第八章――炎(ほむら)の子【中編】⑫――
(姫君を軽んじているのは、帝国ではなく、お前たちのほうじゃないのか)
従者は涙目のまま歯噛みした。従者という立場ゆえに表立った反論もできない。他の若手もきっとそうだろう。一見真摯に振る舞いながら、その実、姫君の威光を出世のだしに使おうという隊長の魂胆は、明らかだった。
姫君は確かに憶病なかたではあったが、望みは一貫して「帝国への速やかな帰還」である――このような放浪など早く終わらせ、ただとにかく帰りたいだけというのが本心だろう。だがそれこそが彼らの本来の任務なのだ。
彼らの装備は元より戦闘に向いた物ではないし、行軍の物資もたび重なる脱線で底を尽きかけていた。
帰還までのことを考えると大分切り詰めることになる。姫君にいらぬ苦労をさせることになると、わかっているのだろうか? 隠れ住む天の民の里など、構っている余裕など無いのだ。
これはする必要のない進軍だ。
そしてたとえ、どのようなかたであっても、現人神たる主の意思を捻じ曲げることが許されるはずはない。
箱馬車の中でただまんじりと待つしかない姫君が――このような血生臭い現場に連れ出され大義の象徴にされている姫君が、哀れでならなかった。
「――何をしている! 早く行け!」
中々動かずにいる部下たちに焦れて、隊長が従者に預けた角笛を乱暴にとり返して吹き鳴らした。
上官たちは動かない。目線だけで促がされ、若手たちはじわじわと進軍を始めた。相手の出方を見るための、良い盾にされているとわかっていながらも行くしかなかった。
芽吹いた草木のあちこちが踏み荒らされて、飛び散った血が混じる中を彼らは進んだ。めくられて顕わになった湿る黒土のにおいの中に、ツンと鼻をつく錆臭さが混じっている。
ふと、ひとりの若手の馬が、倒れ伏して動かない金髪の子供の頭をぐしゃりと踏み砕いた。薄い頭蓋からぶるりとはじけ出た中身をもろに見てしまい、若手はたまらずその場に吐いた。
「馬鹿! しっかりしろ」
「だ、だって――」
「天の民は荒ぶる敗北神の残滓――蛮族にすぎないんだ。これは、ただの死体だ。獣のと変わらない。そうだろ?」
そういう相手だって、今にも吐きそうな顔色だった。
悲惨な躯がいくつか転がっていた――中には先攻したすえ反撃を受けて命を落とした戦士の亡骸もあった。
いざその死を目の当たりにすると、それが誰であっても歓迎はできなかった。次にこうして動かなくなっているのは、隣かもしれないし自分かもしれない。
何故こんなことをしなければならないのだろう。こんなはずではなかったのに。ただ、帰るだけで良かったのに。
「危ない!」
誰かが叫んだ。前方の丘から火のついた荷車がこちらに向かって転がってきたのだ。
一台放たれてはまた一台と、順番に突っ込んでくる荷車は、積んだ干し草や家畜の糞の上から酒を撒かれて、ごうごうと燃える火車と化していた。
幸いにも荷車の犠牲になった者はいなかった。見上げれば、荷車を放ったと思しき人影が、数人、天幕群とは反対の方向へ駆け去っていく。
「情けない!」
たたらを踏む若手たちの背後で、せせら笑う声が上がった。
「奴らめ。我らの力を思い知って戦線離脱を企んでおるわ! そらお前たち、そのまま追いつめてしまえ!」
だが若手が馬足を早めようとしたその時、低く重い歌声が響いてきた――それも今度はひとつではない。複数の人間がその歌を唱えている。
「まずい――」
その不思議な歌の効果は、もう知っていた。
若手たちは衝撃に身構えたが、しかし、馬に訪れたのは勢いのある昏倒ではなく、ゆるゆると柔らかな眠りだった。馬たちがその場にゆっくりと膝を折り、首を垂れて眠りだす。
落馬こそしなかったが、騎乗したままでの進軍はもう不可能だった。
「気をつけろと言っただろう! たわけ共め――ええい、この先は自らの足で行け! さあ行け!」
背後から叱責する隊長たちの馬まで、歌声は届かなかったようだ。
若手たちは悔しい思いを噛みしめながら、やけくそのような気持ちで足を進める。
――恐らくはもう、逃亡奴隷も行方知れずの仲間のことも、彼らを襲撃した天の民のことも、隊長の頭にはない。
ただ目の前のわかりやすい弱者を、蹂躙することに酔いしれている。
なんでもいい。早く終わってほしかった。
* * *
歌声は、荷車を放った天の民たちが駆け去った先から流れていた。
誘われるようにして辿りついたのは巨大で、光を放つ、よくよく透き通った建造物の元であり、場違いなほどうっとりと柔らかな風が吹き寄せてきた。
緊張した心身が和らぎ、ほどけるようである。
「世界の支柱の――破片だ。こんなところにあるなんて」
誰かが驚嘆してささやいた。帝国の物とは異なり、登頂が融けたようななだらかさで途切れている。まさかこのような場で、神の遺物をお目にかけるとは思いもよらなかった。
破片は今、仄かな燐光ではなく、内側から発される白い光によってまばゆかった。目をしばたたかせる者がいる一方で、その周囲を取り囲むように並んだ天の民たちを注視する者もいた。
反撃を予測していた若手たちに対して、そこにいたのは初老に手が届くと思われる者たちだった。もしくは先の襲撃で傷つき血を流す者、顔色が悪く、患っているらしい者ばかりがいた。
健常そうな若者や子供の類がいない代わりに、お腹の大きな女性が何人かいた――彼女たちの傍らでは、傷ついた男たちが痛みに喘いでいた。
夫なのか身内なのかわからないが、ここへ逃げ延びること、最後を共にすることを決断した者たちには違いない。素人目であっても回復できる見込みはなく、もしも奇跡が起きたとしても、元通りにはならないだろう。
天の民たちは皆そろって同じ歌をささやき、眼前に迫りくる戦士たちを前にして一切動揺を見せることはなく、また、抵抗も反撃もしてこなかった。
遺物の光を浴びる雪のように真っ白な肌に、淡い頭髪を持つ者たちがぞろりと並び、明るい色の瞳でそろって見つめてくる。
視線に込められた心を理解することはできないが、確かなのは彼らが逃げられない者たちだということだった。
里の規模からして、どう考えても数が合わない。
彼らはここに、置いていかれたのだ。
「――どうする?」
若手のひとりが困ったように呟いた。先程、天の民の子供の亡骸に嘔吐した人物だった。
抵抗してくるようならともかく、彼らの目の前にいる天の民たちは傷ついている。見当違いにも程があるが、同情すらした。
戦士たる者、時には非情さも必要だ。
女神の戦士を名乗るための最後の試練として、天の民を己が手で処刑するという通過儀礼がある。
もちろんこの場の全員が済ませていたことだが、縛り付けられそうあるべく用意された供物と、目の前のこれはまったくの別物だった。
誰もその最初のひとり――無力な相手を更に追いつめ痛めつける、無慈悲なひとりには、なりたくなかった。
「捕えて、上の指示を仰ごう」
誰かが素晴らしい提案を口にした。
「武器も持ってないようだし、これだと反撃は無理だろう」
「そうだな――それがいい。そうしよう」
「無抵抗だものな」
それこそが上の役割ではないかと同意する中で、疑問を呈した者たちもいた。
「でも、何かおかしくないか?」
「おかしい?」
「なんだか、誘いこまれているようじゃないか? さっきの荷車を押した奴らはどこに行ったんだよ。こいつらじゃあ無理だろう?」
言われてみればと若手たちは顔を見合わせた。
残った若手たちが、それぞれ縄を手にした時だった。遺物の根元に腰かけていた、枯れ木のような老人がゆらりと立ち上がった。
奇妙な形の木の冠をかぶった老人の髪はこの場の誰よりも白く、赤い涙の跡が残る目元も白濁していた。胸元で揺れる無数の琥珀の首飾りが、太陽の欠片のように反射し、ちりちりと打ちあった。
「――頃合いじゃな。さあ、皆、参ろう」
老人が発した声は齢の割には張りがあり、まどろむような穏やかさだった。
天の民たちが互いに頷きあった。涙を流す者、頬笑みを浮かべる者さえいた。老人の差し伸べる手に、皆が次々と触れていく。
その光景は、神殿の巫女の荘厳さを思い起こさせた。
若手たちは老人の言うことから、彼らが取り押さえられることを観念して、受け入れたのだと思った。だが老人は、突如懐から細身の小刀を抜きだした。
凶器に気づいて驚いたと同時に、池に投げ込まれた石のような衝撃をもって、奇妙な声が彼らの耳を打った。
《見よ!》
大気が振動し、老人を中心に風が舞い上がる。
《今こそ見よ! 天上の王君よ!》
老人が枯れ木のような両手を広げて天を仰ぐと、周囲の天の民もそろって互いの肩を組み、世界の支柱の破片へとより集まっていく。
とてもひとりの人間から発せられているとは信じられない、男女複数の入り混じる声で老人は続けた。
《我らは風。我らは雲。我らは天空。我らは星。我らは貴方の息吹を待ちわびる者。彷徨い人の父へかしこみ申し上げる!》
老人の両目、両耳、両鼻から流血しだしていた。更には広げられた両腕も血で染まり始めていた。
老人の手首に彫られた文字のような、あるいは記号のような刺青が淡く光り、ぺりぺりと皮膚から剥がれだしたからだった。
やがて完全に剥がれ落ちた刺青は、規則性の無い動きで浮遊しながら集まって広がり、世界の支柱の破片に集まった彼らごと取り囲んで、ぐるぐると回転し始めた。
《見よ! 見よ! 見よ! 今こそ見よ! 猛る男神よ! 今こそここへ! 今こそここへ! 今こそ見よ! 今こそ見よ! 今こそ見よ!》
七色の光が目まぐるしく入れ替わるそれは、外側が赤く爆ぜる火の輪のようだった。
発光する輪は回りながら空へと昇っていき、やがて渦を巻くようにたちこめていた雲の向こうへと吸い込まれていく。
足元を吹き上げるぬるい風にあおられながら、若手たちは目の前の光景に圧倒されていた。
「おい――何か変だ。やめさせろ!」
縄から剣に持ち替えた彼らだったが、老人が手にした小刀で自身の喉を突くほうが早かった。
若手たちが仰天するなかで、老人は口から血と共にこぼした。
《……私は、原初の暗闇にてとぐろ巻く虹の番人、ヘイムダル……我が犠牲受け取り、今こそ開け……開け、天上の門》
老人はよろめきながら世界の支柱の破片に、血濡れた両手をひたりと這わせた。流れ落ちる血を吸い上げたかのように、そこへ集まった光の結晶が白から赤へと変色し、破片全体が毒々しい光を放ち始める。
人知を越えた神威のただなかに身を投じていると、気づいた時にはもう遅かった。
そして、轟音を空へ置き去りにして、天王の怒りが降ってきた。




