第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑨――
ついに解き放たれて、フェンリルは歓喜していた。
そっとなぞっただけ、ほんの少し突き刺しただけで、面白いくらいにたやすく、敵が倒れていく。
忌まわしい獣たちが、悉く怯え、逃げ惑っている。
上がる蒸気は濃い霧のようだ。
赤い脈動が瞬く間に熱を奪われ凍りつき、冷めて真っ青に染まっていくのはきれいだった。
染まる形はそれぞれ異なっている。あぶくの大きさも、また、それぞれだ。
もっと見てみたい。
どれほどのことができるのか、試してみたい。
うずうずするのと同時に、抗おうとする意志もあった。
――これはいけないのじゃないか――このままでは、すべてが駄目になってしまわないか――これは――これでは――。
しかし喜びの奔流のほうがずっと勝っていた。
――何故駄目なんだ。守りたいなら、あらかじめ、壊してしまえば良い。そう考えていたではないか。ずっと望んでいたことではないか。敵がすべていなくなれば、守る必要だってなくなるのだから。平和とはそういうものだろう。すべて消しさればいい。そうできるだけの力を、とうとう得たのだから。こんなに簡単だったのだから。難しいことはない。なんの不都合もない。何も無かった頃に戻るだけ。元々何もなかったのだから――その最初にもどるだけ。ほうら、やってごらん? ほら。ほうら! 無くなった! もう大丈夫! すっかりしずかに――くらぁくなった――これでもうだいじょうぶ! ほらね? ほうらね?――。
でも、まぁ、それもそうかと、押し流されてしまう。
それに、抗うよりも、凍てつき焼ける疼きに身をゆだねてしまったほうが、渇望は簡単に満たされる。
そしてまたすぐに乾いて、渇える。次を探す。次の熱を求める。
――ほら、そこにいるよ。逃げているよ。にげられないようにしよう。こうしてね。ほうら。ね? 畏れているよ。おそれている。みんなもっと恐れるべきなんだ。もっと。もっと。おそれるがいい――
何かの拍子に、小枝の如くぺきりと折れた。短剣を取り落とすのは、もうこれで何度目だろう。大事なものなのに――まったく、この指ときたらもろくて仕方がない。うんざりする。でも大丈夫。握れないなら縛ればいい。これなら落とさなくてすむ。不便で壊れやすい器だが、橇と同じだ。きちんと補強すればそれなりにまた、使えるようになる。……そういえば、指先がすっかり青黒くなってしまっている。酷く冷えて痛むような気がする。……まぁ、でも、問題はない。痛みなど忘れてしまえ。乾きが満ちるまで、もてば良い。
だが乾きに底はなく、満ちることはないのに、ひたすら注ぎ続けなければならないのだった。
――ほうら。もうダイジョウブ! ほらね。ほうらね。まだ動くよ。まだまだできるよ! あれ? どうしたの――。
葛藤の波が打ち寄せる。
今にも押し流され、かき消されてしまいそうになる。
引き返す波が大きければ、打ち寄せる波もまた大きくなる。
そのような奔流を繰り返し、やがて、取り返しのつかない嵐となる。
――駄目だ。駄目だ、駄目だ――。カザド。せめて一度、カザドのところに戻らないと。あんなに血を吐いていた――側にいないと――ついていてやらないと。約束したのに。トルヴァ。ヘルガ。ルクー。ダイン。ロッタ。約束をした。探さなければ。一緒にいたい。会いたい。無事でいる? 本当に? どこにいる? エイナルと、ヴィーダルやヘイルの話がしたい。ケヴァンとグズリにお礼が言いたい。ブラギには謝罪を。感謝だってしている――本当に――本当に。――巫覡――あのままではいけない――閉じないと――馬。スキンファクシの子馬――スコル。ハティ。――探しに行きたい――どこに――どこに行けばいい――。
頭をふり乱す。
爪をたて、掻き毟る。
いっそこんなもの、割ってしまえば楽になるのではないか。
この肉の身体を脱ぎ棄てれば、どこへだって行けるのだろう。
それこそ、空にだって。
――望みのすべてを叶えるには、まず、成すべきことを成さなければ――
声が聞こえる。
誰だろう。
誰。
――私はアマナの血のような黄昏が見たい。はじめにそう、告げたはずだろうに――。
たそがれ。
黄昏。
そう。
そうだった。
でも。
どこに?
――あそこだよ。あそこ。世界の支柱。ほら。いっとう輝くものがあるでしょう。みえるでしょう。行こう。いこう! あれがそうだ! さあ、いこう! さあ――すりつぶしてしまおう――。
蠢く有象無象の中、確かにひときわ赤い、大きな揺らめきがあった。
そうか。
あれがそうか。
あれこそ、今、もっとも潰すべきもの。
求めるものに、もっとも近いもの。
確信に促がされ、急かされ、足を進める。
たそがれ。
黄昏。
一歩進むごとに割れていく熱の飛沫が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
邪魔だが、気持ちは急くが、これだって積もれば足しにはなるだろう。
すぐ近くの地べたでもがいている、それは世話しない鼓動のそいつを掴みあげる。
薄皮を掴み――剥がし――皮が――皮を――外套? 中身、が?
……こんな、淡い色だったろうか? もっと、こいつらは、暗くて、肌も目も髪も暗くて……。もっと……。
「や、やめ……やめて……許して……」
声。
声が。
訴える声が。
情けなく掲げられた腕に、恐怖で怯えていじけた目尻に、覚えがある。
? ? ?
どうして。
……どうして?
振りかぶった腕をおろせないまま、その名が思い浮かびかける。
どこかで、誰かが、玲瓏と命じた。
《眠れ。世界の支柱》
赤い光が一速に結びつき、空が閉じて断ち切られた。
光から解かれた重い雲のみが広がり、大気が凪いだ一瞬。
フェンリルの顔面に、内側でさく裂するような衝撃が走った。
「フェンリル!」
横倒しに倒れ、呻き声をあげるフェンリルに、カザドは叫んで取りすがった。
「フェンリル見せろ! 見せてみろ!」
内に丸まり蹲って悶える身体を、開かせようとするカザドの力に、フェンリルは無意識のうちに抵抗していた。頭を覆って、手足を突っ張り、ばたばたとのたうちまわった。
痛みから逃れようとする身体を全身で押さえつけ、顔を覆う腕をようやっと引き剥がす。
苦悶に歯を食いしばるフェンリルの右目には、深々と、矢が突き刺さっていた。
「っ……!」
カザドは息が止まりかけた。とっさにその矢を引き抜こうと掴む。だが矢を握りしめるとフェンリルがはね、悶絶する。矢尻にかえしがついているのかもしれない。
ためらう間に、顔面のあちこちを血の川がつたっていく。
「フェンリル――フェンリル。今は耐えろ。いいな」
呼びかける間にも、次の矢が飛んできていた。足を止めている場合ではない。
意識の曖昧なフェンリルを肩に担ぎあげ、カザドはその場を離れようとした。
だが前のめりに立ち上がったその際、彼らのすぐ側で目ばかりとなっていた少年を見つけてしまった。
「――ボズゥ?」
袂を分かったはずの、かつての養い子だった。
腰を抜かして蒼白な顔でこちらを見上げるボズゥは、何故か――暗い、地の民が着るような外套を羽織っていた。
「……じ、じいさん。フェンリルぅ……」
「お前、どうしてここに」
「ごめんなさい。ごめんなさい。……お、おれ……おれぇ……」
浅い呼吸が世話しなく、頭を掻き毟る。尋常たる様子ではない。よくよく見ればやけに煤けており、髪のひと房が焦げて縮れている。
カザドは戸惑いながらも再び呼びかけた。
「ともかく、お前も来い! 早く――」
このほんのわずかなためらいが、彼らをここに縛りつけてしまった。
飛んできた矢にカザドの腿が射抜かれて、三人の頭上から網が投げかけられた。




