第八章――炎(ほむら)の子【後編】①――
フェンリルらは橇もろとも、崖から投げ出された。
ふわりとした滑空は一瞬のこと。宙できりもみ状になり、衝撃と乾いた音と伴って、迫りくる雪山に突っ込んだ。
「――ちくしょう!」
起きあがりしなに、フェンリルは吠えた。一秒だって無駄にはしたくなかったのに、ついにこうなった。焦燥がより募っていく。
「うわ……フェンリル、これ、まずいぜ」
雪山から這い出たトルヴァが、橇を示して言った。
フェンリルは嫌な予感がした。その予感通り、橇の骨木がべっきりと折れてしまっていた。座面を支える重要な対のうちの一本であり、ささくれだった断面が衝撃の強さを物語っている。フェンリルが風で覆わなければ、彼らの手足がこうなっていたかもしれない。
フェンリルは即座に懐のかくしから皮紐を取り出し、矢筒からは矢を取り出し、骨木の折れた部分にあてがった。
「そっち持ってくれ」
「骨木だけじゃないって」
次にトルヴァが手にした橇皮を見て、フェンリルは愕然とした。橇皮はいつだか割れそうになった箇所から、新たな亀裂が生まれていた。それもぱっと散るように四方八方へと裂け目が走り、断絶寸前にまで陥っていたのだ。
「縫いしろまで駄目になってる。これじゃあもう……」
「見せてみろ」
トルヴァの背後から、カザドがぬうっと腕を伸ばして橇皮をとった。彼らを取り囲むように、橇に追いついたハティとスコルがうろうろとする。
カザドは橇皮と骨木を見たのち、手にしていた荷袋をひっくり返した。
「こいつを補強の足しにしろ。荷物は今いる分だけとって、他は捨てる」
フェンリルは空になった荷袋を受け取り、一方のトルヴァは出された荷物の中から、縄や紐や針などを漁り出す。ふと、下から吹きあがってきた突風にのる、燻すようなにおいを嗅ぎとり手が止まった。
二人は共に表情を強張らせた。胸騒ぎがいよいよ現実のものとして、すぐそこまで迫っていた。
「橇はお前たちで使え」
カザドが静止する二人に言った。まるで自分は乗らないという言い草だったので、フェンリルは訝しんだ。
「引き延ばせば、なんとか三人乗れる」
「それでは橇がもたん」
「下山するまで、もたせればいいんだろ。それくらいなら」
カザドは首を振って立ち上がった。
「既にそうやって、追い風で煽ってきたろう。むしろ、よくもったほうだ。お前もとっくに限界だろう」
指摘されてフェンリルは唇を噛んだ。無謀な山下りを試みてからここまでの間、彼は風使いの力を酷使し続けていた。
顎や指先が震えて止まらず、唇が青い。氷の泉にでも飛び込んだかのような、酷い顔色だったのだ。
「もう俺を数に入れるな。今度こそ大破する。だがお前ら二人なら、いくらかもつかもしれん」
「でも、それじゃあ、じいさんは?」
「俺は俺で考えがある――」
トルヴァの質問にしっかりと答えず背を向けて、滑空してきた崖の方へと向かう。当然のように、スコルがその後を追った。
不思議とぴんしゃんしているが、カザドとて好調とは言えないはずだった。遠ざかる大きな背を焦れるような気持ちで見やり、フェンリルは正面に向き直った。
「急ごう」
異様な落雷から、半刻が過ぎようとしていた。現在彼らは地上を覆い隠す雲海の中にいるはずだった。あたりは雪をかぶる裸山の中に、広葉樹と針葉樹がまだらに群生し合う景色が広がっている。
すでに中腹を、半分までは行ったとみえた。短時間での移動を可能にしたのは、橇を使った命がけの山下りであり、そんな行為を実践する程に彼らは気が急いていた。 無謀さの始まりは、落雷後の空を見上げていたフェンリルが、不穏なことを呟いたからだった。
「ヨトゥンヘイムで何かあった」
「確かにでかい雷だったけど、そこまで言うか?」
「ただの雷じゃない。空が、赤くなってる」
トルヴァは空を仰ぎ見た。
トルヴァの目には今にも激しい風雨と、再びの落雷が鳴り響きそうな、雷雲が広がっているようにしか見えない。それだって、こんな場所では充分脅威に成りえるはずだが……。
フェンリルは、見えているものの違いを察して歯がゆくなった。荒唐無稽なことを言っている自覚はある。しかし落雷の瞬間、まざまざと感じとったのだ。
いつのまにか消え去った、あの青黒い手指を持つ何者かが、天を指差した瞬間全身を貫いたもの――。
目に見えはしないが、風や人の声と同じく確かに存在して巡るもの。その大きな流れをこじ開けて、更にその奥で蠢き轟くものを、手繰り寄せたという感覚があった。
「誰かがやったんだ。誰かが、あれを――。今すぐ、ヨトゥンヘイムに戻らないといけない」
奇妙な煌めきに取り憑かれたまなざしが告げる。
普段から妙なところで勘が鋭く働くが、今のフェンリルは一種異様な気配を纏っていた。
言うことがいまいち要領を得ないのに何やら寒気がして、トルヴァは頬を引きつらせた。
「戻るのは大賛成だけど、今すぐって訳にはいかないだろ。ここからじゃあ何日もかかるぜ」
「橇を使えばすぐだ」
「は?」
聞き間違えたかと思ったのだが、相手は悪びれずにもう一度言った。
「世界の支柱の破片目指して、ここから、橇を使って下山する」
フェンリルが指差す先の絶壁を眺めてから、トルヴァは首を振った。
「いや……無茶だろ」
「無茶でもなんでもやるしかない」
「……いや、無理……無理だって!」
トルヴァは更に激しく首を振った。しかしフェンリルは、至極真っ当な言い分に対してむっとした。
「橇で滑れば、ひとっ飛びだって言ってただろ」
「言ってねーわ! ……いや、言った? 言ったかもしんないけど! 辿り着く前に死ぬぞ!」
「確かに、迂回路を探すよりは早いか」
トルヴァが青ざめて見上げると、あろうことか、カザドまで乗り気になっていた。
「じいさん?」
「橇はどこにある?」
「え、ちょっと……無理だって。嫌だってば」
結局トルヴァは二人分の圧力に屈した。
荷物を減らし、前方にフェンリルが座り、トルヴァ、カザドと続いて橇をなるべくなだらかな崖めがけて駆り出す。そうして斜面を滑り降りるのは、確かに速かった。なんなら速すぎた。
一人だけならともかく、やつれてなお大柄な大人に、体格だけは大人並みの少年が乗れば、当然皮のたわみが無くなる。元より小さな橇なのだ。ぴんと張った皮橇では舵取りなどできるわけもない。
更にそこへフェンリルが追い風をたてたことで、三人乗りの橇は凄まじい豪速の塊と化した。
左右にふれだす橇を流線の繭状に包み込むようにして、殴りつけるような凍て風を受け流していなければ、目も開けていられないどころか、たちまち凍傷を起こしていただろう。呼吸だって止まったに違いない。
向かい風と追い風の中心にいる彼らには圧力がかかり、高い金属音のような耳鳴りで全員、耳底が痛んだ。フェンリルが剣を砕いた時と、よく似た耳鳴りだった。
フェンリルは懸命にそれらを抑え込んできたが、とうとう限界を迎えて投げ出されたのだった。
「よこせ」
トルヴァがフェンリルの手から皮紐と骨木を奪った。フェンリルは震えが収まらず、終わりをうまく留められないでいた。
「悪い……」
「いいから」
トルヴァはいともたやすく革紐をぐるぐると巻きつけて、固く締めつけて固定した。
フェンリルは荷袋を裂き、裂けた皮に当てがって縫いつけに取りかかろうと試みる。そこへカザドが戻ってきた。
「どうにかなりそうだな」
カザドは二人の手元を見たのち、前方を指さした。
「お前たちはこのままここを行け。目的地まで、そうずれてないはずだ。それから、追い風をたてるのはもうよせ」
忠告されなくとも、できるかわからなかった。一度立ち止まったことで、ずしりとくる疲労感に気づかされてしまった。
この世で何かするには、こんなに不便で煩わしい肉体に魂を満たし、縛りつけなければならない――。当然のことだが、今は、その道理が大きく食い違っているように思えてならなかった。
「代わりにこいつらを使え」
カザドはスコルとハティを示して言った。
「でも、スコルは……」
ケヴァンがハティを猟犬の群れと共に橇を引かせているのを見たことはある。初日にはフェンリルたちも実行した。
しかしいくら人慣れしていて、猟犬とつがったのであっても、狼が飼い犬の真似ごとをするだろうか?
それに何より、操縦者の意図を汲み、群れを率いてくれる先導犬がいない。
「そこは賭けだな」
「賭けって」
こともなげに言い放ち、カザドは身をかがめてスコルの頭を撫でた。
「母親には逆らえないもんだ。駄目そうだったら諦めて、向かい風にだけ集中しろ。ここからなら、それでもそれなりの速度でいけるだろう」
「あんたはどうすんだよ」
カザドが彼らに伴うつもりがないのだと察して、フェンリルが睨みを利かせた。
「まさかここに、ひとりで残る気か」
「誰の強情でここにいるか、もう忘れたか」
カザドは鼻を鳴らして、手にしていた物を掲げてみせた。それは余計な小枝や葉を落とされた、トネリコの長い枝木だった。
カザドは向かっていた先とは別の崖の縁まで迫って下を覗き見ると、その枝木を突き立てた。しなる枝先を確かめ、再び手に握って彼らを見た。
「俺は俺で、こっちから先に行かせてもらう」
「おい、何する気だよ」
「背中は預かるんだろう」
カザドはほんの一瞬、にやりとしたかに見えた。
「なら追いついてこい。――ただし、優先順位は間違えるな。地上で何が待ち受けていてもだ」
そして、少しのためらいもなく飛び降りた。




