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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第一章 水面下の嵐

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第二話 モナコの最上階


 入国審査を抜け、荷物を受け取り、ニース空港の到着ロビーに出た。


 大きいガラス張りの壁面から、強い光が正面から目に飛び込んでくる。


 目が光になれたところで、私の名前を書いたボードを掲げた中年の男性が立っていた。


「Ms. Aso?」


「Yes.」


 彼は会釈し、私のスーツケースに手を伸ばした。私は反射的に取っ手を握り直したが、すぐに離した。


 外に出ると、湿気は感じられなかった。けれど直射の熱が違う。空気そのものが板のように張りつめて、太陽の光は肌の表面を刺す感じだ。熱いというよりも、痛いに近い。


 先を行く男性が、黒いセダンの前で止まった。


 男は手早くトランクにスーツケースをしまうと、後部座席のドアを開けてくれた。


 促されるままに乗り込んだ車内は冷房が入っていて、汗の引かない肌に少し冷たすぎた。運転手は何も訊かずにゆっくりと車を発進させた。行き先の確認は無かった。


 窓の外を眺めた。


 南仏、と頭で漠然と描いていたものと、目の前のそれは違っていた。青が強い。道路の縁の石、家の壁、看板の文字、街路樹の葉まで、全部が陽射しのコントラストで切り取られている。


 観光に来たわけではないのに、しばらく窓の外を眺めて異国情緒を楽しむ。


 車が登り坂に差し掛かった。


 気が付くと、海が見えなくなっていた。


 地理は分からない。けれど、エヴァが事前のメールに添付してくれた地図では、海岸沿いに沿って郊外の邸宅街までラインが引かれていた。


 車は内陸寄りに登っていく。坂道はさらに急になり、視界はトンネルに切り取られた。トンネルが終わると、ふたたび登り坂、そして次のトンネル。海はもう、左手のはるか下のほうに過ぎ去っている。


 不安が、少しだけ立った。


「Excuse me. Are we going to Mr. Vargas’s residence?」


 運転手はバックミラー越しに私を見て、片手を軽く振った。


「No problem, Madame.」


 No problemは知っていた。


 けれど私が訊いたのは、no problemかどうかではなかった。


 機内で読んだ案内には、モナコの公用語はフランス語、と書いてあった。私の英語が通じたのかどうか、私には分からない。彼のNo problemは、私の質問への返事なのか、それとも、彼が知っている数少ない英語のフレーズの一つなのか。


 訊き返そうとしてフランス語の最初の二語を頭で組み立てかけ、出てこなくて、やめた。


 代わりに膝の上のスマホを取り、位置情報を確かめた。車はさらに坂を登っている。


 スマホを伏せ、私は一度、深く息を吐いた。


 なるようになるさと、窓の外を眺めた。




     ◇     ◇     ◇




 車寄せで車が止まった。


 流れるような所作でドアが開けられ、私は降りた。荷物はすでに運転手とドアマンの間で受け渡されている。私が一瞬、運転手のほうを振り返ると、車はもう走り去っていった。


 建物を見上げた。


 白い石造りの、見上げると首が痛くなる高さの建物だった。海に向かって、奥へ奥へと階段状に張り出している。建物の壁面に金色の文字で、Hôtel、と書かれていた。


 どうみても邸宅ではない。


 ドアマンに案内されてロビーに入った。


 身を包む空間が一瞬にして変わったのは、空調のせいだけではなかった。


 乳白色の大理石でできた床は、継ぎ目がほとんど分からない。天井は二階分が吹き抜けで、シャンデリアの一つが、事務所の応接室ほどの大きさで吊り下がっていた。


 仕事柄、先方の指定で高級ホテルを訪れたことは、もちろんあった。地方の旧家のオーナーと、京都の高級ホテルのラウンジでの打ち合わせ。上場企業の会長が東京駅近くで取った会食の席。


 どれも、異世界だった。


 けれど、ここは、異世界の上に、もう一段か二段。呼び名はわからない。


 カウンターから進み出た男が、私の名を呼んだ。


「麻生様、ようこそお越しくださいました」


 淀みのない日本語だった。


「あの、私は──」と言いかけたが、彼は穏やかに先回りした。


「お部屋までご案内いたします。エヴァ様がお待ちです」


 チェックインの記帳を求められなかった。カードキーも渡されなかった。


 私は彼に従った。


 ホテルマンの後に続いてエレベーターに乗る。エレベーター内を見回していると、階数表示はすぐに最上階をさした。途中の階で止まるどころか、移動していたことすら感じられなかった。


 音もなく開くエレベーターから降りた先は廊下、ではなかった。


 そこはもう居住空間だった。靴の沈む厚いカーペット、両側に並ぶ大きな観葉植物、奥に開放された二枚扉、その向こうに広がるリビング。


 フロア全部が、居室として作られていた。


 ホテルの最上階を、丸ごと。


 地方の旧家の母屋を思い出した。先代から引き継いだ立派な日本家屋、来客用の応接間が二つ、庭が二百坪。それも普通の暮らしから見れば破格だった。


 けれど、目の前のフロアは、たぶん、その応接間が三つも四つも入る。


 考えるのは止そう。


 顎を引き力を籠め、何とか仕事モードを取り返していると、案内の男は二枚扉のところで足を止め、軽く一礼して下がった。


 扉の内側から、女性が歩み出てきた。


 すらりとした人だった。皺の寄っていない濃灰のジャケット、髪はきれいにまとめられている。


「お疲れ様でした、麻生先生」


 迷いのない発音だった。


「エヴァ・チェンと申します。電話ではどうも」


「麻生です」


 握手をした。彼女の手は冷たかった。それ以上に細かった。手のひら自体は私より大きいのに、女らしさと気品が感触となって伝わる。


「ご邸宅にお伺いするのかと思っておりました」と私は言った。


 エヴァは少しだけ表情を動かした。微笑、と呼ぶには控えめな程度だった。


「つい先日、引き払いました。ボスが日本に拠点を移すためです。ここを当面の応接として借りています」


 なるほど、と私は答えた。


 エヴァは先に立って、室内を案内してくれた。


「リビングは打ち合わせ用です。ダイニング、書斎、応接が二つ。先生のお部屋は階下に別途用意してあります。打ち合わせの後、ご自由に」


 ありがとうございます、と私は答えた。


 リビングは海に向かって全面ガラス張りだった。地中海の青が、手前の建物の白を切り取って、額縁の中の絵のようだった。


 陽射しは強かったが、窓には薄い遮光のフィルムが入っているらしく、まぶしさはなかった。


 壁際のカウンターに、アニメかゲームキャラクターのフィギュアが見えた。


「どうぞ」


 エヴァにすすめられるままにソファに腰を下ろし、座面が想像以上に沈み込んだことで、体勢を崩しかけた。


「大丈夫ですか?」


「あ、はい、すみません」


 恥ずかしさに顔が熱くなった。エヴァはガラス瓶のミネラルウォーターを、ローテーブルの上に置いてくれた。


 栓を開ける音が、広い部屋の中で、ことのほか響いた。


「ボスは少し遅れます」とエヴァが言った。


「現地の政府の方と財界の方々、立て続けに会合が入っております。先生へのご挨拶と本題は、お戻りになり次第、すぐに」


「お忙しいですね」


「ええ、たいてい」


 彼女は言葉以上の表情を足さなかった。


 水滴が瓶のボディラインを伝って、コースターに落ちた。




     ◇     ◇     ◇




 しばらく経った頃、扉の外で、空気の質が変わった。


 言葉での説明には少し困る。けれど、確かに変わった。


 二枚扉の向こう、ロビー側の通路で、人の気配が一気に増えた。靴音が複数、ほぼ同時に動いた。英語と、フランス語と、それと、日本語ではない別の言語が、互いに上書きされるようなテンポで交わされた。


 誰かが指示を出し、誰かがそれに即応している、という会話の質感。


 エヴァが、手元のタブレットを閉じた。


 その動作が、私に「来る」と伝えた。


 通路の靴音が、リビングのほうへ近づいてきた。


 私はソファから立ち上がり、両手をお腹の前で重ねた。


 扉が、両側へ同時に開いた。


 黒いスーツの男性たちが、先に三人。彼らは入ってきた瞬間に、室内の四隅と、私の手元と、エヴァの位置とを、ほぼ同時に確認したようだった。一人ずつではなく、三人で一つの視野を分担している、という動き方だった。


 続いて二人が扉の左右に分かれて立った。


 左側に立ったほうの男性は、私と同じか、もう少し東洋寄りの顔立ちだった。私の顔と一瞬、目が合った。彼はすぐに視線を逸らした。


 その後ろから、男が一人、入ってきた。


 Tシャツとデニム姿の男性。


 Tシャツには、私には読めないアルファベットのロゴがプリントされていた。デニムの裾は無造作に折られていた。スニーカーは、爪先が少し汚れていた。


 彼を取り囲む男性たちと、彼自身の格好との落差は、最初の数秒、私の頭の処理を止めた。


 Tシャツの男は、取り囲む男性――SPの肩を叩いて、英語で何か言った。もう一人と笑い合った。


 歩き方は、SPの誰よりも速かった。


 歩いてくる男の顔を、私は一度、二度、見直した。


 報道で何度も見た顔だった。Zetterの本人アカウントのアイコンの顔でもあった。世界の経済紙の表紙の顔でもあった。


 資産150兆円、認知している子供だけで十数人、その同じ顔が、いま、Tシャツとデニム姿で、私の目前に歩いて来ていた。


 喉の奥が、一度、小さく鳴った。


 自分の心臓の打ち方が、いつもと違うことに気づいた。これまで会ったどのクライアントの初対面でもなかった種類の動悸だった。


 それでも、私の身体は、仕事用の構えに保とうとした。口角を仕事の角度まで持ち上げる。


「お待たせ」


 彼はそう言った。


 日本語だった。発音は、きれいだった。アクセントは少し平坦だが、聞き取りに引っかかるところはなかった。


「麻生先生だね。はじめまして。私はイーサン」


 彼は手を差し出した。


 世界の巨人の普通の手。


「麻生奈緒です。よろしくお願いします」


 私は手を握り返した。


 彼はSPの一人に英語で何か言い、それからエヴァのほうへ向き直って「はじめよう」と言って腰を下ろした。


 彼の手が私を促したのを確認し、それに従い慎重に、ゆっくりと腰を下ろした。


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