第五話 雨上がりの倉庫街
雨は上がっていた。
路面にはまだ水が残っている。倉庫の壁に据えられた古いライトが、水たまりの表面を鈍く照らしていた。明るいというより、汚れを浮かび上がらせる光だった。
油の匂いがした。錆の匂いもある。
濡れたコンクリートの上には、煙草の吸い殻がいくつも潰れていた。雨は降ったが、踏み消された跡までは洗い流していない。ここに残るものは、だいたいそうだ。水で流れるものと、流れないものがある。
港の端は、夜になると人の顔が消える。
名前も、肩書きも、ここでは半分くらいしか意味を持たない。残るのは、誰の後ろに誰がいるか。誰が誰に口を利けるか。誰の目を見て、誰が黙るか。
若頭は、黒いセダンの横に立っていた。
煙草を吸っている。
火の先が暗がりの中で短く赤くなった。吸うたびに頬の線が浮き、吐くたびに煙が湿った空気の中へ沈んでいく。
「……遅えな」
声は低かった。
大きな声ではない。だが、その一言で、近くにいた男たちの肩が少しずつ固くなった。誰も若頭を見ない。見ないことで、若頭の機嫌を測っている。
俺は時計を見た。
約束の時刻を7分過ぎていた。
「来ますよ」
「根拠は」
「来ねえ理由がない」
若頭の目がこちらへ動いた。
黒目がちで、光の入りにくい目だった。怒っているわけではない。笑っているわけでもない。ただ、何かを見定める時の目だった。
俺はその目を受けた。
若頭は、喉の奥で小さく笑った。
「お前は、そういう言い方をする」
俺は返事をしなかった。
倉庫の前には車が5台あった。こちらが3台。相手方が入る場所を空けて2台分。表に6人。中に8人。奥の事務所に2人。屋上に1人。
人が多い。
普通の取引なら、こんなに並べない。顔が増えれば、口も増える。口が増えれば、漏れる。漏れたものは戻らない。
それでも若頭は並べた。
今夜は、ただ荷を動かす夜ではない。
若頭は、組織の中で上に行くために、やれることはすべてやるつもりだった。敵を潰す。味方を増やす。金を作る。上に見せる。下に見せる。怖がらせる。惚れさせる。そういうものを全部一晩の中に詰め込もうとしていた。
若頭の悪い癖でもあり、強さでもあった。
勝つというのは、誰かを潰すということだ。若頭はそれを分かっている。分かっているから、煙草の吸い方が荒い。
「新藤のところ、今ごろ何してますかね」
横にいた男が言った。
若頭の鈍い眼光がゆっくりと動き、男をとらえた。
それだけで、男は口を閉じた。
誰も笑わなかった。
雨上がりの空気の中で、吸いかけの煙草の火だけが動いていた。
新藤の名前は、ここで出すものじゃない。
若頭と同じ代で、同じくらい人を持っている。上からは嫌われている。下からは慕われている。そういう男は面倒だ。面倒な男を正面から潰せるほど、若頭はまだ上にいない。だから今夜の荷が必要だった。
地方の小さい組が二つ、すでに若頭の下に入っている。もう一つ入れば、地図が変わる。地図が変われば、本部の椅子も変わる。
そういう話は、誰も口に出さない。
出す奴から死ぬ。
倉庫の扉は半分だけ開いていた。
中にケースが積まれている。黒いビニールシートをかけてある。中身を見たのは、若頭と俺だけだ。
若頭はケースを一つ開けた。包装を見た。指で撫でた。
それだけで、目の色が変わった。
「今夜で決まる」
若頭は言った。
俺は、はい、と答えた。
五年。
頭の隅に数字が出た。
すぐ消した。
五年だろうが十年だろうが、今夜ミスれば同じだ。濡れたコンクリートに転がって終わる。名前も残らない。こういう場所では、積み上げたものほど一瞬で崩れる。
屋上の男が、こちらへ小さく手を上げた。
俺は顔を上げた。
倉庫街の奥から、ヘッドライトが曲がってきた。黒いワゴンが一台。後ろに白いバン。少し遅れて、もう一台。
スピードを落として進む。エンジン音は低い。
相手方も、今夜を軽く見てはいない。遅れて来て、ゆっくり見せて、こちらの苛立ちを測る。いや、敵意が無いことをアピールしたいのかもしれない。まあ、どっちでもいいことだ。
若頭が煙草を落とした。
靴底で踏み潰す音がした。湿ったコンクリートに、ジュっと火が押し込まれる。
「来たな」
俺は一歩、若頭の前に出た。
車が止まる。
ドアが開いた。
降りてきたのは三人。車内に残っている人影はない。
先頭は背が低く、首が太い。荒仕事専用か、肉壁か。二人目は鞄を持ち、三人目は周りを見ている。
たしかに、素人じゃない。かといって、極道でもない。
俺は三人の靴に目をやった。小綺麗な服に対して、安っぽく、くたびれた靴だ。
「待たせたな」
先頭の男が言った。
「待ってねえ」
若頭が言った。
声は低い。
顎だけで倉庫の中を示す。
一同はそれを合図に、倉庫の中に進んだ。
「ずいぶん立派な場所だ」
「お前らに見せるためじゃない――で、どれくらい揃えた」
苛立ちを殺している時の肩だ。
男が手にしたかばんをコンクリートの上に置き、無造作にジッパーを開いた。中には、お目当てのものがあった。
「これと同じ鞄が、五十」
男は笑っていた。笑っているが、目は笑っていない。こいつも、この量が何を意味するか分かっている。
鞄の大きさから見て、ブツは10キロ前後。
総数500キロ。末端で300億円。
「桁が違うな」
「だからこそだろ」
若頭が言った。
「これで、ヤツも黙るしかねえ」
若頭は、あえて名前を出さなかった。
若頭は笑っていた。
確信に近い笑みだった。
若頭は、これで上がる。
そう信じている顔だった。
「若頭、急ぎましょう」
「まあ、この量だ。さすがのお前も――」
そこで若頭は言葉を止めた。
俺の目を見たからだ。
俺は倉庫の天井を見上げた。
月夜なら、天窓から白い光が落ちる。だが今夜は曇っている。ガラスの向こうは黒く、屋上の輪郭もつかみづらい。
見張りからの次の合図はない。
それでも、空気は変わっていた。
外の音が薄い。
倉庫街は夜でも音がある。遠くのトラック。冷蔵機の唸り。海側の機械音。酔った作業員の声。
いくつかが消えていた。
消える時は、一度に消える。
俺はもう一度言った。
「早く済ませた方がいい」
若頭は黙ってうなずき、相手方に向き直った。
「運べ」
コンクリートに膝を落としていた男は、手元の鞄を守るように抱え込んだ。
「先に金だ」
男が声を荒げた。
「金を出せ!」
若頭は顎を動かした。
若い衆が二人、黒いボストンバッグを重そうに持ち上げ、男の前に無造作に投げた。濡れた路面に底が擦れ、鈍い音を立てた。
男は飢えた獣のようにファスナーを開けると、中身を確認した。手垢ついた紙幣が顔をのぞかせた。
「残りは」
相手方の男が言った。
「外のトラックだ」
若頭が答えた。
「積み替えと同時に渡す」
「先に全部見せろ!」
「……この量をここで広げる馬鹿がいるか?」
若頭の声が低くなった。
男の笑みが消えた。
「いいだろう」
その一言で、倉庫の中が動き出した。
若い衆がケースに手をかける。相手方の男たちが鞄を持ち直す。外ではトラックのバック音が短く鳴った。誰かがシャッター側へ走る。
人が動く。
金が動く。
荷が動く。
こういう時が一番まずい。
全員が、自分の手元だけを見る。
俺は天窓を見た。
合図はない。
だが、外の音が消えすぎていた。
次の瞬間、倉庫の外で何かが倒れた。
金属がコンクリートを叩く音。
続いて、視界を奪う白い光。
俺は反射で目を細め、左手を額の前に上げていた。
光をまともに食らった連中が、一拍遅れる。その一拍で、倉庫の中の輪郭だけは見えた。若頭の肩。相手方の男の鞄。床に置かれた金。シャッター側へ走りかけた若い衆の背中。
「――動くな! 警察だ!!」
若頭は一瞬だけ怒りに顔をしかめ、すぐに動いた。
身を低くしながら、上着の内側へ手が入る。
この男の、若頭の、野生じみた最適解への判断の速さは嫌いじゃない。
俺はその手首を掴んだ。
「こっちです」
「離せ」
「今抜いたら終わりです」
若頭の目が俺を刺した。
一拍。
それで判断した。
若頭は俺に従った。
俺は足元のボストンバッグを蹴り飛ばした。札束がこぼれた。男たちが、反射的に群がった。
「その場を動くな!」
声が割れた。
何人かが伏せた。何人かが走った。馬鹿は叫んだ。
俺は若頭を倉庫の奥へ押した。
パレットの隙間を抜ける。背後でケースが崩れた。誰かが床に叩きつけられる音。無線。怒号。靴音。
相手方の三人目が入口へ走った。
すぐ押さえられた。
逃げ足の奴は、逃げる場所を間違える。
俺は奥の小扉を開けた。
蝶番が嫌な音を立てる。
外は細い通路。倉庫と倉庫の間。壁が高く、雨水が排水溝に残っている。暗い。臭い。だが、ここにサツはいない。
若頭が先に出た。
俺は半歩後ろにつく。
「誰が売った! 誰が新藤に漏らしたっ!!」
若頭が吐いた。
「今は走ってください」
「――誰だ!!」
「後で始末すればいい」
若頭は短く笑った。
足元が、冷静さを取り戻した。
通路を抜ければ裏の車道に出る。そこに車を一台置いてある。俺が用意し、若頭とだけ共有した、万が一のルート。
赤色灯の明かりが、コンテナの上を飛び交った。
「左です」
「左は袋小路だ」
「抜けられます」
人ひとりなら抜けられる。
若頭は迷わなかった。
左へ入る。
古いフェンスと倉庫の壁に挟まれた路地だった。業務用のゴミ箱が二つ。奥に低い階段。その先にフェンスの切れ目がある。
若頭の息が荒い。
疲れじゃない。
怒りがまた湧き出したようだった。
「落とし前はつけるぞ!」
若頭が走りながら言った。
「はい」
「必ずだ!!」
「はい」
「……ならいい」
若頭はそれだけ言った。
角を曲がった。
「う――動くな!!」
警官がいた。
若い。
制服の上に防具。両手で拳銃を構えている。足が少し開きすぎ、顔が固い。
絵にかいたような新人警官だ。
若頭の手が動いた。
今度は止められない。
俺は先に抜き、引き金を引いた。
乾いた音がコンテナの間を走った。
警官の身体がコンテナに寄りかかり、ずり落ちるように崩れた。息を詰まらせる音がした。
若頭が俺を見た。
「行け」
俺は言った。
「音で寄ってくる、行け!!」
「お前は――」
「こいつを隠して、すぐ行く」
若頭は頷き、迷いない足取りで階段を越え、フェンスの切れ目に身体を滑り込ませ、闇に消えた。
俺は倒れた警官の襟を掴んだ。
重い。
濡れた服は余計に重い。
「悪いな」
警官は答えなかった。
俺はコンテナの切れ目まで引きずった。靴の踵が路面を擦る。
遠くから靴音が近づく。
若頭が消えた方を一度だけ見た。
◇ ◇ ◇
赤色灯が倉庫の壁を舐めていた。
男たちが次々に連れて行かれる。手錠の音。無線。怒鳴り声。押収品を数える声。記録係を呼ぶ声。
濡れた路面は乾き始めている。それでいい。
逃げた奴も、殴った奴も、名前を呼ばれた奴も、押さえつけられた奴も、後になれば書類の行になる。紙の上では、泥の匂いはしない。
倉庫の入口近くでは、押収品の確認作業が進められていた。時折、警官の声が上がった。
俺は視線を連行される列に向けた。
若頭は、最後の方だった。
両脇を押さえられていた。暴れない。叫ばない。顔は上げている。口の端が切れていた。誰かに殴られたのだろうか。
若頭は負けた時の顔を人に見せない男だった。だから余計に、顔を上げていた。最後まで、下に見せる姿を選んでいる。そういうところが、人を惹きつけたのだろう。
列の中、前を歩く若い衆が言った。
「若頭、早瀬さんは?!」
若頭は答えなかった。
別の男が、代わりに答えた。
「サツ撃ったってよ」
「マジか」
「若頭逃がすために撃ったらしい」
俺は、警察車両の影からその列を見送った。
煙草を出す。
火をつけた。
うまくない。
吸っても、口の中に雨の味が残る。
五年。
酒の席。組事務所の階段。葬式。詰めた指を包む白い布。地方の小さな看板が外される音。若頭が笑った夜。若頭が俺を呼ぶ声。
どれも、今夜のためにあった。
整理はつく。少し時間が必要なだけだ。
五年分の泥が、靴底に残っている気がした。これだけは、乾くことはないのかもしれない。
「……っつ」
背後から、押し殺した声がした。
振り向くと、泥だらけの警官が、胸を押さえながら歩いてきた。制服の前を少し開けて、防弾チョッキのプレートを指で叩く。
乾いた、鈍い音がした。
「早瀬さん、いきなりは勘弁してくださいよ」
「マル被が抜く方が早かった」
「だからって、こっちの準備もあるでしょう」
「準備は先に済ませとけ」
警官は顔をしかめた。
弾は止まっているはずだ。
「肋骨は」
「たぶん大丈夫です。明日になったら分かります」
「なら報告書は書けるな」
「俺が? 撃たれたのに?」
「撃たれた本人が一番詳しい」
警官は小さく息を吐いた。
赤色灯が顔に入る。
若いように見えて、こいつももう三十を過ぎたはずだ。路地で銃を構えていた時より、少しだけ立派に見える。
「終わりましたね」
「ああ」
「若頭、最後まで信じてましたよ」
俺は新しい煙草に火をつけた。
「そう見えたか」
「見えました」
「なら、それでいい」
警官は黙った。
現場の向こうで、押収品が運ばれていく。帳簿。携帯、車両、現金。大事な、犯罪の証だ。先は長い。
一晩で終わる話じゃない。
ここから何日も人が動く。供述を取る。金を追う。地方の組に手が伸びる。組織が広げた地図は、ここから逆に畳まれることになるだろう。
若頭は、上に行くために全部やった。
その全部が、今度は下へ落ちるための重りになる。組織というものは、そういうふうにできている。上がる時に掴んだ手が、落ちる時には全部足首を掴む。
「主要は全部乗りましたね」
警官が言った。
「倉庫の中の分も、事務所の帳簿も押さえてます。新藤の名前も出ます」
「出ます、じゃ弱い」
「出します」
「そうしろ」
「はい」
警官は胸を押さえたまま頷いた。
風が、海面を抜けてきた。汗が冷える。こんな夜は、身体に残る。
「そういえば」
警官が言った。
「お子さん、試合で点取ったらしいですね」
俺は煙草を投げ捨て、足の裏でもみ消した。
「誰から聞いた」
「係長です。昨日、奥さんから連絡があったとか」
「一点か」
「二点だそうです」
「俺に似たな」
「そこは奥さんじゃないですか」
俺は警官を見た。
警官は一歩下がった。
「もう一発いくか」
「勘弁してください」と、警官は笑った。
赤色灯の向こうに、夜明け前の空がある。まだ黒い。端だけが少し薄い。
子供の顔が浮かびかけた。
「休めるんですか」
警官が訊いた。
「さあな」
「五年終わったんですから、少しは」
「その前に一件ある」
警官が眉を上げた。
「また潜るんですか」
「違う」
「じゃあ何です」
「繋ぎだよ」
俺はコートのポケットに手を入れた。
さっきのが、最後の一本だったらしい。
「子供の顔を見るのは、それが終わってからになるな」
警官は何か言いかけて、やめた。
無線が鳴る。
警官はそちらを向いた。呼ばれている。
「報告、上げておきます」
「余計なことは書くな」
「撃たれたことは?」
「必要な分だけ書け」
「痛かったことは?」
「日記に書け」
警官はもう一度笑い、たたずまいを直した。
「早瀬さん」
背筋を伸ばした、凛とした敬礼。
「お疲れさまでした」
そう言って、赤色灯の塊に向かって行った。
俺は携帯を取り出した。
未読が一つ。
子供の写真ではなかった。
集合場所と、時間だけが表示されていた。
繋ぎ仕事。
「俺に似たんだよ」
夜明け前の空は、まだ黒かった。




