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納税者は二度死ぬ  作者: 紀友
第二章 日本に住むということ

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15/21

第十五話 RTA


 テレビでは、朝から梨を切っていた。


 節子さんは手を止め、画面の向こうの白い皿を見ている。司会者が、今年は小ぶりだとか、甘みが強いとか、いつもの調子で話していた。


「今年は高いんですねぇ」


「梨ですか」


「梨です」


 節子さんは、まるで大きな事件のように言った。


 私は、相続税申告書の控えに目を落としていた。被相続人は、都内で長く内科医院を営んでいた医師で、預金、有価証券、自宅兼診療所の土地建物、医療法人への貸付金が並んでいる。一代でこれだけ事業を拡げ、資産を築くのは、並大抵のことではない。


 それなのに、数字を追う目が、一度、その並びを軽く通り過ぎかけた。


 まずい。


 金額の感覚が、ここしばらくでおかしくなっている。私は控えの行頭まで指を戻し、もう一度、最初から数字を追い直した。


「先生」


 あかりが言った。声が、いつもより低い。


「昨晩のヴァルガスさん投稿は見ました?」


「申請のことよね」


「はい」


 あかりは、自分の机でスマートフォンを見ている。私の手元にも、昨夜のうちに同じ通知は来ていた。開いて、一行だけ見て、閉じた。


<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>

『永住申請!!』


「びっくりマーク、二つです」


 あかりが付け足した。見せられても私が目をそらすので、最近はわざわざ読み上げてくれる。


 ヴァルガスの投稿は短い。短いが、周りを動かすには十分だった。


 あかりは画面を指で流している。


「反応、もうすごいです。『ついに出した』、『まだ申請だからな』、『許可はまだ先だぞ』、『申請しただけで祝うな』」


「正しい反応ね」


「あと、『おめでとうサイト、あと72日』」


「何のサイト?」


「有志が作ったカウントダウンです。高度人材の最短一年で、許可が下りる日の予想ですね」


「かなりいい読みね」


 節子さんがテレビから顔を向けた。


「そんなものまであるんですか」


「あります。でも、『明日出るぜ』みたいな投稿もあります」


 あかりはそこで、口元だけで笑った。


「普通に考えて無理ですよね」


 普通。


 この案件では、扱いづらい言葉になっていた。


 電話が鳴った。事務所の代表番号ではなく、私のデスクの直通だった。表示には高田先生の名前が出ている。


 節子さんが、梨の値段へ向けていた表情のまま、こちらを見た。私は受話器を取った。


「麻生です」


『麻生先生、出ましたよ』


 高田先生の声は、いつもより乾いていた。


「出ました――というのは?」


『許可です。永住許可』


 私は、ラックに立てかけていた『永住許可』と書かれたバインダーを手元に引き寄せ、開いた。


「……申請は昨日ですよね」


『昨日です』


 紙を動かす音が、受話器の向こうで聞こえた。


『私も入管に直接確認しました。二回、いや、三回かな』


 あかりが、こちらを見ている。節子さんも、湯飲みを持ったまま動きを止めていた。


「どう確認されたんですか?」


『標準処理期間よりかなり早いですが、間違いありませんか、と』


 確かに、今回の案件を受けて、私の方でも調べた。


 出入国在留管理庁、入管が公表している「標準処理期間」は4か月。ただし東京で見た場合、実際は10か月から1年半がセオリーになっている。


『法的な期間の定めはありませんので、と』


 言葉そのものは、役所の答えとしておかしくない。それでも、机の上では、昨日の受付印が頭の中に浮かんだ。


『事前に麻生先生からも、政治的配慮で早まるだろうとは聞いていましたが。いやはや、日本の入管実務に残る伝説の誕生ですな』


 プロの高田先生が「これ以上ない」というレベルで完璧に書類を揃え、さらに国から大歓迎されるような超優秀な人材が申請しても、地方の入管で「最短2か月」。


 それが私たちの予想だった。


『ちなみに、ヴァルガス氏の方には、先に連絡を入れています。ご本人の申請ですから』


「ありがとうございます」


『そのうえで、日本側の整理がありますので、先生にもすぐご連絡しました。写しはこのあと送ります』


「お疲れさまでした。写し、確認します」


 電話を切ると同時に、あかりの声が耳に入った。


「あ――」


 その一音で足りた。私のスマートフォンにも、通知が来ている。


<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>

『許可が出た。これで私は、かなり日本』


『はえーよ』

『はえーよ』

『はえーよ』

『はえーよ』

『はえーよ』


 テレビでは、まだ梨を食べていた。出演者が、甘いですね、と笑っている。


「はえーよ、ですって」


 あかりが言った。それから、画面を見ながら続ける。


「『永住許可RTA』『おめでとうサイト、涙拭けよ』、みなさんうまいこと言いますね」


 節子さんがリモコンを手に取った。画面の中では、産地紹介が終わりかけている。司会者が手元の紙に目を落とし、声の調子を変えた。


「ただいま入ってきました情報です」


 節子さんは、リモコンのボタンに置いていた指を止めた。画面の上に、速報の帯が出る。


【速報 イーサン・ヴァルガス氏に永住許可】


「テレビ、来ました」


 あかりが言った。


「本人の方が先でしたね」


「テレビが遅いというより、本人発表が早すぎるのよ」


 私はそう言って、変な言い方だと思った。


 司会者が原稿を読む。


「世界的実業家のイーサン・ヴァルガス氏について、日本での永住許可が下りたことが、本人によるSNSの投稿でわかりました。ヴァルガス氏は昨年、日本への移住を表明し、K町N区の邸宅を拠点に国内での活動を続け――」


 映像が、K町の邸宅に切り替わった。白い屋根、池、門前の報道陣。一年近く、何度見たか分からない映像だった。


 節子さんがチャンネルを変えた。別の局でも、同じ邸宅が映っている。さらに変えると、コメンテーターが「日本が選ばれた」と言っていた。また変えると、政治部記者らしい男性が官邸前で説明している。もう一度変えたところで、永井総理のぶら下がり取材が映った。


 総理はいつもの場所で、記者団のマイクに向かっていた。


『ヴァルガス氏が我が国に生活の基盤を置かれる意思を明確にされたことは、日本の文化、経済、技術、人材に対する大きな評価であると受け止めております。政府としても、必要な環境整備に引き続き取り組んでまいります』


『一部では、露骨な優遇ではないかという声も上がっているようですが』


『国として柔軟な対応ができた、そう考えております』


『以前から申請中の外国人の方たちからは――』


『ありがとうございました』


 記者の言葉を明るい笑顔で断ち切り、手を振って歩いていく。


「総理、嬉しそうですねぇ」


 節子さんが言った。


「本当はもっと大々的にやりたかったんでしょうね」


 あかりが、スマートフォンを机に伏せて言った。


 実際、数日前には内閣府から打診が来ていた。


 申請が正式に提出され次第、速やかに許可通知が出る見込みです、つきましては、総理よりヴァルガス氏ご本人へ直接お伝えする場を設けたい。


 添付されていた案には、日時候補、場所、撮影の有無、冒頭コメントの時間。『ヴァルガスの好みの花は何か』という質問まであった。


 無論、この件はすぐにエヴァへと伝えた。


『お断りします』 


 返答は短かった。


 そして、総理が直接伝えるはずだった結果は、本人のZetterで、先に世界へ流れた。


「かなり日本、流行りそうですね」


 あかりが言った。


「使いどころ、ある?」


 節子さんが、またチャンネルを変えた。株価ボードが映る。


「ここはいつも経済ニュースですね」


 あかりが言った。画面の下では、指数の数字が横へ流れている。キャスターの声は、ワイドショーより速かった。


「永住許可の報道を受け、東京市場では関連銘柄と見られる一角に買いが入っています。日経平均は上げ幅を拡大、TOPIXも堅調に推移しています」


「見てください。日本株、すごい上がってます!」


 あかりがテレビを指した。画面では、警備、不動産、建設、通信、宇宙、半導体、データセンターと、関連銘柄という言葉が何度も出てくる。


「先生、こういう場合って、どうなるんですか?」


 質問の意味が良くわからず、あかりを見た。あかりは、小首をかしげながらテレビを指さしている。


「会社の合併とか業績の修正なら、事前に知ってて株を買ったらインサイダー取引になりますよね」


「ええ、そうね」


「でも今回は、会社じゃなくてヴァルガスさん『個人』の永住許可じゃないですか。私たちは数日前から、申請が出ればすぐ許可になるって知ってました。個人の情報なのに、こうやって市場が動いちゃうのって……法的にはどう考えたらいいんですか?」


 卓上のノートPCに、メールの着信があった。高田先生からのメール。クリックで開くと、許可通知のPDFが添えられていた。


「典型的なインサイダー取引とは、違うでしょうね。少なくとも、今ここで見えているのは、特定の上場会社の、未公表の重要事実ではないから」


 あかりが、こちらを見た。


「ただ、それで安全、という話にはならない。情報の得方と使い方によっては、金商法157条のような、一般的な不正取引の問題を持ち出される余地はある。何より、私たちはこの情報を、仕事で知っている」


「職務上、知った情報」


「そう。依頼者の手続きに関わって、世間より先に知った情報を、自分たちの利益のために使う。たとえインサイダー取引そのものとして整理されなくても、守秘義務と職業倫理の問題になる」


 テレビの中では、キャスターが海外投資家の反応に触れていた。


「行政書士でも弁護士でも、仕事で知った秘密を、自分のために使っていいわけじゃない。まして今回は、市場が実際に動いている。危ない可能性があるものには、近づかないのが一番ね」


 あかりは、考える顔をした。


「魅力的だけど、浮気しそうな男の人とは、付き合わない。みたいなものですね」


「あかり、そんな経験あるの?」


「節子さーん、先生がいじめますー」


 給湯室の方で、節子さんが笑った。


 私は、昨日の申請控えの上に、今日の許可通知の写しを重ねた。紙の上では、昨日と今日が隣り合っている。


 画面の下に、海外ニュースの見出しが流れた。


 Japan grants permanent residency to Ethan Vargas.

 Markets rise on strategic presence in Japan.

 Tax residence and asset management draw global attention.


 税務上の居住地。資産管理。


 その二つの言葉だけが、目に残った。画面では数秒で流れていく。こちらでは、その同じ言葉の下に、一年分の資料が積んである。


 節子さんが、お茶を置いてくれた。


「今日は、濃いめです」


「ありがとうございます」


 私は湯飲みに触れた。指先に、はっきりと熱が伝わってきた。


 高田先生から届いた通知書の写しには、必要な事項だけが、淡々と並んでいた。氏名、国籍、在留資格、許可。それだけだった。


「先生」


 あかりが言った。


「これ、おめでたい話ですよね」


「そうね」


 私は、永住申請のバインダーに使うために、付箋紙を一枚取った。


「ヴァルガスさんにとっても、日本にとっても、おめでたい話ね」


 あかりは笑みを浮かべ、手元の作業に戻った。


 テレビの中では、総理の映像が繰り返されている。


 私はバインダーから申請控えを取り出し、申請日の下に付箋を貼った。


 許可――翌日。


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