第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑤――
フェンリルは子供の縄を断ち切ると、振り子の要領で後ろに回った。
「トルヴァ、場所かわれ」
トルヴァが前に詰め、彼に代わって手綱をとる。
馬の首と前方に移動したトルヴァの間で、手首が真っ赤にこすれた金髪の子供は硬直しきっていた。
「怖かったよな。頑張ったよ、お前」
トルヴァはその頭を、片手でかきまわしてやった。そこでようやっと安心できたのか、子供はトルヴァにしがみついてぼろぼろと泣き崩れた。頭のあちこちから、こぶの感触がした。下衆の左腕一本では、足りない気がする。
フェンリルは舌打ちした。
「駄目だ。追ってきた」
一歩遅れて駆けてくるハティの他に、二、三騎、こちらに向かってくる。
「どうするよ?」
トルヴァが言った。彼らも軍馬を奪った訳だが、何せこちらは重量が違う。このまま、まくのは難しそうだ。
そもそも、あても無く逃げている。どこへ向かえばいいのか、逃げる場所はあるのか。他の住民たちがどうなったのか――考えなければならないのに、衝撃の連続で心休まる暇が無く、見当がつかない。
「前にブラギが、大川から続く船着き場があると言ってた」
心の声に応えるように、フェンリルが言った。
「いつかはもっと遠くまで漁に出て、いざとなったら別のことに使えるようにって……。今がその、いざな気がする」
「じゃあもしかしたら、みんなそこにいるのか」
「あいつらが、どこから入り込んだかはわからないけどな。でも、大川から来たってことは無いと思う」
「迎えに来た自警団の人たちは、舟があるって言ったよ」
ふいにしゃがれた声が、会話に割って入ってきた。トルヴァにしがみついたままの子供が、注目されてつっかえながら話しだした。
「たくさんの人が船着き場に行って、おれもねえさまと行くはずだった。でも途中で、すごい雷が落ちてきて、地面が揺れて……行かなきゃって思ったけど、怖くて。おれ、動けなくて」
「それで捕まったのか――姉さまのほうはどうした?」
「わ、わかんない。一緒に逃げてたひと、みんな、ばらばらになっちゃった……」
トルヴァが聞くと、子供は首を振って再び涙声になった。
「お前、名前は?」
フェンリルにたずねられて、子供は鼻水をすすりあげた。
「アーレ……」
「アーレ。もう、めそめそ泣くのをやめろ」
ぴしゃりと制されて、アーレは喉をひくつかせた。
「お前は船着き場がどこか、知ってるんだよな。おれたちは場所までは知らない。だからお前が、正しく案内してくれないと困るんだ。辿りつけるかどうかは、お前にかかってる――わかるか?」
アーレははじめ、刺すような青いまなざしに怖じ気づいた。だが何を求められているのかを理解すると、唇を噛みしめて頷いた。
「うん」
「よし。トルヴァはアーレとそっちに向かってくれ。おれは、居住地まで行ってみる」
「はあ?」
トルヴァはぎょっとした。世界の支柱の破片付近であるここは、里の奥まった場所であり、下の居住地からすれば充分まだ、山のうちだ。
あまり考えたくないことだが、こんなところまで侵入を許したのであれば、居住地などは、もうとっくに……。
「もう誰も、いないかもしれないぜ」
「そうじゃない。じいさんは、このことを知らないだろ」
トルヴァたちが橇修理に費やした時間の分、カザドは先に地上に辿りついているはずだった。だがあの下衆の反応からして、奴らは、より天王に近い体色を持つはずのカザドとは遭遇していない。
「居住地に向かったってのか?」
「じいさんが落ちていった方を考えると、破片よりも、そっちに向かったんじゃないかと思う。地上につくなりスコルも消えた――じいさんを追ったはずだ。誰かが知らせないと」
「だからってひとりになったら、それこそまずいだろ」
「まずいのは今だ。このままあいつらまで、船着き場に案内するわけにはいかない」
トルヴァは急にピンときて、声を荒げた。
「馬鹿、やめろ!」
「まだ何も言ってない」
「言わなくてもわかるわ! 自分が囮になって、あいつらを引きつけようって魂胆だろ」
追及する間にも、フェンリルは馬上でしゃがみこむ体勢をとり始めた。橇から跳び出した時と、同じことをする気なのだ。
「だいたい、そんなに無茶できる状態かよ。振りきるための策はあるのか? 体調は? 雪山からずっとへばりきってて、へろへろだろうが」
まくしたてられてフェンリルは、手を開け閉めして何かを確かめた。
「そうでもない」
「嘘つけよ、もう!」
「嘘じゃないって……」
声にうんざりする響きが混じり、トルヴァは余計に腹がたった。ありとあらゆる罵詈雑言が込み上がったが、一旦飲み込む。
「この馬をアーレにくれてやって、オレら二人でじいさんのとこまでって訳にはいかないのか? いっそ迎えうってみるのは? 女神の戦士って割に、あいつらしょぼいぜ」
トルヴァは食い下がり、口角を上げてみた
「前に捕まった時と全然違う――がんばったら案外、勝てるのかもよ?」
「足手まといがいたんじゃ無理だ」
フェンリルが告げた途端、アーレが情けなく口をひん曲げたので、トルヴァは慌てた。
「なんてこと言うんだよ!」
「事実だろ」
「言いかたってもんがあるだろ! もうちょい優しくしてやれよ!」
「ひとりになったら終わりなのは、こいつのほうだ。そんな様子じゃ何もできない――それにあいつら、おれを見て生け捕りと言った」
フェンリルは背後に身体を向けたまま、冷淡に続けた。
「こっちを追ってくるとしても、殺されるってことはないはずだ」
(命以外は、どうなるかわからないだろうが!)
フェンリルの言い分は、現状、利にかなっている。いっそ、かない過ぎてる。やみくもに走り回るよりは、ずっと良い判断に違いない。
しかしあの下衆の怒り狂った様子では、それ以外の手酷いことならいくらでもされそうだった。
「それにもう、やるしかない」
呟くなり、フェンリルが馬上から跳び出した。
ぎょっとしてふり返ると、槍を使われたら終わりの距離まで一騎が迫り来ていた。そして馬上の戦士の顔面に、フェンリルの蹴りがめり込んでいた。
あっさりと馬を奪って、そのまま別方向に駆け去っていく。今のは提案ではなく、決断を告げただけにすぎなかったのだ。
「フェンリル!」
トルヴァは一度、後を追おうとした。しかし後から来た騎馬がフェンリルが言った通り、彼に吸い寄せられるように続いていく。
じゃあなも、またなもなく、あまりに潔く去っていく後ろ姿が、よりトルヴァを懊悩とさせた。不吉な予感が拭いきれない。
このままもう、これきりになってしまうような――。
「あのお兄ちゃん、ひとりで大丈夫?」
口を開いたアーレを、トルヴァは見下ろした。改めて見ると片方の目が腫れあがり、白目が赤く充血している。頭ばかり、執拗に殴られたのだろう。
こんな状態のアーレを、ここから先はひとりでがんばれなどと言って放りだすのは酷だった。
……船着き場に、ヘルガたちはいるんだろうか。アーレのような目にあっていやしないか。本当はもう、どこにもいないのかもしれない。
(いや――きっといる。みんな絶対、無事でいる)
トルヴァは奥歯をきつく噛みしめた。
過ごした年月に差はあれど、カザドの教えのもとで共に生きてきたのだ。ただでやられるはずがない。少なくとも、もう、この目で見るまでは信じない。
「――ハティ!」
トルヴァは口笛を吹いて大きく腕を振った。
「ハティ、行け! フェンリルについていけ!」
並走し、何なら追いぬこうとしていたハティが一声吠えた。小さく旋回して向きを変え、フェンリルたちのほうへと駆けていく。
「し――捕まるなよ! あと、無茶すんな!」
もう聞こえないだろうと思いながらも、トルヴァは声を張った。そしてアーレの背を軽く叩いて前を向いた。
「大丈夫――あいつが向かった先には、そりゃあおっかない味方がいるはずだから」




