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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸


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第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑩――

 目尻を涙がつたう感触があり、フェンリルは目を覚ました。そしてすぐに、激痛に襲われた。

 眼窩の奥のほうに不快感があり、目を開けていられない――だが閉じても痛みは無くならない。視線を動かそうとするたび、吐き気を催す激痛に支配された。

 なんとか不快感を拭い去ろうとして、できなかった。腕が後ろ手に縛られ、足首にも縄がかけられていた。拘束された状態で、彼は敷物の上に転がされていたのだった。

 大変難儀な思いをしながらなんとか頭を上げると、鼻筋につたった涙が次から次へと落ちてきた。鉄臭いにおいで気づく。流れていたのは涙ではなく血だった。

 何が起こったのかわからずに、フェンリルは更に起きあがれないものかと試みた。よほどきつく縛られているのか、指先にほとんど感覚が無い。


「――フェンリルか?」


 身じろぐフェンリルのすぐ側で声がした。自信無げな声だった。

 目を凝らして見える限りの周囲に目を配る。動かすたび、眼球にごろりとする感触があった。それが痛みの元だった。

 あたりは薄暗く、視界の右側が何かに覆われていた為時間がかかったが、片膝を緩めて胡坐をかくカザドを見出した。


「じ――」


 言いかけて咳こんだ。口の中が妙にざらついていた。


「フェンリル、あまり動くな。――目を射抜かれてる」


 カザドの呼吸が平常通りと知り、フェンリルはいくらか安堵した。それから目の違和感の真相もわかった。

 矢尻がどこまで刺さっているものか知れないが、もう、使い物にはならないだろう。


「ここは――おれたち、どうなったんだ」

「覚えていないのか」


 カザドは大儀そうに肩を動かした。


「戦士たちに囲まれて、最後には網を投げられて捕まった。ここは山壁に控えていた、戦士たちの本隊のうちだ」

「山壁……」


 では、フェンリルたちがカザドを追っていったのとは、ほとんど反対の方にいるのだ。居住地まで通り越してしまっている。

 そのうちに目が慣れて、カザドがフェンリル同様に拘束されていると気づいた。彼の腿はフェンリルの目と同じく、矢で射抜かれ刺さったままだった。

 よほど長く同じ姿勢でいたようで、身体の片側が痺れていた。再び苦労しながら身じろぎ仰向けになると、布地のたわむ天井が目に入る。彼らが囚われているのは小さな天幕の中らしかった。

 フェンリルの知る天幕とは造りが違う。四方に柱を立て、布地を被せただけの簡易なもので、出入り口と思われる布の合わせから細く光が差し込んでいる。

 首筋に触れる血で湿った敷物さえ、なじみのない感触とにおいだった。

 天幕の外から複数の人々の足音や馬の蹄の音がして、意味のわからない言葉を発しているのも聞こえてきた。

 所詮は多勢に無勢。最後にはいともあっけなく、フェンリルたちは捕まったのだ。

 こうして二人とも生きているということは、もろとも、あの下衆の元に連れてこられてきたのだろう。

 フェンリルはふと気になって、声を絞り出した。


「……ス、コルと、ハティは?」

「逃げた。そう信じたい」


 カザドにも確信が持てないようだった。

 カザドが気絶してからのことを、フェンリルはまったく覚えていない。そして今や、それらに思いを馳せてもどうしようもなかった。


「……死にぞこなった」


 カザドがぽつりと呟いた。


「最後の最後でしくじったな。俺も、お前も。……まぁ、よくやったさ」


 その声がやけに軽快だったので、フェンリルはつられて力の抜けた笑みをこぼした。どちらのものともつかない、そぞろ笑う声が、天幕の中に満ちていく。

 やるだけやった。あがく力も、すべも、残っていない。五体満足ですら無くなった。でも不思議と、悪い気分ではない。長年の憑き物が落ちたような爽快さだった。

 せめてトルヴァたちだけでも、逃げおおせてくれていると良い。思い残すのはそこだけだ。

 その時、外の足音が天幕の前で止まった。フェンリルははっとして、どうにか身体を動かし、顎をついて膝立ちになろうとした。



「おい、動くな」


 カザドが警告してすぐ、天幕の一部が広がり日が差し込めた。

 外では未だ重い雲が垂れこめており、景色は暗かったのだが、灯りのほとんど入らなかった天幕内ではそれでも眩しかった。

 今や、フェンリルの目にはわずかな光でさえ刃となった。体勢を整えることは間に合わなかったが、痛みを堪えて相手を見すえようとする。

 これから来るのがあの下衆だと、フェンリルは確信していた。

 フェンリルに腕を裂かれて落馬したあいつ――あの腕はきっと、落とさざるを得ないだろう。  

 相手がフェンリルたちをどうする気であれ、どうせ全部一度きりだ。せめて少しでも平気な顔で無様な腕でも拝んでやろうと、自らを奮い立たせた。最後の意地だった。

 しかし戦士に手をとられてきた人物の姿は、予想とは大きく異なっていた。

 それは額に重たげな飾りをつけ、炎のように赤いまっすぐな髪を背にさらりと流した少女だった。

 すんなりと長くしなやかに伸びた背筋には、ヘルガに通じるものがある。それと同時に、隣に並び立つ戦士に対しては小柄に見えた。首など、ほんの少し力を込めただけで折れそうである。

 これまで見たことないほどに身綺麗で、血生臭さや暴力事とは、一切無縁の人物と思えた。

 なのに儚げというよりも、異質な崇高さがあった。

 それは静かな表情の中で熾き火のように灯る、赤いまなざしのせいかもしれない。あるいは猛々しい戦士にかしずかれることを、当然として受けとっているたおやかな手指。

 または、このように血生臭い者たちを悠然として見下ろす、立ち姿のせいかもしれなかった。

 少女はカザドとフェンリルを交互に眺めると、冴えた低い声を発した。


「――これより問われることにのみ答えよ。隊長殿の腕をあのようにしたのは、いったいどちら?」


 *   *   *


「もっと肉体の戒め(レージング)を寄こせ!」


 隊長は吠え、差し出された丸薬を乱雑に掴み、がりがりと貪った。

 裂かれた腕は簡易的にだが治療を終えていた。命じられるまま無理矢理に縫い合わせ縛ったものの、血が止まらない。

 そのままではいずれ腐って毒が回ることは、誰の目にも明らかだった。


「くそっくそっくそ! あの青鼠め――必ず見つけだしてやる。奴の血縁もだ! 身内ならば、青毛ももっといるかもしれん。もろとも捕えて、地帝陛下に突き出してくれる!」


 歯をむき出しにしてぶつぶつと同じことを繰り返す隊長に、従者は辟易しきっていた。

 捕まえた天の民(ヴィト)の子供も、それを連れ去った少年たちも、未だ捕えたという報告が無い。彼らを追った仲間たちも、誰ひとり戻ってこない。


(深追いをさせるべきでは、なかったのじゃないか……)


 よろしくない選択をしたのではないかという気がしていた。

 すると、不安を隠しきれない従者と、苛々と喚き続ける隊長の元に、ひとりの戦士がやってきた。

 それが常に姫君の側を離れなかった護衛だと知り、従者は奇妙に思った。


(まさか、姫君に何かあったのか)


 より不安が増した従者に反して、隊長は相手を見るなり吠えたてた。


「手ぶらでなんだ! あの鼠どもを捕えたのか?」


 従者はぎょっとした。ほとんど言葉を交わしていなかったとはいえ、あろうことか隊長は、姫君の護衛の顔を覚えていなかったのだ。

 護衛は一度片眉を跳ねさせたが、そのことについては追及せず、淡々と告げた。


「隊長殿へ、姫君よりご伝令です」

「何? 貴様いったい――」


 隊長はようやっと、目の前の相手が何者か気づいたようだった。一度口ごもったがすぐに元の、居丈高な調子を取り戻した。


「姫君はなんと?」

「撤退せよと」

「撤退――撤退だと? このような状況で?」


 隊長の額に、びきりと血管が浮かびあがる。護衛は再び告げた。


「もはや犠牲のほうが多い。というのが姫君の見解です。――これ以上泥をかぶりたくなければ、即時撤退し、本来の任務に戻るようにとの仰せでした」


 これには隊長どころか従者も驚いた。

 これまでずっと、帰還のみを口にしてきた姫君が、ここにきて初めて、進軍についての明確な意思を示してきたのだ。それも、痛切な皮肉まで込めて。

 本当にあの姫君の言葉なのか、にわかには信じ難かった。特に最後の一言など、この護衛が姫君の名を借りて、自らの批判を告げたようにしか思えない。


(帰還? これほどの犠牲が出て、撤退し、ただ帰還? 馬鹿な!)


 しかし隊長はそういった諸々に考えを巡らせるよりも、じわじわと怒りと焦燥をこみ上げさせていた。


「戦を知らぬ小娘めが……!」


 隊長の食いしばった歯の隙間からもれ出たのは、あまりに不敬な一言だった。従者は護衛の目が一瞬、殺意で閃いたのを見てひやりとした。


「――姫君の元へ向かう。私が直接、話を伺おうではないか」


 隊長の命令に、護衛は少々考え込む素振りだった。だが最後にはこれを了承した。

 命令に黙って従う人物なら、今頃皆、ここにはいないはずだと彼も理解していたのだ。

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