第一話 税金対策しなきゃ
斎場の受付で記帳し、香典袋を差し出した。
封筒を受け取った女性が深く頭を下げた。私も頭を下げた。梅雨の雨は降っていなかったが、空気は濡れていた。霞がかった六月の曇天が、喪服の黒に染み込んでくる気がした。
ホールに入ると、白い菊の匂いが充満していた。
遺影の高橋雄幸は、真正面を向いていた。眼鏡をかけた細面の男で、スーツ姿だった。父の元部下だと記憶している。胸の内で名前を復唱していると、三年前の父の葬儀に来てくれたことを思い出した。
参列者は数十人いた。財務省や国税庁のOBらしき人間が多かった。私の知らない職場の顔つきというものがある。同じ組織の空気を吸って来た人間は、黙って並んでいても輪郭が揃う。
前の列から、声が聞こえた。
「――自殺らしいわよ」
もう一人が続いた。
「長期の有給を取って、ご家族でどこかに行ってらしたとか。その後に、急に」
前の列はそこで声量を落とし、私は聞こえなくなった。
挨拶が始まった。
「本日はご参列いただきありがとうございます。喪主を務めさせていただきます、妻の沙織です」
マイクの前に立った彼女の顔だけが、喪服の黒の中で白く見えた。
声は平らだった。感情のない声、という意味ではなく、平静を保った声、という意味だ。読み上げる文章は整っていた。詰まらず、途切れなかった。
気丈とは少し違う、覚悟を決めたような顔。隣に並ぶ学生服の少年と、小学生らしき女の子の存在がそうさせているのだろう。
私は正面を向いたまま、遺影の高橋雄幸を眺めていた。
最中、高橋沙織は一度も泣かなかった。
焼香を済ませ、外に出た。蒸し暑さが戻ってきた。エントランスの庇を抜けると、湿った空気が顔に触れた。
斎場の門扉付近に、礼服姿の男が一人。
門扉を支える柱に背中を預け、四十代か五十代か、正確には分からなかった。礼服が汚れるのではないかと、他人事ながら気になった。
駅へ向かって歩きながら、私は頭の中で週明けの段取りを考えた。月曜に持ち越した書類が三件。水曜のクライアントの面談。まだ手をつけていないメールの返信。
父の跡を継ぎ――というのは言い過ぎか。五十代で財務省を退職した父は、弁護士として独立した。同じ道に進んだ私が、税務弁護士として父の事務所に移ったのは、父が亡くなってからだ。
ため息が出た。先週から積み上がったままの、あの相続税の資料。この仕事の半分は、節税対策。
「帰って税金対策しなきゃ」
自分に言い聞かせるように、私は呟いた。
◇ ◇ ◇
月曜の午前。事務所の窓から見える空は、灰色の雲が蓋をしていた。
私は書類の山と向き合っていた。先週の持ち越し分と、週末に届いたメールの返信と、国際税務の下準備。こういう日は、紅茶でも飲みながら少し気分を変えないと集中が続かない。
給湯室からはお湯を沸かす音、事務室からは聞き覚えのあるワイドショーの司会者の声が聞こえた。
事務員の節子さんはワイドショーが好きで、午前中は決まってこの音が低く流れてくる。私にとっても生活の一部となっている音だ。
節子さんは父の代からの事務員で、この事務所の最古参。母を早くに亡くした私は、昔からこの事務所で節子さんに面倒を見てもらっていた。それは、今も変わらない。
画面の中の司会者が何か言っていた。
「ヴァルガス本人のSNS、Zetterへの書き込みによりますと――『日本、面白い』とコメントしており、日本滞在の可能性を強く示唆しているとも――」
ヴァルガス本人が買収して名称が変わったあのSNSですよね、とコメンテーターが続けた。
書類に戻しかけていた視線が、意識せずに音の方へと向いた。
イーサン・ヴァルガス。車に、ITに、宇宙にその手を広げ続ける世界的大富豪。資産は推定150兆円規模。認知している子供だけで十数人、それぞれ別の母親を持つ。数年前からは世界中を渡り歩いているお騒がせ者。
次の長期滞在先として複数の国の名が取り沙汰されていて、日本の名も出た、という話だった。
「えーもうすごいですよね、150兆円ですよ、150兆円。個人資産が日本の国家予算を上回ってますものね」
スタジオに笑いが広がった。150兆円という数字に対する適切なリアクションだ。笑うしかない。
節子さんがトレイを手にやって来た。
「150兆円ですってよ、先生」
「そうですね」
私も例にもれず、苦笑いを浮かべた。
「お子さん、十数人でしょう。どういう方なんでしょうねえ」
「女性として、いい印象は湧かないですね」
節子さんはワイドショーの画面に目を向けながら、トレイに載せたティーカップを私のデスクに置いた。
ヴァルガスが日本に来るとしたらどのくらいの規模の警護体制になるか、というコメンテーターの話に意識を持っていかれながら、節子さんはトレイに残っていた湯呑を棚の上に置いた。
棚には、父の写真があった。
『大先生も、事務所のほうがおさまりがいいと思うんですよ』
私が自宅に仏壇を置くか悩んでいた時に、そういって節子さんが設けてくれた、父のささやかな居場所。
肩の荷が下りた私は、そうと決まればと、父の遺品であるアニメのDVDボックスをその隣に置いた。今となっては私しかいない自宅には、まだそれなりのDVDが段ボールに眠っている。
「大先生、家ではアニメ見てらしたんですか?」
節子さんが言った。
「好きだったとは思うんですが、私の前では見ていなかったんですよ、なぜか」
「娘の前では気恥ずかしかったのかも知れませんねぇ。好きなあれは何でしたっけ、あの、宇宙の」
「たくさんありましたよ、宇宙のは」
私はメールの返信を一通終えた。次の書類に手を伸ばしたところで、腹の虫が小さく鳴いた。
「節子さん、お腹減りません?」
「準備してますよ。あかりちゃんが帰ってきたら出しますね」
阿彦あかりが戻ってきたのは、それから三十分ほど後だった。
「あつかったー、戻りましたー」
扉を開けながら言った。外回りの帰りで、額に薄く汗が浮いていた。シャツの襟元をぱたぱたと扇いでいる。
「お疲れ様」
「本当ですよー。蒸し暑いって気候としては最悪じゃないですか?!」
あかりは鞄を置きながら、ぶーぶーと愚痴を口にし、「はい先生、これ」と、クライアント先の書類を出した。書類の四隅が湿気でたわんでいる。
「じゃあ、ご飯にしましょうね」
昼食は蕎麦だった。来客室のテーブルに三人分並べて、あかりと私は向かい合った。節子さんは一人、テレビのある事務室の席に座った。
ワイドショーは引き続きヴァルガスの特集をやっていた。
「次の滞在先、日本説が有力だそうよ」
節子さんがテレビに視線を向けたまま言った。
「一年前も言ってましたねー」とあかりが答えた。
ふいにテレビの音が小さくなり、それからすぐに電話が鳴った。
リモコンを手にした節子さんが、ドヤ顔をしている。節子さん曰く「わかる」らしい。
蕎麦を口いっぱいに頬張ったあかりが、『すみません』と目で訴えかけ立ち上がろうとするのを手で制し、受話器を取った。
「はい、麻生総合法律事務所」
『麻生先生はいらっしゃいますか?』
凛としつつも、事務的な声だった。
「はい、私が麻生です」
「失礼しました、エヴァ・チェンと申します。お仕事のご相談を――」
「少々お待ちください」と言いつつ、私は空いた手で卓上のメモとペンを引き寄せた。
「どうぞ」
受話器から聞こえる依頼内容を聞き逃すまいと、必死にメモを取り、電話を切った。
壁の時計に目をやった。ものの数分だったはずだが、ずいぶんと長く感じた。
「新しいお仕事ですかー?」
あかりの声は耳に届いたが、返事に詰まった。まだちょっと、頭が混乱している。
「あ、うん、そうね。それにしても、今日は暑いわね――」
節子さんはまだワイドショーを見ていた。
私はエアコンのリモコンを手に取り、一気に設定を下げた。古いエアコンがそれにこたえるように、悲鳴のような音を上げた。




