第六話 黒塗りの仕事
東京は、梅雨明けをしたらしい。
朝のニュースで、天気予報士が晴れやかに言っていた。
窓の外の光は、たしかに昨日より強い。ブラインドの隙間から入る光も、熱を帯びている。
それでも、事務所の中の湿度は高かった。
古いエアコンは、仕事をしていることを伝えようと、低い音を立てている。そろそろ、除湿器の購入も考えなければいけないかもしれない。
モナコから戻って三日目には、暫定の運用ができていた。
新規相談は、原則として受けない。継続中の案件は、期限の近いものだけ私が見る。外に出せる手続きは、外に出す。
この方針のもと、事務所は実作業に入った。
今日、机の上に乗った作業は三つ。登記情報の取得、在留関係の必要書類表、海外資料の条項翻訳。
ほかにも動いているものはある。けれど、午前中にこちらから返さなければいけないのは、その三つ。
視線を壁に向けると、時計は10時少し過ぎを指していた。
その下のホワイトボードには、節子さんの字で来客予定が書かれている。
来客まであと少し。それまでに、この三つはカタを付けておきたい。
「先生、これ、翻訳に出す意味ありますか?」
あかりが、印刷資料の紙面を共有するように、横から差し出した。
黒塗りが多い。契約書の本文は残っているが、当事者名、所在地、資産管理会社の名前、関係者の個人名、金額、日付の一部が消えていた。残っているのは、条項の骨だけだった。
「これだと、ニュアンスまで追いきれないですよね?」
「それでも翻訳しないことには始まらないから」
「そのまま使うのはできませんよね?」
「たしかに最終版にはならないわね」
私はペンを取った。
あかりが差し出した紙に、そのまま書き込んだ。あかりも慣れたもので、紙面をペンが走りやすいように傾け、裏から空いた手を添えた。
引かれる二重線。
黒塗りするべき箇所が増え、あかりは「ぐぇ」と喉の奥から奇妙な声をあげた。
「これ、戻ってきたら黒塗り部分埋めるんですか?」
「私がチェックして、あとはあかりが埋めて」
「出すために消して、また書いて……禅問答みたい」
「修行よ」
言って、私はあかりの背中をぽんと叩いた。
あかりはそれが意味するところを理解し、「ろっこんしょうじょう」とため息交じりに呟きながら、自分のデスクへ戻っていく。
事務室の電話が鳴った。
「はい、麻生総合法律事務所でございます」
それを受ける節子さんの声が、事務室から聞こえた。
「……はい、今回は、先生の方で完成版の一覧まで作っていただく形ではなくて、先に登記情報と権利関係だけ見ていただければと」
登記――司法書士の山本先生だ。
父の代から付き合いのある人で、相続や不動産が絡むと何度も助けてもらっている。
節子さんの声が、少しだけ低くなった。
「……はい、お名前や最終の当て込みは、こちらでいたします。ええ、通常と違うお願いなのは承知しております。麻生の方で最後に整えますので」
通常と違うお願い。
その言い方なら、相手も受け止めやすい。
信用していないわけではない。任せる範囲を絞っている。
そういう形にしておかないと、相手も困る。
外部の専門家は、手足ではない。判断の外側に置くなら、置く理由と責任の線をこちらで引かなければいけない。
節子さんは電話を切り、メモを一枚持ってきた。
「山本先生、受けてくださるそうです」
「ありがとうございます」
「ただ、完成した一覧にはならないと念押しされました」
「その認識で問題ありません」
節子さんは、メモを私の机に置いた。
対象候補番号。
登記情報取得のみ。
一覧は暫定。
節子さんの字は、いつも読みやすい。余計なことは書かないが、後で必要になる言葉は残っている。
「あとで対象候補の番号だけ整理して、山本先生に送ります」
「お願いします」
節子さんが頷き、事務室へ戻りかけたところで、ふたたび電話が鳴った。
あかりが、片手を肩まで上げて合図を寄越した。
「出ます――はい、麻生総合法律事務所です」
私はノートPCを開いた。
エヴァから届いたメールの内容を、もう一度確認する。
必要な範囲で外部に情報を出すことは問題ない。
ただし、本人の滞在先、今後の予定、資産構成が特定される情報は、公表前に外へ出さないこと。マスコミに拾われれば、市場が動く可能性がある。
判断に迷う場合のみ、連絡を。そういう内容だった。
要は『以上の方針のもと、基本的な判断は任せる』ということだ。
私はその方針のもと、資料の黒塗りに戻った。
名前を消す。
地名を消す。
金額を消す。
その上で、仕事が進む形だけを残す。
「先生」
保留に切り替えてなお、あかりは受話器の口を押さえて言った。
「固有名詞が入ってないので、訳語統一に限界があるって。最終版への反映はこちらでやる前提、お伝えしていいですよね?」
「ええ。条項部分を優先。不明箇所は空欄で戻してくださいと伝えて」
「背景事情は?」
「推測不要で」
「――了解です!」
あかりは受話器に戻った。
私は行政書士に出す依頼メモを、手元に引き寄せた。
短期滞在。
経営・管理。
高度専門職。
三つの見出しだけを置いて、その下は空欄にしてある。
通常なら、ここには国籍、現在の在留資格、滞在目的、予定期間、所属機関、報酬額が入る。だが、今回は入れない。
入れないまま、外部に必要書類の洗い出しだけを頼む。
我ながら、乱暴な頼み方だと思う。
けれど、今はそれしかできない。
申し訳ないと、心の中で頭を下げた。
そこへ、また電話が鳴った。
顔を上げて事務室を見ると、節子さんは折り返しの電話中、あかりは先ほどの電話を継続。
この事務所で、3回線目がふさがるのは、初めてのことだ。
ノートPCを閉じ、受話器を取る。
「はい、麻生総合法律事務所。麻生です」
『ああ、麻生先生。高田です。いくつか確認したいことがあるんだけど、いまいい?』
声が大きい、行政書士の高田先生だった。
父の代からの付き合いで、在留関係や許認可では何度も助けてもらっている。
私は受話器を耳から少し離し、続けた。
「お願いします」
『これ、申請書を作るんじゃなくて、必要書類のパターン表だけでいいって話?』
「はい。現時点では、申請そのものではなく、必要書類の洗い出しだけお願いします」
『在留資格別に?』
「短期滞在から入る場合、経営・管理で組む場合、高度専門職で見る場合。その三つでお願いします」
『国籍は?』
「いくつかの場合分けで」
『現在の在留資格は?』
「そこも固定しない形で」
『滞在目的は?』
「長期滞在を前提に、取り得る形を並べていただきたいんです」
足早な会話の応酬が続いた後、電話の向こうで、高田先生が息を吐いた。
『麻生先生、それは申請じゃなくて、地図を作れって話だね』
上手いことを言う。
「そうです」
『地図にしても、縮尺が分からない。国籍も在留資格も目的も、全部仮置きなんでしょう』
「申し訳ありません」
『いや、嫌いじゃないけどね。こういうのも』
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
『細かい数字とか名前を入れないのは楽だけどさ、複数パターンはそれなりの量あるよ。普通なら、一パターンごとに見積もるやつ』
「個別と同様のご請求で構いません」
『え、個別でいいの? 数字も名前も当て込んでないのに?』
「最後にこちらで当て込みます。高田先生には、条件ごとの必要書類と、足りなくなりやすい書類の洗い出しをお願いしたいんです」
『そりゃ、うちはありがたいけどさ』
高田先生は、少し笑った。
『豪気なクライアントさんだねえ』
「そういう方です」
『もしかして――』
一瞬、鼓動が早くなった。
『政治家?』
「いえ、違います」
『上場会社の創業者とか』
「そのあたりも、今はお答えできない状況でして」
『そうだよね、ごめんごめん。ただ、この出し方だと、うちが作るのは提出用の書類じゃない。部品だよ。最後に組み立てるのはそっち。そこは後からひっくり返さないでね』
「もちろんです」
『一般論の表って便利だけど、危ないからね。条件を一つ入れ替えたら、必要書類が変わる。普通の個人じゃないなら、普通の表じゃ済まないこともある。そのあたり、事務所の子にも言っておいてね』
「ご配慮、ありがとうございます」
『じゃ、そういうことで』
受話器を置くと、あかりが手元の書類を束ねながら、こちらを見ているのがわかった。
「豪気なクライアントさん」
「聞こえたの?」
「高田先生の声、大きいですから」
二人で、表情だけで笑った。
机の上の、登記、翻訳の修正紙、在留関係、三つのメモ。
私は在留メモの端に、赤で一つ丸をつけた。これで少し進んだ。
費用のことは、後で報告書に付け足しておこう。
私は壁に目をやり、時刻を確認した。
ホワイトボードに書かれた、一件の来客。
その一件の前に、もう少し手元を減らしておきたかったが、思ったほどは減っていない。
成田で声をかけられてから、もう数日になる。
あのときのことは、まだ新しい。人生でそうある経験ではない。なにより、他の乗客の視線が痛かった。
ターンテーブルのベルト。
スーツケース。
濃紺のスーツの男たち。
包囲される私。
お時間を、と言う男たちに対し、私は『後日、事務所でお話を伺います』と答えた。
だから今日、彼らが来る。
インターホンが鳴る。
こわばった自分自身に対し、『落ち着け』と深く呼吸をして暗示をかけた。
「先生、お客様がお見えです」
私は、居住まいを正して立ち上がった。




