第三話 住むつもりだよ
エヴァが、膝に置いていたタブレットの画面を、ローテーブルのほうへ起こした。
その動作だけで、室内の空気が打ち合わせの形に整った。
私もノートを開き、ボールペンの背をタップした。集中する時にいつもしているように、ノートの一番上に日付と相手の名前を書く。今日は、相手の欄を二行使った。
「まず、先生にお願いしたい範囲を確認させてください」
エヴァの声は、電話で初めて打診を受けたときと、ほとんど同じ調子だった。
「ボスの個人税務、特に日本側です。それから、住所判定に関わる事実整理。日本国内で発生する、行政からの照会への初期対応。先生にお願いしたいのは、この三つです」
「法人のほうは?」
「別系統です。投資先、財団、警備、広報、それぞれ別の窓口を持っています。先生のところに混ざってこないように、こちらで仕切ります」
私はうなずいて、ノートに三つの項目を書きつけた。書き終える前に、もう一度頭の中で順序を入れ替えた。住所判定が一番上にあるべきだ。残りはそこから降りてくる。
「いくつか、先に確認させてください」
「どうぞ」
「日本側で代理人として動く範囲は、どの種類の手続きまでですか。税務署対応だけなのか、調査が入ったときの立会いまでなのか。委任状の様式は」
「現時点では、税務に関する一般的な代理権限です。書面はこちらで案を作ってお送りします。先生のほうで、必要であれば修正をお願いします」
「分かりました」
私はノートに、『代理権限』と書いた横に、丸括弧で(要確認)と小さく書き足した。
「次に、行政からの照会の経路です。すべて私の事務所に集約されると、書類が混ざります。法人用と個人の境目が曖昧な照会が来たとき、私の判断だけで応じるのは、難しい場面が出ます」
「ええ」
「窓口は私で結構ですが、内部で別系統に振り分けられるようにしてください。それと、原則として、要約だけでなく、原資料を私が確認できる経路を用意していただきたい」
「分かりました。こちらで運用を作ります」
エヴァの返事には、迷いがなかった。むしろ、私の言ったことの半分は、彼女の頭の中ですでに組み立てられていたように見えた。
彼女は何かを画面に入力し、それから言った。
「もうひとつ。窓口を一つに見せすぎないほうが、ボスにとって安全です。先生のお名前が一番手前に出続ける形は、避けます」
私はうなずいた。それは、私の側からも言うつもりだった。
「資料を見せていただけますか。最初の確認用に、必要な範囲で結構です」
「お渡しします」
エヴァはタブレットを私のほうへ向けた。
画面に、フォルダの一覧が並んでいた。
『Personal-Assets』『Trust-Holdings』『Foundation-Real-Estate』『Aircraft』『Yacht』『Art』
私が知っている資産科目の英単語と、知らない英単語が並んでいた。
各フォルダの脇には、サブフォルダの数が小さく表示されていた。『Trust-Holdings』、と書かれた行の脇には、二桁の数字。
私はその行に指を触れた。
また同じ画面が現れた。地域別、それぞれの中に法域別、そのまた中に年度別。下に行くたびに、枝が増えた。
エヴァが、別のフォルダを開いて見せた。『Real-Estate』。並んでいるのは、不動産の所在地名だった。私の知っている地名と、知らない地名が混ざっていた。並びはアルファベット順だったが、途中までしか目で追えなかった。
私はノートに、『Trust-Holdings』、と書いた。続けて括弧を開いた。中に書くつもりで一度ペンを止め、結局、括弧だけを残した。
もう一つ括弧を作り、『Real-Estate』、と書いた。中身はやはり書かなかった。
画面の中の資料には、重さがない。手で持つ書類なら、ある段階で「持ちきれない」という限界が、手の中に来る。あれが来ない。開くたびに、ただ次の階層が増える。
「初期確認用に、こちらで選んだフォルダがあります」
エヴァが、画面の上のほうを指で示した。『Initial-Review』、というフォルダが新しく増えていた。中身を開くと、十数の項目が並んでいた。
「これだけで」と私は言いかけて、続きを呑み込んだ。
「全体の見え方を掴んでいただくのに、まずこの範囲で十分かと」
私は、十数項目、とノートの隅に書きとめた。書きとめてから、その文字を一度、線で消した。数を書いても意味がない、と思い直した。
「住所のことなんですが」
エヴァが、別の小さなウィンドウを画面に出した。
「現時点では、モナコを軸に整理しています。長く動いてきた中で、ここがいちばん書類上の歴史が長いので。日本に拠点を移される前提でも、今回の整理は、一旦ここを起点に組み立てるのが効率的だと考えています」
エヴァが話している横で、彼がローテーブルの脇に置いたコーラの缶を取った。
プルタブを起こす音が、室内で意外に大きく響いた。
「日本に住むつもりだよ」
ヴァルガスは、缶のふちから一度口を離して、言った。
日本語だった。発音は、最初の挨拶のときと同じ、平坦な抑揚で、けれど一つも崩れなかった。それは、私ではなくエヴァに向けた言葉だった。
「住所を、日本に置くつもりです。だから、そのつもりで組んでください」
今度は、私を見ていた。
エヴァは、表情を変えなかった。
私は、ノートに視線を戻した。住所、という三文字を書きつけ、横に矢印を引き、日本、と書いた。書きながら、それを書いている自分の手の、いつもより少しゆっくりとした速さに気づいた。
「ヴァルガスさん」
顔を上げ、私はヴァルガスのほうを見た。
「いまのお話、ご希望として承りました。税務上の住所判定は、ご希望とは別の話です。実際の滞在日数、住居の利用の仕方、生活の本拠がどこにあるか、資産管理の実態がどこで動いているか、それらを資料で確認した上で、別に検討します」
彼は、缶を片手に持ったまま、私を見ていた。
「うん」
「ご希望は希望として承りました。判定は、こちらで詰めます」
「うん」
彼は短く笑った。声を立てる笑い方ではなかった。口の端だけが少し動いて、また戻った。
「ナオは、堅いね」
ヴァルガスの口の中で、私の名前が、ナオ、と平らに発音された。
驚かなかった、と言えば嘘になる。けれど私は驚きを表情には出さず、ノートに、滞在日数、と書きつけた。続けて、入出国記録、宿泊先、国内執務場所、と並べた。手を動かすほうが先にあった。
「私の仕事の建付けが、堅いだけです」
「いいよ。堅くしてもらわないと困る」
彼は缶を置いた。
エヴァが、私の挙げた項目を、画面の別のウィンドウに入力していた。いくつかは、すでに似た言葉で並んでいた。
「会議記録、国内スタッフとの契約関係、生活用の口座、寄付・財団活動と個人活動の切り分け。これらも、初期段階で確認させてください」
「全部、ありますよ」とヴァルガスが言った。
「ある、というのは、整理されている、という意味でいいですか」
「整理は、ナオに任せます」
「分かりました」
エヴァが、入力の手を止めた。
「先生の事務所は、何名ですか」
「事務員と助手を入れて、三名です」
言ってから、私は短く息を吸った。
「私の事務所だけでは、この案件全体の窓口は無理です。私の事務所を中核にして、外部の専門家を入れる形なら可能です。各国税法、信託、財団法務、それぞれに必要な人選があります。人選は、こちらで行います」
彼が、缶のロゴのほうへ視線を落とした。
「弱音じゃないね」
「業務範囲の整理です」
「いいよ」
彼は、もう一度缶を取り上げた。今度は飲まずに、缶のロゴの方向を、軽く回して見ていた。
「ナオが決めてください」
ヴァルガスは、缶のロゴから目を離さずに言った。
「人選も、組み方も、ナオが決めて、エヴァに言ってください。エヴァが、私に必要な分だけ伝えます」
「承知しました」
エヴァが、画面を一度閉じた。
打ち合わせは、そこで一段落した気配になった。
彼は、缶を置いた手を、テーブルの端に乗せたままにした。
「ナオ」
ヴァルガスが、私を見た。
「アソーは、あなたのお父様だよね?」
最初、誰のことを言われているのか、一拍、分からなかった。
「三年前に亡くなりました」
彼は、缶のところに視線を落とし、それからもう一度、私を見た。
「ええ、残念です」
その間が、長くはなかった。湿った間ではなかった。
父を知り、そのうえで私に依頼が来た。
私は、閉じたノートの角を親指で一度押さえた。依頼の経路が、繋がった気がした。
「昔、アソーに会いました」
ヴァルガスは続けた。
「アメリカの会合で、一度だけ、会いました」
彼は、少し笑った。
「ビジネスの話が、途中からアニメの話になりました。アニメの話なのに、ちゃんとビジネスの話でもある。面白かったです」
私は、目を伏せて、ノートの端を一度撫でた。
「父らしいです」
「仕事のあと、古い雑誌を見せてもらいました。アソーは、SFアニメの話になると、止まらなかった」
ヴァルガスは、さっきよりも小さく笑った。
「そうですか」
ヴァルガスはそれ以上、雑誌の中身については言わなかった。私もそれ以上は訊かなかった。父が、仕事の相手にどこまでその顔を見せていたか、私にはわからない。
ただ、父がそこまで話したアニメ、というところだけが、私のなかに残った。事務所の棚に置かれたDVD。そのタイトルロゴが頭に浮かんだ。
私がノートを閉じたところで、エヴァが口を開いた。
「今日の確認は、ここまでにしましょう」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」とエヴァが言った。
ヴァルガスは片手を軽く上げ、それを挨拶の代わりにした。
立ち上がるとき、ソファの座面の沈み込みは、来たときほど私を驚かさなかった。私はノートとボールペンを鞄に戻した。鞄の中で、書類の角がいつもより少し起き上がっていることに気づき、軽く整えた。
エヴァが扉のところまで送ってくれた。SPの一人が、廊下のほうを指して、案内の合図をくれた。
扉を出た。
来たときに通ったのと同じカーペット、同じ廊下。エレベーターの前で、私は一度、息を吐いた。
かごが上がってくる音は、聞こえなかった。
扉が開き、私は乗り込んだ。
目を閉じると、疲労が遅れて来た。父の楽しそうな笑顔が、瞼の裏に浮かんだ。




