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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸


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第八章――炎(ほむら)の子【後編】②――

 絶句して、二人は崖先に齧りついた。

 見下ろした先からは凄まじい雪煙が上がり、ざりざりと雪面をひっかく音が響いて遠ざかっていく。大きな物が岩壁に引っかかりながら、落下していく音だった。


「じいさん!」


 咄嗟に吹き飛ばした雪煙の先に、カザドの姿があった。カザドはただ飛び降りたのではなかった。

 カザドは雪壁に踵を押し付け、落下先に棒を斜めに突き立てていた。身体を右や左に回転させ、時には棒を軸にしならせて飛び跳ねるようにしながら。

 落下の速度を棒きれ一本で操りながら、滑空していたのだった。


「――馬鹿野郎が! 温存しろ!」


 フェンリルが雪煙を晴らしたことに気づいて、カザドが下から吠えたてた。


「どっちが馬鹿だ、このっ、くそじじい!」


 フェンリルが反射的に叫ぶ。向こうも何か言い返してきたようだったが、削り取られる雪面の音で聞こえなくなった。


「びっ……びっくりした……」


 トルヴァはへなへなと、その場にへたりこんだ。

 しなりのある杖や棒で、山の急斜や崖を滑り降りていく滑空術の話を聞いたことはある。しかし二人とも、実際に目にしたのはこれが初めてだった。

 フェンリルたちも、やろうと思えばできるのかもしれない。だが崖から身ひとつで、ほぼ垂直に飛び降りるのだ。橇での崖滑りよりもずっと命がけだった。

 そもそもカザドのように経験を積んだ熟練者が、最後の最後に度胸だけで挑むようなことだ。

 経験の浅い若者二人ではどうなるか――カザドがこれを提案しなかった理由に察しがついて、悔しいやら安堵したやらで、フェンリルはその場に拳を叩きつけた。


「――せめて、なんか、言えよ!」

「それ、まるっきり自分のことでもあるからな」


 突っ伏していても仕方がない。気を取り直して彼らは橇の修理に取りかかった。

 橇皮は縫いしろばかりか皮そのものが無茶な豪速で摩耗して毛羽立ち、直したそばからほつれていくほど、もろくなっていた。仕方なく大幅に切り離し、裂いた荷袋を縫いつけるのをくりかえした。

 その後、皮紐を編んだ一本の縄で橇を繋ぎ、途中で二またに分けた先にスコルとハティをそれぞれ控えさせた。扇状にすれば自由に動ける分機動力も上がり、力が一方にふりきられずに済むだろう。

 皮紐をくくりつけようとする際、ハティは紐を味見しようとしたが、それを胸元まで持ってくると自らお座りして待機の姿勢になった。意外なことだが、スコルも大人しくされるがままにしていた。


「狭い」

「言うな」


 苦労の果てに修理し終えた橇は、トルヴァが前方のフェンリルを抱え込むような体勢で、ぎゅうぎゅうにつめて座るしかないほどに縮んだ。接いだ骨木は一方に傾き、皮は荒い縫い目ばかりが目立つ。

 目印にしていた世界の支柱(ユグドラシル)の破片は、落雷後から雲にまぎれて光が届かなくなっていた。もしもこの先に崖や障害物があったら……それに気づけたとしても対処が遅れたら、今度こそこの橇は駄目になる。いかにもその場しのぎの出来だった。

 そもそもあの豪速で、ここまで投げ出されずに来れたこと自体が奇跡なのだ。

 そして最大の懸念は、このあとだった。トルヴァが不安そうに呟いた。


「いけるかな」

「……」


 ハティでは先導犬になりえない。かと言って、もう一方は狼だ。皮紐をつけ橇に繋ぐことを許しはしても、誇り高き狼なのだ。


「やるしかない」


 ここから先は、スコルの気持ちひとつで決まる。フェンリルは緊張で湿る手のひらを一度拭うと、橇の皮紐をピンと引いた。

 すると繋がれた皮紐の先で、スコルが四肢に力を込めて身構えた。ハティが、そんな母親にならって前方を向く。スコルがこちらの求めに応じるつもりでいるのがわかった。

 二人は頷きあって襟元を閉じ、雪焼けの布を目下まで引き上げた。


「――頼んだぞ。行け!」


 合図と共に黒狼と狼犬は駆け出した。

 老いていても橇を引く狼の力は強かった。また、その子であるハティも同様だった。

 滑りが大層悪いだろうに、駆ける足は鈍らない。また皮肉なことに、追い風で豪速だった時に比べてずっと安定していた。

 命じたわけでもないのに、スコルは自然と先導犬の役目をはたしていた。

 どこを行けばもっとも早く、安全に地上に辿りつくかはスコルが知っていた。人間にとっては厳しい脅威の山岳であろうとも、ここはまだ彼女の領域だ。命令は必要なかった。フェンリルたちが従えばいいのだ。

 向かい風もほとんど流さず、右に、左にと傾く橇にしがみつき、時には皮紐をふわりとした滑空の衝撃に備えて体重を移動させ続けた。

 やがて橇から伝わる感触が、固くしまった積雪ではなく、ざりざりした凍土に変わり始めた。いよいよ地上が迫ってきていた。

 流れ去る景色は進むごとに暗く、煙るようになっていた。もはや勘違いや気のせいなどではない。

 明らかに何かが燻り燃えている。それも複数の場所から――。


「赤い」


 トルヴァは呟いた。最初それは煤の中の火種に見えた。あるいは白子の蛇が、まばたいているようにも見えた。

 しかし朝焼けとも、夕焼けとも違う。では地上で点滅しているあれは、いったい、何の光だろう?


「空と同じだ」


 フェンリルが答えるように言った。

 どういう意味なのか聞く前に、ぐうんと、橇が左に大きな曲線を描くようにふれた。

 がりりと、尻の下から嫌な音と衝撃が伝わる。橇皮が新たに裂け始めていた。突き出た障害物を、避けきれなかったのだ。

 体重を移動させてふんばったのと、スコル達のけん引のおかげで、ひっくり返ることは免れた。


「トルヴァ!」


 足の間に挟まるフェンリルが叫んだ。


「皮紐を切る――合図したら跳べ!」

「なんっ――はあ? 正気かよ!」

「このままだと、スコルもハティも巻き込んで、めちゃくちゃになる!」


 地上まで目前というところまで差しかかっていた。だがまだ肌に打ちつける向かい風は痛く、耳元でびょうびょうとけたたましい。

 この速さで滑る橇から、ざらつく凍土に飛び出すなど、想像するだけで痛かった。

 悩んでいる間にも、接いだ矢の一本がはじけ飛んだ。破片が目元まで飛んできて咄嗟に腕を掲げる。それだけで均衡が崩れてぶれた。慌てて抑えた骨木の皮紐はほつれ、今にもばらけそうになっていた。


「――やるしかないってか」


 (にかわ)でもあれば、それかエイナルの持っていたあの糊でもあれば、結び目をより強固にできただろうに。

 恨めしさでいっぱいになりながら、トルヴァはフェンリルの腰にまわしていた足を、一本ずつ引っ込めて折りたたんだ。空いた両手で揺れる橇の両脇を掴んで、すぐに跳び出せる体勢をとる。


「いつでもいいぞ!」


 トルヴァの準備が整ったことを聞きつけ、フェンリルは皮紐を手元に引き寄せ、びんと張り詰めた表面に短剣の刃を当てて滑らせた。


「跳べ!」


 ばちんと皮紐がはじけ飛び、スコルとハティが左右に散った。力を失った橇が大きくふれる。

 トルヴァは橇の骨木を蹴って後方へ跳び退った。踵を雪面に降ろし身体を斜めに倒して滑らせて、最後に腰の短剣を鞘ごと突き立てた。じゃり気のある凍土であり、跳ねかえるつぶては荒い砂のように容赦なく布越しに肌を打ちつけてくる。

 しかし衝撃は想定していたよりも少なかった。むしろ身体が軽い。ひゅるりと、巻きあがって霧散したつむじ風で、フェンリルがやったことだ理解した。

 削られることを覚悟していただけに拍子抜けし、あの青白い顔と震えを目の当たりにした後では、素直に感謝する気にはなれなかった。

 そのままトルヴァは松の木立に滑り落ち、幹に両足をついて起きあがった。解放されたハティがぐるりと旋回して、こちらへ駆け戻ってくるのが見えたが、フェンリルの姿が無かった。まさかと前方を睨む。フェンリルは滑り去る橇に、取り残されていた。

 フェンリルとしては、ひとりならばどうにかなるという算段だった。しかし甘かった。橇を引く二匹分の力とトルヴァの重みが無くなった途端、橇はひっくり返りそうな危うさで滑り落ちていく。姿勢が不完全だが、この勢いのまま跳び出すしかない。

 迫りくる木立に向かって跳び移り、滑り、幹に胸と腹を打つ。空気が押し出された衝撃でむせるも、全身で幹にしがみつく。


「あっぶね!」


 振り子のようになって滑落しそうなところを、追いついたトルヴァが阻止した。首根っこを掴んで補助されながら、フェンリルは木立の根元でどうにか体勢を整えた。無人の橇はそのまま岩場に乗りあげて見えなくなった。今度こそばらけて、大破したかもしれない。


「大丈夫か?」

「なんとか……」


 答えたものの、トルヴァの心配を裏付けるように手足の震えが増していた。立つことができず片膝をつき、息を整えようとするが、心臓がどくどくと激しく鼓動し視界までぶれてきた。


「なんだ、このにおい」


 顔の布を降ろした途端、異臭が鼻をついてトルヴァは顔をしかめた。

 空気がいやに蒸し暑い。焦げ臭さの中に鉄錆が混じったにおいが、むわりとたちこめている。あたりを素早く見回すも、灰色に煙っていてよく見えず、人の気配は感じられなかった。


「――オレ、先に見てくる。動けるようになったら来いよ」

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