第十六話 死んだンゴ
「郵便物、出してきました。うぅ、さむぅ」
玄関扉から姿を現すなり、あかりはそう言って、自分の肩を抱いた。
「そろそろコート出そうかな」
「もう?」
「昼はまだいいんですけど、朝と夜が寒いんですよ。あ、季節変わったなってなります」
あかりは「さむいさむい」と言いながら、自分の席に鞄を置き、首元を一度すくめた。
節子さんの席は空いていた。
今日は同窓会だと言って、昼過ぎに事務所を出ている。出がけに、どの鞄にするか少し迷っていた。私に訊かれても困るので、あかりが選んだ。
選ばれなかった二つの鞄が、机の端に残っていた。
同窓会。
自分が最後にそういうものへ出たのは、いつだっただろう。
大学の同期と顔を合わせることは、それなりにある。学部が学部なだけに、ほとんどは仕事場での遭遇だ。二度ほど、敵味方に分かれて争ったこともある。
勝ち負けがついた後は、これまで通りとはいかない。
言葉では繕えても、しこりは残る。
考えかけて、やめた。
机の上には、返すべきメールが残っていた。
顧問先からの確認。海外赴任から戻る役員の給与の扱い。年内支給か、翌年支給か。会計士の先生へ回す前に、こちらで一度だけ見ておくもの。
ヴァルガス案件が静かになると、こういう仕事が机の上へ戻ってくる。
それが本来の事務所の姿だった。
永住許可が下りてから数週間、ヴァルガスは水を得た魚のように動き回った。
文字通り、南から北まで、神出鬼没を繰り返した。
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『朝の市場。魚が強い』
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『温泉まんじゅう、危険』
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『秋葉原よ、私は帰って来た』
本人の投稿だけを見れば、とても世界一の実業家のものとは思えない。
だが、その一行の投稿で報道が動き、警備が動き、翌朝の番組が動く。
それが、この一週間ほどは静かだ。
昼の情報番組では、K町の門前から「大きな動きはありません」と、ヴァルガスの動向を伝えるコーナーも定着している。
「ヴァルガスさん、今日も外に出てないみたいですね」
あかりが、スマートフォンを手に言った。
「手持ち、終わったの?」
「これもお仕事ですー。実際、あとはメールの確認だけですね」
「お互い、すっかりヴァルガスウォッチャーね」
「日本中がそうですよ」
エヴァは、数日前から日本にいなかった。
必要な連絡は届いている。業務上困ることはない。けれど、彼女がいないことで、ヴァルガスの自由が格段に跳ね上がることは想像できた。
『仕事を積んでおきましたので、当分は大人しいはずです』
エヴァの言葉通り、重石は機能しているようだった。
その反面、ここ数日の投稿は、食べ物の話ばかり。
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『昼。カレー。これは飲み物ではない』
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『ツクダニ。まだ、まだ早い』
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『おでんは正義』
私はスマートフォンを机に置き、卓上のカレンダーに視線をやった。
このまま行けば、しばらくは落ち着いた日が続く。
問題はその次。顧問先の年末調整もあるが、ヴァルガスの動きが激しくなると、エヴァから念押しをされている。
去年も経験したが、セレブの年末年始はかなりハードだ。
手の中のスマホが震えた。
「また来ましたね」
私は画面を見ず、確認をあかりに任せた。
「食べ物?」
「食べ物です。面白いですよ」
あかりは、もう笑っていた。
興味をそそられ、通知を開く。
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『アイスおいしい。31種類、がんばる』
「頑張るって……」
「K町って、朝晩はもう十度を下回る日もありますよね?」
もともと避暑地として知られる土地だ。
明治の頃、外国人宣教師が夏の涼しさに目を留め、そこから別荘地として広がった。いまでは観光地の名前の方が先に立つけれど、根っこにあるのは、暑さから逃げるための場所だった。
「アイスって――」
「もう季節感も何もないですね」
「三十一種類ではないと思うけど」
「そこですか」
返信は、すぐに増えていった。
『31は31種類じゃないぞ』
『秘書、早く帰ってきて!!』
『グルメリポートは三流』
あかりは「先生と同じこと言ってる」と肩を揺らして笑った。
私は時計を見た。
節子さんがいない日は、終わりの判断が少し遅れる。いつもなら、節子さんが帰り支度を始める気配で、こちらも一区切りをつける。今日はその合図がない。
「今日はここまでにして、何か食べてく?」
私が言うと、あかりは返事より先にノートパソコンを閉じた。
「早い」
「先生が撤回する前に」
「何がいい?」
「なににしようかな~」
言いながら、二人で帰り支度を始める。
そうは言っても、卓上の書類を揃え、明日に備えてわかりやすい位置に置く。
コートはないが、少し厚手のニットをハンガーから外し、袖を通した。少し、ハンガー跡がついてしまっている。
鞄を手に、すでに支度を終えて玄関先で待つあかりのもとへ向かう。
「――あ、ヴァルガスさん、また投稿してます」
「今度は何?」
あかりは、すぐには答えなかった。
差し出されたスマホの画面を、私は避けることなく受け入れた。
画面には、日本語で短く一行だけ出ていた。
『死んだンゴ』
「……死んだンゴ?」
あかりが、そのまま読んだ。
投稿の下に、待ち構えていたかのように返信が並んでいく。
『三十一種類……』
『無茶しやがって』
『秘書ぉ~』
あかりと私はお互いを見て、鏡合わせのように肩をすくめた。
「温かいものを食べようか」
私はそう言って、手にしていた鞄を肩に掛けた。
――本当に、自由な人だ。
でも、そんな無茶な自由をするのが、ヴァルガスという人物なのだとも思った。
そんなことを思いながら、事務所の電気を落とした。
<第二章 了>
次回より 第三章 死者の値段




