでも翻訳しないことには始まらないから」


「そのまま使うのはできませんよね?」


「たしかに最終版にはならないわね」


 私はペンを取った。


 あかりが差し出した紙に、そのまま書き込んだ。あかりも慣れたもので、紙面をペンが走りやすいように傾け、裏から空いた手を添えた。


 引かれる二重線。


 黒塗りするべき箇所が増え、あかりは「ぐぇ」と喉の奥から奇妙な声をあげた。


「これ、戻ってきたら黒塗り部分埋めるんですか?」


「私がチェックして、あとはあかりが埋めて」


「出すために消して、また書いて……禅問答みたい」


「修行よ」


 言って、私はあかりの背中をぽんと叩いた。


 あかりはそれが意味するところを理解し、「ろっこんしょうじょう」とため息交じりに呟きながら、自分のデスクへ戻っていく。


 事務室の電話が鳴った。


「はい、麻生総合法律事務所でございます」


 それを受ける節子さんの声が、事務室から聞こえた。


「……はい、今回は、先生の方で完成版の一覧まで作っていただく形ではなくて、先に登記情報と権利関係だけ見ていただければと」


 登記――司法書士の山本先生だ。


 父の代から付き合いのある人で、相続や不動産が絡むと何度も助けてもらっている。


 節子さんの声が、少しだけ低くなった。


「……はい、お名前や最終の当て込みは、こちらでいたします。ええ、通常と違うお願いなのは承知しております。麻生の方で最後に整えますので」


 通常と違うお願い。


 その言い方なら、相手も受け止めやすい。


 信用していないわけではない。任せる範囲を絞っている。

 そういう形にしておかないと、相手も困る。


 外部の専門家は、手足ではない。判断の外側に置くなら、置く理由と責任の線をこちらで引かなければいけない。


 節子さんは電話を切り、メモを一枚持ってきた。


「山本先生、受けてくださるそうです」


「ありがとうございます」


「ただ、完成した一覧にはならないと念押しされました」


「その認識で問題ありません」


 節子さんは、メモを私の机に置いた。


 対象候補番号。

 登記情報取得のみ。

 一覧は暫定。


 節子さんの字は、いつも読みやすい。余計なことは書かないが、後で必要になる言葉は残っている。


「あとで対象候補の番号だけ整理して、山本先生に送ります」


「お願いします」


 節子さんが頷き、事務室へ戻りかけたところで、ふたたび電話が鳴った。


 あかりが、片手を肩まで上げて合図を寄越した。


「出ます――はい、麻生総合法律事務所です」


 私はノートPCを開いた。


 エヴァから届いたメールの内容を、もう一度確認する。


 必要な範囲で外部に情報を出すことは問題ない。


 ただし、本人の滞在先、今後の予定、資産構成が特定される情報は、公表前に外へ出さないこと。マスコミに拾われれば、市場が動く可能性がある。


 判断に迷う場合のみ、連絡を。そういう内容だった。


 要は『以上の方針のもと、基本的な判断は任せる』ということだ。


 私はその方針のもと、資料の黒塗りに戻った。


 名前を消す。


 地名を消す。


 金額を消す。


 その上で、仕事が進む形だけを残す。


「先生」


 保留に切り替えてなお、あかりは受話器の口を押さえて言った。


「固有名詞が入ってないので、訳語統一に限界があるって。最終版への反映はこちらでやる前提、お伝えしていいですよね?」


「ええ。条項部分を優先。不明箇所は空欄で戻してくださいと伝えて」


「背景事情は?」


「推測不要で」


「――了解です!」


 あかりは受話器に戻った。


 私は行政書士に出す依頼メモを、手元に引き寄せた。


 短期滞在。

 経営・管理。

 高度専門職。


 三つの見出しだけを置いて、その下は空欄にしてある。


 通常なら、ここには国籍、現在の在留資格、滞在目的、予定期間、所属機関、報酬額が入る。だが、今回は入れない。


 入れないまま、外部に必要書類の洗い出しだけを頼む。


 我ながら、乱暴な頼み方だと思う。


 けれど、今はそれしかできない。


 申し訳ないと、心の中で頭を下げた。


 そこへ、また電話が鳴った。


 顔を上げて事務室を見ると、節子さんは折り返しの電話中、あかりは先ほどの電話を継続。


 この事務所で、3回線目がふさがるのは、初めてのことだ。


 ノートPCを閉じ、受話器を取る。


「はい、麻生総合法律事務所。麻生です」


『ああ、麻生先生。高田です。いくつか確認したいことがあるんだけど、いまいい?』


 声が大きい、行政書士の高田先生だった。


 父の代からの付き合いで、在留関係や許認可では何度も助けてもらっている。


 私は受話器を耳から少し離し、続けた。


「お願いします」


『これ、申請書を作るんじゃなくて、必要書類のパターン表だけでいいって話?』


「はい。現時点では、申請そのものではなく、必要書類の洗い出しだけお願いします」


『在留資格別に?』


「短期滞在から入る場合、経営・管理で組む場合、高度専門職で見る場合。その三つでお願いします」


『国籍は?』


「いくつかの場合分けで」


『現在の在留資格は?』


「そこも固定しない形で」


『滞在目的は?』


「長期滞在を前提に、取り得る形を並べていただきたいんです」


 足早な会話の応酬が続いた後、電話の向こうで、高田先生が息を吐いた。


『麻生先生、それは申請じゃなくて、地図を作れって話だね』


 上手いことを言う。


「そうです」


『地図にしても、縮尺が分からない。国籍も在留資格も目的も、全部仮置きなんでしょう』


「申し訳ありません」


『いや、嫌いじゃないけどね。こういうのも』


 受話器の向こうで、紙をめくる音がした。


『細かい数字とか名前を入れないのは楽だけどさ、複数パターンはそれなりの量あるよ。普通なら、一パターンごとに見積もるやつ』


「個別と同様のご請求で構いません」


『え、個別でいいの? 数字も名前も当て込んでないのに?』


「最後にこちらで当て込みます。高田先生には、条件ごとの必要書類と、足りなくなりやすい書類の洗い出しをお願いしたいんです」


『そりゃ、うちはありがたいけどさ』


 高田先生は、少し笑った。


『豪気なクライアントさんだねえ』


「そういう方です」


『もしかして――』


 一瞬、鼓動が早くなった。


『政治家?』


「いえ、違います」


『上場会社の創業者とか』


「そのあたりも、今はお答えできない状況でして」


『そうだよね、ごめんごめん。ただ、この出し方だと、うちが作るのは提出用の書類じゃない。部品だよ。最後に組み立てるのはそっち。そこは後からひっくり返さないでね』


「もちろんです」


『一般論の表って便利だけど、危ないからね。条件を一つ入れ替えたら、必要書類が変わる。普通の個人じゃないなら、普通の表じゃ済まないこともある。そのあたり、事務所の子にも言っておいてね』


「ご配慮、ありがとうございます」


『じゃ、そういうことで』


 受話器を置くと、あかりが手元の書類を束ねながら、こちらを見ているのがわかった。


「豪気なクライアントさん」


「聞こえたの?」


「高田先生の声、大きいですから」


 二人で、表情だけで笑った。


 机の上の、登記、翻訳の修正紙、在留関係、三つのメモ。


 私は在留メモの端に、赤で一つ丸をつけた。これで少し進んだ。


 費用のことは、後で報告書に付け足しておこう。


 私は壁に目をやり、時刻を確認した。


 ホワイトボードに書かれた、一件の来客。


 その一件の前に、もう少し手元を減らしておきたかったが、思ったほどは減っていない。


 成田で声をかけられてから、もう数日になる。


 あのときのことは、まだ新しい。人生でそうある経験ではない。なにより、他の乗客の視線が痛かった。


 ターンテーブルのベルト。


 スーツケース。


 濃紺のスーツの男たち。


 包囲される私。


 お時間を、と言う男たちに対し、私は『後日、事務所でお話を伺います』と答えた。


 だから今日、彼らが来る。


 インターホンが鳴る。


 こわばった自分自身に対し、『落ち着け』と深く呼吸をして暗示をかけた。


「先生、お客様がお見えです」


 私は、居住まいを正して立ち上がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ