第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑧――
口元を、生暖かく湿った物がくりかえし這う感触に、カザドは覚醒した。
瞼が大層重く、視界がぼやける。何度か瞬き、長剣に身を預け膝をついた姿勢のままでいたと気づいた。
琥珀色の瞳を持つ黒狼が、しきりに顔をなめていた。
「……スコル」
カザドは愕然とした。このような窮地で――しかも身を隠せる物もほとんどないこんな平野で、なんと言う体たらくだろう。
(――いったい、いつから。どれほどの間)
呼吸が楽になっており、手足に力が戻っていた。直前に飲んだ丸薬の効果が、如実に表れている。即効性があるとはいえ、それほどには時がたっていた。
周囲をさっと見渡して身構える。すぐ側にはスコルとハティしかいなかった。
「おい、フェンリルはどうした」
ハティはカザドが意識を取り戻したと知ると、すぐさま纏わりついてきた。
鼻面から顎まわりにかけて、赤く汚れている。獲物を仕留めたことを褒めてほしいのかと思ったが、そうではなかった。
耳を伏せ尻尾を股の間に挟んで、切なげに鼻を鳴らしている。ハティは何かに怯えていた。一見落ち着いて見えるスコルのほうも、全身の毛がぶわりと膨らんでいる。
訝しみながら、カザドは側頭をとんとんと叩いた。山を下ってからこちら、片耳がおかしくなっており、どうにも水の中のように音がぼやけている。
そうして耳に戻ってきたのは、戦いの喧騒というよりも、恐怖に満ちた悲鳴だった。
「――なんだ」
カザドはそれがなんなのか、はじめ、わからなかった。それは揺らめいで踊る青白い炎に見えた。
炎には淡く発光して縁取られた、人間の輪郭があったのだが――頭髪はもちろん、目鼻や手足といった人間の造形を、当たり前に持っていたに違いなかったのだが――何故かそれらを結びつけて、人の形として捕えることができなかった。
手足も肉薄する身体もそれぞれ独立してばらけ、動きに規則性が無く、二足で立つ獣のようでもあった。
背を向けて逃げ惑っているのは女神の戦士たちだった。初めこそ威勢よく迎え討とうと立ちはだかり得物を向けた。
だが炎を纏う獣は、相手が何を向けているかなどお構いなしだった。攻撃をよける素振りがなく、ただましろな牙を振りかざすことにのみ、ひたむきでいる。
その牙に撫でられ、突き立った途端――戦士が絶叫を迸らせた。
「ぎゃっ! あっ――はぁっ――う、あ、゛ああ゛あっぁぁ゛あ゛あ゛ぁぁあ゛あぁ!」
戦士は背や胸をがりがりと掻きむしって悶え苦しんだあげく、突然動かなくなって顔面から倒れ伏した。獣と対峙した者は皆そうで、かろうじて避けたとしても蹲る姿勢で呻いていた。
牙が――キンと白く凍てついた短剣が刺さった箇所が、焼き鏝をあてたかの如く音をたて、蒸気を昇らせていた。
服を脱がせることができたなら、短剣で撫でられた戦士の皮膚が、血も噴かずに青黒く変色し、細かなあぶくをたてていたのがわかっただろう。突き立てられたその傷から心の臓までが、同じく沸騰したようになって壊死したのもわかったに違いない。
遠目にその光景を見て、カザドはぞくりと悪寒が走った。
カザドはその所業から、伝説の戦士、狂嵐の獣とまで呼ばれ忌み嫌われてきた。畜生よ、外道よとそしられてきた。
同族殺しの罪人がどうした。裁けるものなら裁いてみろ。殺せるものなら殺してみろと開き直り、誇らしく思っていたことすらある。
だがそんなものは所詮、人間の枠組みの中での話に過ぎなかった。
許す、裁く。許さない、裁かないといった話ではない。あれにはそんなもの通用しない。抗う意思を、あらかじめに挫いてくるものだ。
人間のことわりの通じぬものが――解き放ってはならなかったものが、今、この世に顕現し、すべてを平らかに、薙ぎ払おうとしている。そう、全身が、魂が、訴え叫んでいる。
そして獣は、彼の養い子の輪郭をしていた。
「……フェンリル」
長剣を支えに、カザドは立ち上がった。
ぐいと、引っ張られる感覚を覚えて下を向くと、スコルが彼の外套の裾に牙をたてていた。
鼻面に皺を寄せて唸るスコルは四肢を突っ張り、彼を先へは行かせまいとしていた。
「行くなというのか」
あれは破滅の権化であり、立ち向かうようなものではない。近づけば敵も味方も無く、喰らいつくされるだけ。
誰であれ、できるのは逃げることだけだと、カザドもどこかで理解していた。
「……そういうわけにも、いかねぇよ」
あの力の正体がなんであれ、ふるう者すらも蝕む極悪なものには違いない。でたらめな動きをする青黒い手が、そのことを物語っている。
カザドはスコルの顎を振りきった。裂けた頬の刺青から新たに血が滲んでおり、腕を振っただけでぽたぽたと垂れ落ちる。
軋む身体をおして、カザドはもつれる手足を動かし吠えた。
「フェンリル戻れ――戻ってこい!」




