第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑦――
再び一振り棒切れがしなった。ただの棒きれに過ぎないのに、迂闊に近づけば吹っ飛ばされて、叩きこまれれば額が割れるとさえ予感させる。
カザドが振るうそれは、もはや戦士のどの得物よりも凶悪だった。
『皆構えろ!』
あわやで避けた戦士が声を張る。絶句していた戦士たちは我に返って得物を構えた。その間にも二人ほど吹き飛ばされた。誰もその間合いに入れる者はなく、徐々に後退させられる。
やがて棒きれのほうがカザドの力に押し負けた。避けられた拍子にべきりと折れて、その先がはずむように地面に跳ねかえる。
『今だ――行け行け! 回り込め!』
勇気ある者が一歩踏み出した。長らく演習してきたとおりの綺麗な一突きであり、たとえ一撃入らなかったとしても誰しもが怯む。庇っても避けても次の行動に転じやすい。
だが演習とは異なり、相手はこちらに向かって一歩踏み出し、まっすぐに腕を突き出してきた。
『あ゛っ』
折れてささくれだった棒きれが、戦士の下顎から口腔を貫いていた。
カザドは即座に突き刺した棒きれから手を離し、絶命に至っていなかった戦士の手首をひねりあげた。
奪い取った長剣を逆手に、脇下から胸へと薙ぎ払う。身体がほとんど断絶した状態の戦士に目もくれず、そのまま次の獲物へと向かっていく。
カザドの前に立つ者が、それこそ木端の如く薙ぎ払われていく光景に、フェンリルはしばし見入っていた。
「立て!」
反射的に縄を振りほどいて前転する。引っ張る相手がいなくなった今、こんなもの、なんの拘束にもなりはしない。落とした短剣を手に駆け出した。
二人と二匹はそれ以上の言葉を交わす暇もなく、襲い来る相手を次々となぎ払っていった。どこへ逃げたものかもしれず、振り切るという考えももはやなく、ただただひたすら、がむしゃらに。
敵を切り崩していった末か、追いやられた末かもわからない。いつの間にか喧騒は遠ざかり、気づけば開けた平野にいた。スコルとハティが、どこかでとどめを刺す音がする。
たった二人と二匹で、よく切り抜けたほうと言える。窮地の高揚感故の、鬼神の如き猛攻だったろう。だが確実に限界は近づいていた。
これは本気で撤退を考えるべきだろうと思った矢先、ぐらりとカザドが傾いだ。
「じいさん」
フェンリルが駆け寄ると、カザドは額に脂汗が浮かべて血を吐き出した。
「――お前、いったい、トルヴァはどうした?」
水混じりの息で、カザドは言った。
「なんで、お前とハティだけなんだ……」
「先に行かせた。おれは、居住地に行こうとして」
「居住地はもう駄目だ。誰も残っちゃいない。チビ共もいなかった。それに……」
カザドは何かを言いかけて、思い直したようだった。首をかすかに振り、喉につかえていたものを吐き出すように咳こんだ。
「……山壁の抜け道も駄目だ。それ以外の退路を考えろ。また山に戻るでも良い。とにかく、ここは、これ以上はもう駄目だ」
「舟が――あるはずなんだ。船着き場」
カザドの顔がみるみるうちに土気色になっていくのを見て、フェンリルは焦燥のままに言いつのった。
「アーレってガキが言ってた。きっとみんな、そこにいる。トルヴァはそいつと……そいつに案内させた。だから今頃は、もう」
「馬鹿野郎」
カザドは血泡を飛ばしながら、がなりつけてきた。
「優先順位を間違えるなと言ったろうが。なんの為に二人でつるんでやがんだてめぇらは! ああ?」
拳骨を振りかぶったが、一歩届かず地面に落ちた。
「逃げる先がわかっていて、何をしてる。そのガキと三人で、逃げる算段をつけるのが当然だろう!」
「三人じゃ、馬が限界だったんだよ! それにあんたは――」
ふいに頭を掴んで引き寄せられた。
間近に迫ったカザドの眼光は未だ鋭く、厳しかった。
「自分ひとりでなら逃げ切れると……高ぁくくってんのが丸わかりなんだよ。おつむの足らねぇくそガキめが! てめぇのやったことは、勇気ある決断でもなんでもない。いい加減自分の力量を弁えろ!」
「馬鹿なことしたってのは、わかってる……」
「……まぁ……浅薄なお前らにしちゃあ、よく判断つけたほうか……」
そのまま無造作にひと撫でされて、フェンリルはおののいた。
「言えるうちに言っておく――悪かったな」
剣呑さの中に、呆れと諦めが浮かびあがっていた。
「俺のわがままにずっとつきあわせて……お前らのことを……ずっと手放せないままで、とうとうこんなことになってしまった」
「やめろ」
フェンリルは懸命に唾を飲み込もうとしたが、口内に湧きでるものが何もなかった。
「聞きたくない」
「まあ聞けよ。今しかないんだ」
カザドの声はこれまで聞いたことが無い程、優しく、穏やかだった。
「俺はな……長いこと、人間扱いされないできた。だから、俺も相手を人間だとは思わないようにしてきた。……見せしめのつもりで、これまで世に憚ってきたんだ。この世は……俺にとっちゃ、地獄以外の何ものでもなかった……」
「やめろって言ってんだろ!」
「お前と会って、俺は初めて後悔ってものを知った」
耳を塞ぐこともカザドの口を閉ざすこともできない。
カザドは、晴ればれと笑った。
「だからな……なんだ……その……お前のおかげで、地獄も案外、悪くないと思えるようになった」
それはフェンリルが言いたいことだった。
カザドがいたから、フェンリルは生きてこれた。この人のようになりたいと。なれればきっと、かつて救えなかった人だって、今度こそはと――。
「おれが馬鹿なのは、わかってる。わかったから。だから」
何年だって、何度だって、理不尽に怒鳴りつけてきそうな気がする。たとえどんな窮地でも、どんな地獄に向かっていても、この人がいれば負けなしとさえ思える。
なのにカザドの喉よりも奥、胸の内から、破れたようにひゅうひゅうとかすれる音がして、鳴りやんでくれない。
「だから、死なないで……」
いつの間にかフェンリルの手は、ヘイルの腕輪を掴んでいた。
こんなことを言うつもりはなかったのに。受け入れたつもりだったのに。
こんな風にすがりつきたくはない。こんな気持ちで、この人を見送りたくはない。なのに、とうとうこぼれ出てしまった。
「……なんて顔してる」
カザドが鼻で笑った。
どんな顔だろう。
今、どんな顔でこの人と向かい合っているのだろう。
「……よし……よし。行くぞ」
しばしの逡巡したあと、カザドは口元を拭って立ち上がろうとした。
「行く所がはっきりしてるなら、そこへ、行けばいいだけだ……大川を利用してるんなら、だいたいの見当がつく。……もう充分蹴散らした。そら、行くぞ……」
「じいさん!」
フェンリルは叫んだ。がくりと膝から崩れ落ちたカザドの身体を支えきれず、そのまま二人で倒れ込んでしまった。
カザドはわなわなと震える手で胸元を探り、小さな包みからこぼれ出た黒い丸薬を、わしづかんで口に運んだ。
「なんだ。それ」
フェンリルの問いに答えず、咀嚼して飲み下す。その間にも咳は続き、血と共に丸薬もいくらかこぼれ出てしまった。
「まぁ待て……ちょっと、待ってろ……いま……いま……」
ぶつぶつと繰り返したのち、カザドは長剣を支えに上体を起こしたまま、動かなくなってしまった。
「おい――なんなんだよそれは! じいさん!」
さすがに毒ではないと思いたかった。フェンリルはとっさに馬を探してあたりを見渡し、角笛の音を聞きつけた。遠目に集団が見える。気づかれている。ここまで来るのも時間の問題だった。
足元が滑ってよろめき尻もちをつく。血のにおいが濃く鼻をついた。そこに広がるのは、カザドの血溜まりだった。
「駄目だ」
恐怖にかられてフェンリルはカザドを引っ張った。しかし彼の瞼は震えて閉ざされ、すぐには目覚めそうにない。動かせない。こんな、囲まれたらおしまいの、開けた場所で――あちこちに亡骸が転がる所で。
道中、嫌でもそれらは目に入っていた。
合わせてみれば、世界の支柱の破片に集まっているよりもずっと少ないだろう。それでも、追われ、逃げ惑い、逃げ切れなかった人々がいる。訳もわからない暴力にさらされ、悲鳴を上げた人がいる。
燻り出した木立や、家畜小屋があった。焼け焦げた馬を見た。炎と血のにおいばかりがむせかえる。前にも、まったく同じことがあった。
そうして今、再びフェンリルたちは女神の手の中に堕ちようとしている。
旺盛だったはずの心が、急速に萎んでいくのを感じた。フェンリルは、あっという間にヴァナヘイムのあの夜へと、引き戻されてしまっていた。
(……巫覡が、あそこまでしても駄目なのか)
あれほど老成した力ある人が、自らの命を賭しても、この世にもたらされたのはほんの片鱗にすぎなかった。
あれほどの犠牲、あれほどの祈りをもってしても。これほど求められていても。
未だ、神は現れない。
ならばきっとそんなもの、二度とこの世に生ずるものではないのだ。
信じていないと言いながら本当はフェンリルこそが、誰よりもその存在を信じ、到来を待ち焦がれていたのかもしれない。
蹄の音が近づいてくる。視界の端で追い立てられるスコルとハティの姿をあった。矢がぱらぱらと飛んでくる。当たりそうで当たらない、威嚇の矢が。
フェンリルはゆっくりと立ち上がった。
たとえ何が起こっても、誰が倒れても、足は動く。そう叩きこまれてきた。教えに従ったというよりも、そういう習慣が染みついている。
何より、迫りくる敵に背を向けて死ぬのは嫌だった。無防備なカザドが、されるがままになるのも嫌だった。
自他共に満身創痍だ。だがまだ動く。まだ動ける。あの時とは違う。終わってなどいない。まだ終わりじゃない。同じようになど、なるものか――。
ふと――痛みも疲れもどこか夢の中のように朧ろ気になっていると、フェンリルは気がついた。
手足が、身体が、遠く、淡い――。重ったるい肉体と、軽やかな魂との境が、今、極々淡い。かわりに風のにおいだけが、どこから流れてどこに向かっているのかが、手にとってわかるほどに濃くなっている。
その風にのって声がする――あれは、巫覡の長屋でもよく聞いていた――彼の歌声ではなかったか?
これまでにも、似たような感覚に陥ったことが何度かあった。
でもいつも、あと一歩というところで失墜していた。
今は、あれほど難しかったことが、望んできたことが、ほんの少し爪をたてるだけ、つま先を伸ばすだけ、ただそれだけで、簡単に叶うところまで来ている。
なのに何をそんなに、渇望してきたのかがわからない。
……実際にことを起こしてみて初めて、理解することなのかもしれない。
……いざ挑むとなれば、戻ることはあたわないような気もする。
……でも。
今この時に、天王も女神も現れないのなら。
誰かが立つしかない。
誰かが。
成るしかないのだ。
それに匹敵する何者かに。
乾いた唇が、引き結んだ拍子にぴりりと裂けた。
裂け目から血がぷくりと湧きあがる。
一筋、顎をつたって落ちた時、大気のにおいが変わった。




