第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑫――
答えるべきか否か。フェンリルが選んだのは沈黙だった。カザドは知らないことなので、当然無言でいた。
やがて少女を天幕に促がした戦士が、フェンリルを鞭で打ちすえた。
「フェンリル!」
カザドが吠えて身じろいだ。戦士はそちらには気をまわさず、自らが痛めつけた相手に向け冷然と命じてきた。
「問われているのだ――即答えよ!」
真新しい痛みに、頭の中が白く明滅した。矢の刺さった側を庇うようにして、顔を敷物に預けてフェンリルは呻いた。
「こら」
少女が戦士に言った。
「それでは、答えられるものも答えられない。ほとんど虫の息だもの」
少女は自らの顎に細い指を這わせて、思案気に呟いた。
「問いかけの意味がわからない? もしくは言葉がわからない? 共通の言語のはずだけれど……ああ、耳が聞こえないとか?」
フェンリルはこの少女が何者であれ、少なくとも味方ではないと思った。
その虫の息の相手が、更に痛めつけられる場面を前にして、出てくる言葉がこれなのだ。遙か高みから投げうつような、傲慢さがある。
「……そいつは。そいつの腕は、どうなった」
フェンリルは、途切れ途切れにささやいた。
「あれじゃあ、もう、斬り落とすしかなかったんじゃないか……」
「まともな治療はしなかったよ」
意外にもきちんと、少女は下衆の行く末を教えてくれた。
「傷が元というわけではないけれど、その前に、女神の懐へと抱かれてしまったから」
女神の懐――ではつまり、あの下衆め――死んだのだ。
少々呆気にとられたのち、笑いがこみ上げた。
「ざまあみろ」
嘲笑と共に言い捨てたフェンリルに、少女はかすかに目を見開かせた。それから口元を、華やかにほころばせた。
「お前たちがやったことを、責めるつもりで問うたのではないよ。先に進軍したのはこちらだもの。ただあんなことをしたのが何者か、知りたかっただけ」
「そっちこそ誰なんだ」
戦士が眉根を寄せて、かっと目をいからせた。
再び鞭がしなるかと思ったが、少女が制した為それは無かった。「不敬者め」と、口の中で呟くのみに留まらせている。
少女はうっすらと柔らかな笑みを浮かべたまま、その場にしゃがんでフェンリルの顔を覗きこんできた。
「こんな状況なのに、物怖じをしないね。お前」
小首を傾げると、頬にかかる髪がさらさらと音をたてた。どこか甘い、春の花のような香りが降ってくる。
そして少女は優雅な細長い指先で、ふいに、フェンリルの目に突き刺さったままの矢を掴んだ。
突然のことにフェンリルは、絶叫を上げてもがいた。しかし戦士に背中と足を押さえつけられて抵抗できず、成り行きを受け入れるしかなかった。
椀の底を掻き回すような手つきだった――。丁寧に、ゆっくりと、眼窩の奥が回り、底の何かが断ち切られる。
やがて相手がその優しげな手で引き抜いた矢の先には、差し込む光にてかる、血に濡れた目玉が突き刺さっていた。目玉の尻から垂れ下がる神経から矢の軸をつたう血が、少女の指先から手首を濡らしている。
引き抜かれる際の激痛に、フェンリルは吐いた。
空になった瞼の奥からどぼりとこぼれた血液と、自身の吐瀉物が混じるそこに顔を落とし、その中でまた吐いた。カザドが繰り返し彼の名前を叫ぶのが、どこか遠くの出来事であるようだった。
苦痛に喘ぐ最中に、少女の声が降り注いだ。
「わたくしはアルディーズ」
アルディーズ?
「アルディーズ・ネル・フリーヤ・ミドガルズ。現地帝ダナヨルダの第二子にして、ミドガルドの主、アマナ女神の血を引く者である」
アマナ女神?
「姫さま。このような者に名乗るなど」
「わたくしは名乗りを恥じたりはしないよ。相手が何者であってもね。――むしろいっそ、二度と忘れられぬようにしてあげる」
戦士が諌めたが、アルディーズの声はどこまでも涼やかだった。
「ああ、そうだった――お前、入っておいで」
促がされておずおずと天幕に入ってきた人物に、アルディーズはたずねた。
「これがお前の嘆願していた、青髪の天の民と思うが。いかが?」
嘆願と聞きつけ、フェンリルは落ちかけていた意識を再び浮上させた。そしてぶれる視界で、その人物を確かにとらえた。
焦げてより鳥の巣のようになった金髪。血の気が失せてそばかすが目立つわし鼻。光のない紫紺のまなざしがこちらを見下ろし、それは小さく頷いた。
「そう。それは良かった。でも――どちら?」
ボズゥの真っ白な顔に、みるみる汗の玉が浮き、滝のように流れ出した。選択を迫られながらも答えられず後ずさり、ただ小刻みに首を振る。
フェンリルは腹の底で、長虫が這いまわるような気持ち悪さに襲われた。
そのうち、アルディーズのほうが折れた。
「まあ、どちらでもよいか。――おや」
アルディーズが再び視線を落とすと、自身の汚物の中で、フェンリルが息も絶え絶えに、這っているところだった。
ずる、ずると、ボズゥに向かって。
何故お前がそこにいる。何故。何故。何故!
ボズゥ、お前、いったい、何を連れてきた?
いったいこの地に、何をもたらした――。
聞きたいことは黒い衝動へと転じて、喉元からせりあがる。だが言葉にはなっていなかった。
恐怖か。嫌悪か。ボズゥの表情が歪んでいく。
「これはいけない。魂の戒めをここへ。――まずはこの血気をくじかなければ」
冴え冴えと命じるなり天幕を立ち去るアルディーズに代わり、新しく別の戦士が入ってきた。その手には、網目の入った蓋つきの小さな入れ物が乗っていた。
拘束されているフェンリルたちでは、どうあっても届かない場所にそれを置くと、蓋が開けられ、中に火がぽとりと落とされた。
間も無く網目の隙間からゆっくりと、くゆる白い煙が流れ落ちてきた。
戦士はしっかり煙が吐き出されたのを確認すると、アルディーズと同じく天幕を後にした。ボズゥがその後に続き、最後に鞭うった戦士が続く。
わずかの光も入らないほど入口がぴったりと閉ざされて、敷物の上を這うように広がる煙の白さがよりくっきりと際立った。
「フェンリル――フェンリル、聞け!」
暗闇の中、カザドがにじり寄ってくるのを感じた。
「この煙は奴らが好んで使う香だ――吸い込めばたちまち、意思の自由を奪われる」
最悪なことを聞いた。こんなもの――好調ならたやすく吹き飛ばせるだろうに。頭の奥がずっと、激痛でずくずくしている。
「こんなものをわざわざ使うということは、奴らは、俺たちを殺そうとまでは思っていない。生きて帝国に差し出す気だ。生きた青い髪の天の民は、希少だからな――」
カザドは早口でまくしたてた。その間にもみるみる煙が充満していく。獲物を囲いゆっくりと追いつめる、蛇のように――。
「フェンリル、今は耐えろ。今は俺もお前も、満身創痍だ。だが耐えて待てば、必ず脱出の機会は巡ってくる。必ず奴らは油断する――その時を待て――待つんだ――良いな――退路は、俺が――」
カザドの呼吸が間延びしたかたと思った矢先、ふいにごとりと倒れ込んだ。目の焦点が合わず、表情はだらりと弛緩し、口の端から涎が垂れるほど緩みきっている。
煙の効果を目の当たりにし、フェンリルは身の毛がよだった。この煙を吸い込んではならない――。だが呼吸せずにいられるわけもなく、すぐに喉の奥に、甘さのある苦味が広がった。
世界がぐるりと回転する。もしかしたら回っているのは、フェンリルのほうかもしれない。
そうやって二人、ぐるぐる混濁する意識の中に堕ちていった。
* * *
「さて、この先の指揮はわたくしがとろう。異論あるか?」
「ございません」
「うん。では急ぎ戦士たちを集め、撤退といこう。やれやれ、これでやっと帰れるわ」
「一言だけ、よろしいですか?」
「うん?」
アルディーズが視線を投げかけると、シグルドは眉間に皺を寄せた。
「お戯れがすぎます。あまり冷や冷やさせないで下さい」
アルディーズは目をしばたたかせ、くすくすと笑い声をたてた。
「はあい」
全然伝わっていない気がして、シグルドはより渋い顔になった。
正体を知らずとはいえ、突き飛ばされたことを思い出せば憤死しそうになる。あのような暴挙、許すべきではなかった。
アルディーズの考えを、すべて把握できるなどとはおこがましいが、もっと早くに対処もできただろう。何も彼女自ら、危険に身を投じずとも……。
(あのようなやつらばかりを寄こして……帝国はどういうつもりだ)
これからのことを思えば頭が痛くなる。シグルドは深くため息を吐き捨てた。
シグルドの心痛など知らず、アルディーズはその赤い髪を手で肩に払い、後ろをとぼとぼと歩いていた、みすぼらしい鳥の巣頭を示して言った。
「この件の最大の功労者と言えば、お前だろうね」
シグルドは信じられないと目をむいた。
「姫さまが望まれた進軍ではないでしょう。何より――こいつは天の民ですよ」
「取引を軽んじれば、それこそあの愚物と同じよ。なんと言ったかな、お前――。こら、聞いていて?」
アルディーズがぱんと手を打つと、少年は垂れ下がった暗い眼を向けて、のろのろと呟いた。
「……ボズゥ」
そのあまりにもふぬけた態度に、シグルドは苛立ちを覚えた。だがアルディーズは意に介さず続けた。
「そうそう、ボズゥ! 感謝するよ」
「……感、謝ぁ?」
アルディーズは頷いた。
「あの手の古参連中は、少々目の上のこぶでね――。いずれ、ふるいにかけねばと思っていたんだよ。そこでお前の手引きだ。予期せぬより道に辟易していたが、僥倖だったよ。おかげでいくらか、帰りの足が軽くなった」
「……はぁ?」
次の瞬間、ボズゥははじかれたように叫んでいた。
「――だ、騙した!」
アルディーズはきょとんとした。
「騙したとは?」
「たっ、助けるって、協力すれば助けるって、言ったのに――なのに、あれじゃあ――あんな、ぼろぼろじゃあ――」
「助けたろう。命はね。あとは知らないよ」
一度すげなく返したアルディーズだったか、絶句するボズゥを前に、紅をさした唇をすぼませた。
騙した覚えはないが、確かにこれでは野犬を拾っておいて、餌も与えず放っておくようなものと気づいたのだ。




