第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑪――
「その腕はどうされました?」
移動中、護衛は意外な質問をした。
沈黙を苦手とする人物には見えなかったし、隊長を気遣っているとも思えなかった。
「天の民の少年にやられました。敗北神と同じ、青い髪の……」
痛みで口を真一文字に結び、進むことにのみ没頭していた隊長に代わり、従者が答えたのだが、すぐに叱責がとんできた。
「余計なことを申すな。こんなもの、なんでもないわ!」
「青い髪の――天の民ですか」
前を行く護衛が、横目に隊長らを見た。隊長の腕は今も滲む血で錆臭かったが、肉体の戒めと怒りのおかげで痛みが鈍くなっているようだった。
「それは珍しい。その天の民は?」
「今追手をつけさせているわ! 生け捕りにして、姫君の前に差し出してくれる――そして一族郎党、そやつの目の前でたっぷりと――」
それ以上は聞くに堪えない内容だった。従者は隊長を乗せた馬の手綱を握る自らの手が、汗でじっとりと湿るのを感じた。
(肉体の戒めによる錯乱だ。そうに決まっている)
護衛のほうはと言えば、それきり押し黙ってしまった。
そうしてついた先は、姫君がおわす箱馬車のほうではなく、隊長が腕を裂かれた現場のほうだった。
わざわざ苦々しい記憶の現場にやってくるとは、皮肉が効きすぎている。案の定隊長の顔は憤怒に染まり、従者は胃がきりきりする思いだった。
すると突如として、玲瓏たる声が響き渡った。
《眠れ。世界の支柱》
一瞬、世界の支柱の破片より大気が凪いで、すぐに中心からぶわりと波打った。隊長と従者はそろって向かい風に顔を庇い、次に目を開けた時には、赤く脈動するようだった輝きは、鳴りをひそめていた。
そうして破片は、よく見知ったほの青い燐光のそれへと戻っていった。
「――何故、御車から出ている」
隊長が驚くのも当然だった。凄惨な場に似つかわしくない、豪奢な外套を身に纏う小柄な人影がそこにいたのだ。
「かようなところで、何をなさっているのか。姫君よ」
破片に手を這わせていた姫君は、はじかれたようにこちらへ向いた。
その動きに合わせて、頭から被った薄衣が揺らめき、紅をさした艶やかな唇が垣間見えた。
従者は姫君がこうやって野外にいる姿を初めて見た。小柄なかただと思ってはいたが、こうして立つと猫背ぎみであり、更に小さく見えた。
「これはいけませんな。箱馬車で待機していて下さいませんと。貴女の元へおいた者たちの面目が、立たないではありませんか」
非難めいた呼びかけに、姫君は後ずさった。複雑に結われた暗赤色の髪が揺れ、毛先の飾り玉がしゃらしゃらと鳴る。
表情こそ見えないが、隊長の出現に驚きおののいている様子だった。
「お待ちを」
怯える姫君を意に介さない隊長の足を止めたのは、姫君の侍女だった。
この侍女は姫君の信頼が厚く、もっとも頼りにされている人物だ。
臆病な姫君の世話をこまめに焼き、その意思を誰よりも尊重し、隊長との仲立ちをしっかりと勤めている。
だが隊長からすれば、姫君には忠実だが、洒落っ気も愛想も、悲しいほどに欠けているという印象が強かった。
髪も目鼻立ちも。それなりではあるが、見た目はけして悪くない。姫君の侍女に選ばれるだけあり、良いところの育ちなのだとひと目でわかる立ち居ふるまいでもある。
磨けば光る玉に違いなく、あの姫君相手ではさぞや苦労しているだろうと、道中少しばかし優しくしてやったのだが、露ほどもなびかなかった。
ぴっちりと纏めあげた髪は、冗談の通じない生真面目さを、雄弁に物語っている。愚鈍な姫君にふさわしい、実につまらない女なのだった。
侍女は無表情に姫君と隊長の間へ立ちはばかり、抑揚なく言った。
「隊長自ら何用です。伝令をお聞きになっていらっしゃらないのでしょうか?」
「姫君に直接、お伺いをたてに参った次第だ。下女は引っ込んでおれ」
侍女が視線を投げかけると、護衛は少々ばつが悪そうに目を逸らした。
「このように、申されましたので」
隊長の横暴さを前にしても、侍女の態度は変わらず淡々としていた。
「何をお知りになりたいのでしょう」
やはり面白味のない女だと、隊長は鼻を鳴らした。侍女の背後に隠れた姫君に向け、大仰に言い放つ。
「撤退をお命じになられたようですな。それは何ゆえでございましょうか?」
すると侍女の背後に回っていた姫君が、もじもじとその袖を引いた。双方には背丈に差があったため、侍女はいくらか身をかがめて、耳を傾けなければならなかった。
そうして耳打ちされた侍女が告げたのは、護衛の伝令と、ほとんど同じことだった。
「――姫君は、この進軍が無意味だと仰せです。このまま続けて、たとえこの場をうまく収めたとしても、犠牲の方が多い。なのに得られるものはさほどもありません。――これ以上は隊長殿が、自らの首を絞めることになるでしょう」
侍女の言うことに、従者はますます驚いた。長く箱馬車に籠っていながら、姫君は誰よりも現状を把握していた。
侍女は姫君に向けて頷きながら、更に続けた。
「しかし今すぐ撤退し、本来の任務に戻られるのであれば、わたくしが擁護できるところもありましょう――と、仰られております」
隊長はかっと目を見開かせた。
握りしめられた無事な方の拳が、わなわなと震えだす。
「――何が」
そして突然、手負いとは思えぬ素早さで侍女を突き飛ばし、姫君の胸倉を掴みあげた。
「何をなされます!」
倒れ込んで侍女は叫んだ。淡々としていても、この事態にはさすがに表情を強張らせていた。
とっさに腰の剣に手が伸びた護衛を、侍女は手で制した。
片腕とはいえ隊長は尋常ではなく、迂闊に動けば姫君が危うい。従者は戸惑ったが、まずは侍女を支え起こすことにした。
「何が、擁護か。この小娘めが! 一丁前に、俺を脅しているつもりか――愚鈍極まりないお前を、ここまで手厚く守ってきてやった、この、俺を! 自ら戦士たちをまとめ上げることもできぬお前に、何ができようか!」
隊長は目を血走らせて、唾を飛ばした。
「戦に犠牲はつきものなのだ。その先にこそ真の勝利が待っているというのに! 撤退せよだと? この状況で撤退などすれば、それこそ、悪戯に味方を失っただけで終わるではないか! 俺のこの腕とて――それを、貴様!」
追いつめられた神経でのたまいながら、激しく姫君を揺さぶる。
姫君は首をのけぞってつま先立ちになり、苦し気に呻いた。目を覆いたくなる光景だった。
それがより、隊長の嗜虐心に火をつけた。
「いや、それともいっそ、これは好機か? 迂闊に敵の前へと舞いでて、捕虜になったお前のために、進軍したのだということにしてしまおうか――ええ? 告げ口できるものならしてみろ! できぬ身体にしてやろうか――」
はらりと、薄衣が完全にとれて姫君の顔が顕わになる。暗赤色の髪が頬にかかるのは、道中何度も見てきた憂い気な細面だった。
しかし隊長はその顔を見て、違和感を覚えた。
暗いとはいえ、昼の野外で初めてまみえたその顔。世界の支柱の破片に照らされたその顔は、恐怖に満ちた目元と歪む口元に、細かな皺がいくつも刻まれていた。
皺にはドーランが埋もれ、淡黄色の肌が粉をふいている……。
厚化粧を施した年増女のそれだった。
「あ……ぅ……」
榛色の瞳に涙が溜まり、震える唇が苦痛ではくはくと開かれる。赤い紅に縁どられた口内を見て、隊長は我が目を疑った。
姫君には舌が無かった。
暗い肉色の喉奥がのぞける程の根元から、無惨に断ち切られている。それも昨日今日ではない。何年も前からそうだと思われる傷だった。
――ではあの耳打ちは?
この姫君はどうやって、自らの言葉を代弁させていたのだ。
「支離滅裂だこと」
冷たい呟きに、背筋がぞわりと総毛立つ。
隊長がふり返った先で、従者に支えられていた侍女が自ら立ち上がり、裾を払っていた。
編んで纏めあげられていた髪がほどけ、細い肩や背にこぼれうつ。侍女は一度従者にちらりと目配せした。そのまなざしを受けて、従者は揺らめく火が灯ったように錯覚した。
侍女は唇に細い指を這わせて顔をしかめた。
「まったく乱暴な。口が切れてしまったではないの」
「おい……これは……どういうことだ?」
「どうとは?」
侍女は小首を傾げた。
「これは……これはいったい何者だ! これは姫君ではない! 姫君はいったい――何処に――」
能面のようだった侍女の無表情がふいにほころび、血の滲んだ唇が、匂いたつほどのあやしさで弧を描く。
「貴様の求める姫君なぞ、どこにもおらぬわ。はじめからね」
いるのは、不器量な蛹を脱ぎ捨てた艶やかなる蝶だった。
隊長も従者も、そろって全身に冷や汗が吹き出していた。侍女は、蝶の羽ばたきの優雅さで一度手を打った。
「シグルド」
無言のまま前に進み出たのは、護衛だった。彼は瞳に剣呑な光をたたえ隊長を見すえた。
「戯れはしまいだ。許す」
「はい」
短く返答すると、護衛は腰にしていた細みの長剣を鞘走らせた。
隊長は自らの喉元が一瞬、冷たい物でなぞられたのを感じた。そしてひと息ののちに、熱い物がそこからだらりと流れ出した。
何が起きたのかわからぬまま、隊長は膝をつき喉元を押さえ、清かにして豊かなる声が朗朗と告げるのを聞いた。
「たび重なる任務放棄。状況の悪化を悟れず無謀な進軍。血族の名を嵩に己の目的遂行のみを優先」
ぎりぎりと、ぎこちなく動く首が見上げた先、これまでたいして気にも留めていなかった侍女の表情を、改めて見た。
燃えるまなざしが――一切の慈悲も無い、炎のまなざしが隊長を見下ろしていた。
「貴様の所業を、細かなところまですべて述べたらキリが無いが――。一番はこのわたくしを、侮ったことであろうか。斬り捨てるには充分かと思うが、いかが?」
「よろしいかと存じます」
護衛が頷いた。すっきりと溜飲の下がった表情だった。
(違う。侍女ではない)
成り行きを呆然と眺めていたばかりの従者も、この頃には理解していた。
(このかただ……このかたこそが、そうだ)
従者は、わし掴まれた心臓がどくりと湧きたつのを感じた。
(このかたこそ、我らが女神の……)
熱く滾る血潮が冷めきっていた全身を駆け巡り、魂が歓喜に震えて涙が滲む。
姫君は、優しく微笑みながら隊長に向けて言い捨てた。
「今回のことは、よい学びになったよ隊長殿。不相応な大義を課せられて、随分と気をもませてしまったようだね。でもこれより先のことは、もう、気にせずともよろしい。――貴様なぞの支えが無くとも、わたくしの足元は揺らがないの」
隊長は絶句しながら、自らの血溜まりの中で果てた。




