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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸


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第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑥――

 フェンリルは迫りくる蹄の音を聞き取り、背後をちらりと見やった。


(あんな奴の命令でも、きちんと聞くのか)


 あの下衆は、他の戦士たちから尊敬されているようには見えなかったので意外だった。

 それだけ戦士たちにとって、上に立つ者というのはいかな人格であれ逆らわざるべき存在なんだろうか。

 あるいはフェンリルに、そうするだけの希少性があるのか。


(――その割には、ヴァナヘイムでも雪山でも、容赦なかった気がする)


 あの時と今とで、何が違うものだろう? なんにせよ自分の容姿に感謝したのは、これが生まれて初めてのことかもしれない。

 飛び移った時に目視した限りでは、三騎がついてきた。そのうち一騎を奪った訳なので、今は二騎のはずだが、もう少し増えている気配がする。詳しい数を把握しようとして、突然、下から吠えられた。

 トルヴァのほうについていたはずのハティが、フェンリルの横に並ぶところだった。

 ハティはフェンリルと並走したのち、彼を追い抜いて先頭についた。追って来いとでも言わんばかりに吠える。

 カザドか、スコルの元に向かっているのだと理解した。ハティに合わせて、フェンリルは馬の腹を蹴り手綱を引いた。

 敵がどれほどいて、距離があろうとも、振りきれればこちらの勝ちだ。過ごした日々が少なくとも、ある程度の地の利ならある。振りきってみせる。そう難しいことではない。

 身体は妙にふわふわとして現実味がなく、なんなら調子が良いくらいなのだ。このままいくらでも奔走させられそうに思えた。

 だが太い木立ちを曲がりきる直前、ふっと視界に影が降りてきた。

 彼の進むほんの少し先に回り込んでいた戦士がおり、そいつは仲間と自分の間に縄を渡してフェンリルを挟みこんだ。


「!」


 ぐんと上体に縄が食い込んだ反動で、フェンリルは息が詰まりそうになった。

 そのままぐるりと絡め取られて、ほとんど受け身も取れずに落馬する。肩から落ちた衝撃で、短剣を取り落としてしまった。

 そして、同じように転がっていた人物と目が合い、フェンリルは息を飲んで飛び起きた。

 もう濁って乾いた金の瞳を、ヘルガのものと思ってしまった。しかし無念の内に果てたその人は、知らない誰かだった。髪が血でまだらに固まっている。

 いきなり身体を起こしたせいで視界が乱れてぶれ、上体をまっすぐにできてはいなかった。

 耳の奥から、どどおーっと、叩きつける滝に似た太い音が反響する。


『捕えろ』


 情のない声が、降り注いだ。

 分別があると思ったがそれはそれとして、フェンリルは死者ほどに敬意を払われはしなかった。したたかに殴られ、再び頭を地べたに押しつけられる。

 倒れる直前、旋回してこちらに戻ってきたハティが、数人に取り押さえられているのが目に入った。


「ハティ」


 激しくもがきながら唸るハティの額に、長剣の鞘が叩きつけられた。きゃいん、と哀れな鳴き声が響く。胸が痛くなる声だった。

 しかしハティならおとなしくしておけば、これ以上の手出しはされまい。女神の化身である狼の血を引く犬だ。そこらの猟犬ではないことくらい、体格でわかるはず。


(女神の戦士なら、ハティには何もしない。……そのはずだ)


 だからどうかそれ以上は暴れるな、とフェンリルは心で訴えた。


『――お前、指の一、二本は覚悟しておけよ』


 ハティを叩いた戦士が、フェンリルの元まで来て忌々しげに言った。戦士たちは、共通の言葉を使うのをやめたようだった。

 下馬(げば)した別の戦士が、フェンリルを見るなり突然髪を掴んで引っ張ってきた。


『おい、よく見ろ。こいつ、目まで青いぞ。敗北神の体色は、青髪と金の瞳のはずだろう』

『なんだと?』


 仰がされてむせながら、フェンリルはそれを聞いた。

 何を言っているのかわからなかったが、取り囲む数人の表情が渋くなったように見える。生け捕りなんて建て前で、やっぱり殺されるのかもしれない。


(くそ)


 フェンリルは毒づいた。気持ちに反してそよ風ひとつ、吹かせられないでいた。

 消える前に一瞬燃えあがる火と同じだ。実際のところ好調さなどは幻想で、もはや疲労を通り越した限界の極地に達していたのだった。


『とりあえず、あの隊長殿の溜飲を下げる必要がある。連れていくしかあるまいよ』

『まあ……青い髪も相当稀だ。何も無いより良いさ。誰か、肉体の戒め(レージング)魂の戒め(ドローミ)は持っていないか?』

『本隊に戻ればある。今はこのまま、拘束しておけばいい』

『こっちはどうする?』


 髪を掴んでいた戦士が、ハティを示して何か言った。

 全身を上から盾で押さえつけられていたハティは、牙の隙間から泡をたてて唸り続けていた。


『きちんと躾ければ、立派な猟犬に育つだろうが、今は構ってる場合ではないな』


 ふいに戦士が長剣をすらりと構えてハティに向き直る。嫌な予感がした。

 フェンリルは頬を地べたで削って、無理矢理に顔を上げた。


「やめろ!」


 髪がぶちぶちと引き抜ける。戦士は縄を引き、より強固にフェンリルを締めあげた。

 絡め取られた姿勢のままであり、もがくほどに腕が不自然な方向へねじれていく。

 ハティの黒々とした目が、途方にくれていた。

 ハティにはなんの咎もない。フェンリルたちの無謀に、つきあってきただけ。ずっとただ、無垢な愛情で応えてきてくれただけなのに。


(おれの勝手な、わがままのせいで……)


 無慈悲な白刃に絶句していた時だった。ハティを取り押さえる戦士の背後の木々がざざざと音をたて波打った。

 戦士が、突如として躍り出たその黒い影に気づいたのは、惨たらしい牙を喉元に突き立てられたあとだった。

 これが地の民(アマリ)ではなく、天の民(ヴィト)であったとしても同じくそうしただろう。我が子に害を成す存在に、母狼は容赦をしなかった。

 スコルの前脚と牙で組み伏せられたその戦士は、切れ切れに息をもらしてじたばたともがいていた。

 解放されたハティが続けて躍りかかり、すぐに動かなくなった。

 予期せぬ襲撃者へ戸惑う間もなく、すぐ側でぶうんと太い風切り音がして、フェンリルを押さえていた戦士が吹っ飛んだ。


『……馬鹿な』


 残った戦士たちのうちの誰かが、彼を見て呆然と呟いた。

 その人物は棒切れ一本だけを携えていた。そこいらのトネリコから、無造作に叩き折っただけの、先が削れてささくれた棒切れ一本。

 いかにも着の身着のままという風体は、大柄でこそあるが長年の汚れにくたびれている。

 だからこんなこと。神々しさとは到底かけ離れた、剣呑な気配を纏う姿を見て、こんなことを思うのはおかしいのだ。

 このような畏れを抱くべきではない。

 なのにその名を、口にのぼらせてしまった。


『……天王、ヴィセーレン……?』


 白髪混じりの青髪の隙間から、金の眼光を獰猛に尖らせてカザドは唸った。


「おい。このチビと遊びたいんなら、親父の許可を得てからにしやがれ。小童ども」

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