第十話 外出禁止
「そろそろです」
ヘッドセット越しの声に、私は恐る恐る目を開けた。
眼下には、報道で見た配置のまま、K町N区の邸宅が広がっていた。
白い屋根。池。敷地を囲む塀。塀の外側に固まる車両。
門扉の前には、まだ白い箱型の車が何台も残っている。報道関係だろう。赤色灯を光らせた、警察車両らしきものも見えた。
機体が傾いた。
「大丈夫です」
操縦士が言った。
眼下に、円形のヘリポートが近づいてくる。円の外周と中央のHは真新しい白さを放っている。
機体が地面に触れ、短い軋みが足元から伝わると、頭上のメインローター音が音色を変えていく。
人影があった。黒いスーツの男性が二人。少し離れて、別の二人。さらにその後ろに、濃いグレーのジャケットを着た女性が立っていた。
エヴァだった。
まだ回転を続けているメインローターは風を起こし、エヴァの髪をかき上げた。
舞い上がろうとするブロンドを抑える姿すら、絵になる。
「お疲れ様でした」
フラフラとしながら地面に立った私に、エヴァが言った。
「お迎えありがとうございます」
「先に一点だけ」
エヴァは、挨拶の続きを省いた。
「ボスが、外に出たがっています」
私は、門の方角を見た。
木立に遮られて、門前の車両はもう見えない。けれど、上空から見た白い箱型の車の固まりは、まだ頭の中に残っている。
「外というのは?」
「遊びに出かけたいと言っています」
エヴァは短く答えた。
「報道陣がまだ引いていません。何を言われても、今日は賛同しないでください。外出は止める方向でお願いします」
なるほど、同意して仲間になるなということらしい。
私は鞄の持ち手を握り直した。
「でも」
私は歩き出しながら言った。
「せっかく日本に来たんですから、外に出たいお気持ちは分かります」
「先生」
エヴァが、スマートフォンをこちらへ向けた。
「こちらをご覧ください」
画面には、Zetterの投稿が表示されていた。
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『日本でおすすめな場所は?』
投稿は、今朝のものだった。
返信が下に並んでいる。
『ラーメン』
『コンビニ』
『俺んち』
『富士山』
『択捉、国後、色丹、歯舞群島』
そのうち、いくつかに小さな印が付いていた。
ヴァルガス本人が、いいねを押している。
さらに、短い返信もあった。
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『コンビニ、いいね』
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『島、いいね』
私は画面を見たまま、少し黙った。
「門前の報道陣は、これを見ています」
エヴァが言った。
「報道陣だけではありません。一般の方も、Zetterを見て動いています」
「出待ちですね」
「はい」
エヴァは、そこで小さく息を吐いた。
「このタイミングで敷地外に出ると、騒動になります」
スマートフォンの画面では、さらに返信が増えていた。
『今からK町に迎えに行くYO』
『配信希望』
『ヴァルガスを探せ』
エヴァが画面を戻す。
「先生も、ボスのアカウントをフォローしておいてください」
「私がですか?」
「はい。共有しておいてくれると助かります」
それは監視も手伝え、ということだろうか。
「分かりました」
私はスマートフォンを取り出し、その場でアカウントを検索した。
フォローの表示が一件増えた。
その操作ひとつで、一気に仕事が増えた気がした。
ヘリポートからメインレジデンスまで、五分ほどの距離を歩いた。
石畳は歩きやすく、左右の芝生も刈り込まれている。低い植栽は、季節の花を見せるためというより、視界を調整するために置かれているように見えた。どこからどこまで見えるか、計算されている。
ただ、建物までの距離が、感覚に合わない。
ワイドショーの映像で見た限り、ヘリポートと邸宅は一番近くに位置していたはずだ。自宅の敷地内を歩く、という距離ではない。
どこかの公園の中を、目的地に向かっているようだった。
途中、何人かの人影があった。そのどれもが黒い服の男性で、耳にはインカムを装着していた。
「警備の方、多いですね」
「導線だけの配置です。さすがに敷地全体に配備されていません」
エヴァが答えた。
「それに、門前と報道対応に人を割いています。普段は、もう少し内側に残せます」
それ以上、説明はなかった。
到着したメインレジデンスは、正面から見ると、想像していたよりも低かった。
低いが、横に長い。
白い外装は報道映像の印象より落ち着いて見える。玄関前の石段は浅く、来訪者を見上げさせない設計になっていた。大きさを誇示するというより、幅で受け止める建物だった。
ただ、その前に立つ人影が、建物の印象を変えていた。
黒いスーツの男が二人。
濃紺のスーツの男が一人。
エヴァが進むと、濃紺のスーツの男性は、彼女には目礼だけをして、そのまま通した。
私が続こうとしたところで、男性が半歩、横へ出た。
「失礼します。建物内に入られる前に、確認を」
私は鞄を持ち直した。
声は丁寧だった。
私の前に立った男は、まだ若かった。三十前後だろうか。濃紺のスーツは身体に合っていたが、肩の線に少しだけ硬さが残っている。髪は短く、耳の周りまできちんと整えられていた。
他の警備の人たちに比べると、物腰が柔らかい気がした。
私は名刺入れに手を伸ばしかけたが、エヴァの手がそれを制した。
「彼女はヴァルガスの顧問弁護士です」
濃紺のスーツの男性は、私からエヴァへ視線を移した。男は、私の鞄と両手を一度確認し、それからまた私の顔に視線を戻した。
「失礼しました。私は警視庁の――」
男はそう言いながら、内ポケットへ手を入れた。
名刺入れが半分だけ見えた。
「先生、こちらへ」
エヴァの声が、私の横から入った。
男の手が止まる。
私も一瞬、足を止めた。
この場で名刺を受け取るべきか、あとでいいのか。迷うほどの時間はなかった。エヴァはすでに玄関の内側へ身体を向けている。
私は男に軽く頭を下げた。
「失礼します」
「警視庁の朝倉です。以後、よろしくお願いいたします」
彼は名刺入れを戻しながら、半歩下がった。
玄関の扉をくぐると、建物の中は静かだった。
モナコのホテルのような、分かりやすい華やかさはなかった。大理石の床も、巨大なシャンデリアも、金色の装飾もない。
少し、ほっとした。
「警察の方も警護に来ているんですね」
「助かりますが、融通が利かないのが問題です」
言って肩をすくめるエヴァに案内されたのは、中庭に面した応接スペースだった。
ローテーブルの上には、タブレットが2台と、薄いファイルが一冊置かれていた。
私は鞄からノートを出してテーブルの上に置き、隣にスマートフォンを並べた。それから再度辺りを見回したが、やっぱりこの広さは落ち着かない。
「ナオ」
入ってきたところとはまた違う扉が開き、ヴァルガスが顔をのぞかせた。
白いTシャツに、薄いグレーのパーカー。足元はスニーカー。メインレジデンスの応接スペースに、まったく似合わない格好。
それでも、ヴァルガスの登場で落ち着かなかった空間が、少し和らいだ気がした。
「今日はよろしくお願いします」
「ヘリ、どうだった?」
「正直、慣れません」
ヴァルガスは少し考えるようにして、それから笑った。
「私は好きだよ。渋滞がない」
「それは確かに」
私が答えると、彼は窓の外へ視線をやった。
エヴァはタブレットから目を離さず、ヴァルガスの視線を察して言った。
「今日は敷地の外に出ないでください、と申し上げています」
「せっかく日本に来たのに」
「ずっと、というわけではありません」
「コンビニに行ってみたいんだよね」
「敷地内に建てますか?」
これだよ、とでも言いたげに。ヴァルガスは私を見た。
「ナオ、これじゃあ日本に住むとは言えないよね?」
返事に困った。先ほどくぎを刺されたばかりだ。
「まずは、書類上だけでも居住扱いにしましょう」
私はノートを開き、手続きを進めた。
途中、やり取りに飽きたのか、ヴァルガスはポケットからスマートフォンを取り出し、いじり始めた。
少しして、テーブルに置かれた私のスマートフォンの画面が、一件の通知を知らせた。
<Z:英語からの翻訳 / 原文を表示>
『秘書から外出禁止令。味方がいない』
私は反応せず、カバンの中に用意していた書類を広げ、ヴァルガスに差し出した。
「こちらにサインを」
◇ ◇ ◇
ヘリポートまでの道を、今度は逆に歩く。
木立の奥にいる警備の人影は、来た時と同じように、こちらを見ていなかった。
玄関前で会った警察の人とは違い、景色と同化している。警備を生業にしている人ならではだろう。
小径と呼ぶには広すぎる道を、来た時同様にエヴァと一緒に歩く。
「法人の活動は、各社の法務が処理します」
エヴァは歩きながら言った。
「先生にお願いしたいのは、ボス個人の活動です。税務に限らず、日本国内での個人的な行動について、必要な範囲で窓口になっていただきたい」
「行動の把握も、ですか」
「はい。報酬は、その分上乗せします」
そういう問題ではない。
そう言おうとしたところで、エヴァが先に言った。
「頼りにしています」
口を開きかけたところで、エヴァに先を封じられた。
口ぶりからして訳すと「一緒に苦労しましょう」ということなのだろう。
ヘリポートが近づくと、白い機体のそばで、ローターがゆっくり回り始めていた。
「では先生、次は東京で」
エヴァがヘリポートの手前で足を止め、そう言って手を差し出した。
「これから、よろしくお願いします」
お互いに言って、手を離す。
メインローターを低く回転させるヘリに近づくと、スマートフォンが震えた。
あかりからだった。
『先生、いまどこですか?』
私は少し考えてから、返信した。
『これから帰るところ』
すぐに既読がついた。
『ヴァルガスさん、これからコンビニに行くって投稿してます』
私は画面を伏せ、先ほど別れを告げたエヴァの方を見やった。
小走りで邸宅に向かっていく背中が見える。
その背中に向かって心の中で「お疲れ様」と声をかけ、ヘリに乗り込んだ。
三度目のヘリ。
モナコで一度。ここに来る時で二度。帰りで三度目。
少しは慣れたかもしれない。
シートベルトを締め、高くなっていく音を聞きながら、そう思った。
機体が浮いた。
これまでより落ち着いている自分がいる。
そう思った瞬間だった。
ゆっくりと上昇していた機体が、横から風を受けたように、大きく傾いた。
「――っ」
唐突に近づいた地面に、声にならない声が出た。
私は肘掛けを掴んだ。膝の上の鞄がずれ、足元に落ちた。
「大丈夫、大丈夫」
操縦席から声がした。
妙に軽い声だった。
「少し風が強いね。操縦は久しぶりだ」
足元に落ちた鞄を拾い上げながら、私は固まった。
今、聞き慣れた声がした。
ヘッドセット越しに、平坦な日本語。
操縦は久しぶり。
私は、ゆっくり体を起こして前を見た。
操縦席で、ヴァルガスが肩越しに振り向いた。
副操縦席に、行きの操縦士の姿があることだけが救いだった。
「……なにしてるんですか」
私の声は、自分でも驚くほど低かった。
「ナオ」
彼は前を向いたまま、楽しそうに言った。
「楽しまないとね」
私は、眼下に目をやった。
ヘリポートの端で、肩を上下させたエヴァがこちらを見上げている。表情まではわからなかったが、想像はできた。
握手で別れてから数時間後、私はエヴァと再会を果たした。




