第十一話 最後尾
床に座っている人が、増えてきた。
壁際に寄っている人。紙袋を膝に抱えている人。キャリーケースに肘を乗せて、スマートフォンを見ている人。立っている人の足元を縫うように、スタッフが歩いていく。
「二列でお願いしまーす!!」
何度目かの、スタッフの声が会場に響いた。
私は紙袋を持ち替えた。
本当なら、今ごろ会社で障害対応に入っているはずだった。システムエンジニアに日曜も盆もない、という上司の言葉に、昨日今日は体調不良で押し切った。
紐が指に食い込んでいる。
年に二回の祭典は、夏の方がきつい。
会場は、開場直後の熱とは少し違う熱になっていた。全員が目的地へ走っている時間は過ぎ、買えた人と買えなかった人と、次へ向かう人と、いったん床に沈む人とが、通路のあちこちで層になっている。
私はスマートフォンのメモを確認した。
今日の三つ目。
正確には、四つ目かもしれない。最初の壁サークルを数えるかどうかで変わる。買えなかったものを一件に入れるのは悔しいので、私は数えないことにした。
次の目当ては、話題になっている作品の、作者本人による非公式本。
通路の先に列が見えた。
そりゃ並ぶか。
列は壁際で一度折れて、少し進んだ先でまた折れている。最後尾はスタッフの立っている位置からさらに奥だった。
あきらかに出遅れた。
思っただけで、足が少し重くなった。
「こちら最後尾でーす」
スタッフが手を振って誘導している。
私は列の最後につき、ひとつ前の人から最後尾札を受け取った。
軽いプラスチックの板だった。
けれど、持った瞬間に、出遅れた事実だけが重くなる。
前の人の紙袋には、秋にアニメがスタートする作品のメインキャラ。企業ブースだろうか、後で寄ろう。
列は、すぐには動かなかった。
止まっているというのに、汗が噴き出てきた。飲み物はまだ残っている。けれど、最後尾札と紙袋で両手がふさがっていた。
早く誰か来てくれないかな、と思ったところで、後ろに人がついた。
私はすぐに最後尾札を差し出した。
相手が受け取る。
これで片手が空いた。
私はペットボトルを取り出し、キャップをひねった。ぬるくなった水を口に含んだところで、周囲が少しざわついていることに気づいた。
ざわつきの中心は、背後だった。
振り返る。
飲み込む前の水を、危うく吹き出しかけた。
白いTシャツ。キャップ。少し日に焼けた顔。
その後ろに、黒いスーツの男たち。
相手は、最後尾札を指さして、小さく首をかしげていた。
「つ、つ次の人が来たら、それを渡すんです」
自分の声が、少し上ずった。
相手は札を見て、それから私を見た。
「なるほど」
イーサン・ヴァルガス。
世界一の富豪。
報道で何度も見た顔が、年に二回の祭典の最後尾で、真面目に頷いていた。
周囲で、スマートフォンがいくつか持ち上がった。
「撮影はご遠慮くださーい!」
丁寧な言葉の奥に、いい加減にしろよ、という響きがあった。
列の中で、何人かが顔を伏せた。私を含め、ここにいることを、知人にも職場にも知られたくない人は多い。
職場への言い訳を考えていると、後ろから声がかかった。
「何の列ですか」
日本語だった。
発音は綺麗だったが、少しだけ平らだった。テレビで聞いたままの声だった。
私は、もう一度振り返った。
「知らないで並んだんですか」
「みんな並んでいたから」
彼は、悪びれた様子もなく言った。
黒いスーツの男の一人が、わずかに目を閉じた。気のせいかもしれないが、たぶん気のせいではない。
「いま話題になってる作品です。作者本人の非公式本なので」
「オフィシャルのノンオフィシャル?」
「です」
「なるほど?」
多分、わかっていない。
列が、少し動いた。
私は前に詰める。ヴァルガスも後ろで一歩進んだ。黒いスーツの男たちも、そのさらに後ろと横で動いた。
通路が詰まる。
「列は詰めてくださーい。通路、広く空けてくださーい」
スタッフの声が、今度は少しだけ苦しそうだった。
次の参加者が来た。
ヴァルガスは最後尾札を、その人に差し出した。
差し出された側は、札とヴァルガスの顔を交互に見た。
固まった。
ヴァルガスは、さっき私が伝えたことを、少し得意げに言った。
「次の人が来たら、渡すんです」
「あ、はい」
相手の声も上ずっていた。
最後尾札は、さらに後ろへ移った。
スマートフォンを構えかける人がまた出て、スタッフがすぐに止めた。顔を隠す人もさらに増える。
黒いスーツの一人が列の外へ出ようとして、スタッフに手で制された。
「そこ、通路です」
男は足を止めた。ほんの一拍だけ、位置を探す目になった。
ヴァルガス本人は、そんな周囲の喧騒をよそに、楽しそうにしている。
「本は、自分で作るの?」
ヴァルガスが訊いた。
「だいたいは」
「会社じゃなくて?」
「会社じゃないです。個人とか、何人かのグループとか」
「いいね」
彼は短く言った。
世界一の富豪が、個人のコピー本とオフセット本の境界あたりを面白がっている。
そのことが、妙におかしかった。
列はまた少し進んだ。
途中でスタッフが来て、ヴァルガスの後ろにいる警備の人たちに、通路幅と列の折り返しを説明していた。警備の人たちは、意外なほど素直に聞いていた。
スタッフは強い。
順番が来た。
机の向こうのサークル主は、体を硬くしていた。
この人も、有名人だ。
有名人が有名人を前にして、明らかに緊張していた。
私は、見本誌の横に置かれた新刊を指した。
「新刊一冊ください」
「あ、はい」
サークル主の手が、ぎこちない。
後ろで、ヴァルガスが机の上を覗き込んでいる気配があった。
「私も、同じものを」
彼はそう言って、同じ本を指した。
サークル主が、おずおずと本を差し出す。
「Cute!」
普通の来場者のように本を受け取り、ヴァルガスは嬉しそうに表紙を見ていた。
列を抜けたところで、スタッフが通路の端へ誘導した。
「立ち止まらないでください。移動お願いします」
私も流れに乗って移動しようとした。
「探しているものがあります」
ヴァルガスはそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出した。
古いタイトルロゴと、キャラクターの画像が表示されていた。
今の若い参加者には、たぶん通じる人の方が少ない。私が中学生の頃に、深夜に再放送で見ていた作品。最初は友達に勧められて見た。途中から、自分の方が詳しくなった。
なのに、ここ数年はほとんど追っていない。
追っていないはずなのに、口の中で、タイトルの音が妙にすぐ戻ってきた。
「それなら、ここじゃないです」
私は言った。
「どこですか」
ヴァルガスが訊いた。
黒いスーツの男たちが、同時にこちらを見た。
スタッフも見た。
私は、持っていた紙袋を持ち直した。
「たぶん、西の方です。ジャンルが違うので」
「では、行きましょう」
なぜそうなる。
私は会場図を開いた。
「こっちです」
言って歩き出すと、ヴァルガスがついてきた。
先頭は私。
その後ろに、世界一の富豪。
さらにその後ろに黒いスーツの男たち。列の左右でスタッフが通路を見て、周囲の参加者が振り返る。
私は会場図を片手に、人の少ない方へ進んだ。
「この作品、知ってるんですか?」
歩きながら訊いた。
「ええ。最初に見たのは、ずいぶん前です」
ヴァルガスは、私の横で答えた。
「でも、最後まで見ました。今でも好きです」
私は会場図に目を戻した。
世界一の富豪が、あの作品を最後まで見ている。
「知ってます? あれ、第6話はアニメオリジナルなんですよ」
「ニンジャ!」
「そう! 原作だと結構淡々と進むんですけど、アニメだと前半にそういう『宇宙で働くサラリーマンの悲哀』みたいな日常回を挟んでくるじゃないですか。だからこそ、後半に物語が加速して、主人公が独りで深淵に潜っていく時のあのギャップが、もう、見てるこっちの精神まで削ってくるというか。あとあのヒロイン。最初の方は『愛、愛』って、理想論ばっかりで正直ちょっと鼻につくところもあるじゃないですか。でも、極限の状態であの真っ直ぐな言葉がどれだけ救いになるか――」
そこまで言って、私は一度口を閉じた。
やってしまった。
「すみません」
「どうして?」
「語りすぎました」
「面白いよ」
ヴァルガスは言った。
短い。
でも、雑な相槌ではなかった。
私は肩の力を抜いた。
「あの作品、リメイクの噂があるんです」
「リメイク?」
「時代が追い付いてきたっていうか、いまこそやる作品じゃないかって。冬のイベントで発表があれば、制作期間考えて一年か二年。それくらいしたらさすがにPV映像か――」
また、やってしまった。
ちらりとヴァルガスを見る。彼は視線を遠くの方に向けながら、小さな声で「なるほど」と呟いた。
人の流れに合わせて、数歩進む。
「それは、楽しみだね」
◇ ◇ ◇
「今日はありがとう」
ヴァルガスは言った。
目当ての本は、もう彼の手提げ袋の中に入っている。
私たちは、通路の流れから外れた壁際にいた。休憩所というほどではない。立ち止まっても邪魔にならない、ぎりぎりの空きだった。
「いえ、私は、場所を案内しただけなので」
「助かりました」
ヴァルガスは、普通に頭を下げた。
たぶん、もう二度とない。
そう思った瞬間、口が先に動いた。
「あの」
ヴァルガスが顔を上げた。
「写真、いいですか」
言ってから、しまったと思った。
さっきから撮影は止められている。ここは通路ではないが、撮影場所でもない。周囲には、写り込みを嫌がる人もいる。
けれど、ヴァルガスは軽く頷いた。
「いいよ」
その一言で、近くにいた人たちの空気が変わった。
「え、自分もいいですか」
「後ろ入っていいですか」
聞き耳を立てていたのか、あれよあれよと人の輪ができた。
スタッフが、反射のように片手を上げた。
「撮影はご遠慮ください! ……撮るなら一枚で終わってください! 広がらないでください!」
その間にも、誰かが自然にカメラを構えた。
私は、いつの間にかヴァルガスと一緒に、集団の中央として片膝をついていた。
私とヴァルガスの横に黒いスーツの男たちが並び、さらにその周囲にたくさんの人。
「目線お願いしまーす」
プロ顔負けの一眼レフと、替えのレンズを肩にかけた一般人が、そう声をかける。
その声だけで、場が一瞬だけ撮影の形になった。
シャッター音が一回。
「はい、終わりです! 広がらないでください!」
数人のスタッフが、身振りと声で集団を解いていく。
撮った人が、写っていた人たちに声をかけた。
「写真、あとで送ります。Zetterでいいですか。公開用に、目線入れてほしい人は言ってください」
写った人たちが、それぞれアカウントを出し合う。カメラマンが、それぞれのIDを手元のスマートフォンで撮っていく。
「自分、目線お願いします」
「私も」
「鍵なので、あとでフォロー飛ばします」
輪を作るのは、知らない人たちだった。
性別も仕事も、国籍さえ違う。それでも似たような趣味で、同じようなものを楽しいと思い、集まってここにいる。
毎年暑いとぼやきながら、ここに来る理由。
「じゃあ、私も」
言って、ヴァルガスはスマホを手にした。
一瞬、間が空いた。
それから、輪の中で笑いがこぼれた。
一人が言った。
「知ってます」




