第八章――炎(ほむら)の子【後編】③――
ごくりと喉を鳴らし、トルヴァは再び布を引き上げた。ハティを呼び、共に赤い輝きの元まで滑り降りていくと、すぐに足が地面を捉えた。地上だ。信じられないことだが、生きてここまで戻ってこれた。だが感動している場合ではない。
風に煽られて煙がはれたその先の景色は、記憶にあるものとは大きく異なっていた。
淡い燐光を纏い澄みきった琥珀のようであった世界の支柱の破片は、今、内側から煌々と、目を焼くほどの赤い輝きを放っていた。太陽に照らされた流血のような輝きは、あまりにもまがまがしい。
これと同じ色の空が見えていたなら、トルヴァとてすぐに異常だと判断しただろう。
(この世がどうにかなっちまう……)
息を吸い込むたび喉元に込みあげる、べたつく脂のような甘ったるさが、より不吉さを助長してきた。
じりじりとした足取りで進んでいたトルヴァはどきりとした。周辺の木々が悉くなぎ倒されて開けたそこには、たくさんの人々が倒れていたのだ。
破片を中心にして放射状に広がっているのは、ほとんどがヨトゥンヘイムの住民たちだった――彼らを更に囲うように、地の民が横たわっている。
以前隠れ家付近でトルヴァ達を捕えた女神の戦士たちと、まったく同じ格好をしていた。一人、二人どころではない。ざっと見た限り、二桁はいるだろうか。
ヨトゥンヘイムが戦士たちの襲撃を受けたのだと、嫌でもわかる光景に背筋が凍る。
トルヴァは素早く周囲を見渡した。
破片に近ければ近いほど、倒れている人たちの外傷は激しかった。皮膚のほとんどが焼けただれて裂け、湿り気を帯びた暗い赤黒さと、生皮を剥がれた肉と同じ、鮮やかな桃色が入り混じる。
逆に外側の人たちは、かすかな火傷が窺える程度であり、きれいなものだった。――亡骸としては。
誰一人、まんじりとも動かなかった。ハティがうつぶせる頭に鼻先を突っ込んでも、前脚で掻いてみても……。目を見開いていたり。歯を食いしばって互いに抱き合っていたり。大きなお腹を守るように抱えていたり……。皆、もう、この世にはいない。人々を受けとめる苔むした大地ばかりが、雷の到来を喜ぶように鮮やかで、今にも青臭さを放たんとしている。
凄惨な光景を目の当たりにして脳裏を駆けめぐったのは、旅立つと決めて別れたあの朝だった。
腕を降って見送る、うすもやに包まれたあの姿が、まさか。
(みんな……)
吐き気が込み上がり、トルヴァは思わず口元を覆った。背筋を不快な冷や汗が伝い、目眩にぐらりと身体が傾げる。そして、それを見つけた。
「巫覡……!」
破片に張り付くように身を投げ出して絶命していたのは、あの、枯れ木の巫覡だった。顔の刺青と、黒く焦げて砕けたトネリコの冠が、綿毛のような頭髪に引っかかっていたのでわかった。
巫覡の上空へと伸ばされた腕は、固まりかけた血で赤黒く艶めき、異様に真っ白になった肌には暗い赤紫の枝模様が浮かぶ。天を仰いでのけぞる喉も同様の色彩に染まっていた。
更に、これでもかと開かれた口腔からは白い蒸気が細く昇り、空を睨む血の滲む眼と相まって、執念めいた形相だった。
「トルヴァ」
突然腕を掴まれて、トルヴァはびくりとした。幽鬼のごとく青白い顔のフェンリルだった。
「息しろ」
指摘されて、口元を押さえたまま呼吸を忘れていたと気づく。手を口元から放して、勢いよく息を吐きだした。深く吸おうとするも、異臭が鼻孔をつきぬける。不快感で喉が震えた。
「……これ、みんな、あの落雷の直撃を受けたのか」
たずねるというよりも、確認するようにトルヴァは言った。
「こんなところまで女神の戦士に侵入されて……そのうえで、みんな」
「みんなじゃない」
絶句するトルヴァの一方で、フェンリルはいやに冷静だった。
「住民みんなが、ここにいる訳じゃない。よく見ろ、年寄りばっかりだ。――ヘルガたちは、ここにはいない」
確かに、ヘルガたちの姿はどこにも無かった。
倒れているのは、本当の意味で絆あるとは言い難い人たちだ。しかしその中には見覚えのある顔もあった。きっとお互いに、すれ違った程度の認識しかなかっただろう。
でもいつかはもっと、別の関係を築いたのかもしれない。
最期の吐息をもらした老人を、その家族と共に弔ったかもしれない。家畜の面倒を見ろと頼まれたり、慣れない畑仕事を押し付けられて、仲間とうんざりする日が来たかもしれない。赤ん坊の誕生を聞きつけ、お祝いに行ったかもしれない。
でも、彼らは二度と戻らない。もう、そんないつかは来ないのだ。
トルヴァは浅い呼吸をくりかえした末、木の幹に手をついてえずくように呻いた。知らぬ間に膝が震えていた。しゃがみこむことだけはすまいと、必死に堪える。一度膝をついたら、そのまま動けなくなりそうで怖かった。ハティが側に戻ってきて、不安げに喉を鳴らした。
フェンリルはトルヴァの背に、一度手を伸ばしかけてやめた。そして赤々と照らされた壮絶な巫覡の姿を平坦なまなざしで見つめた。雷に貫かれて、倒れた人々を見つめた。
この場の戦士は武器こそ手にしているが、抜き身の刃には少しも血の曇りがない。日頃から、どれほど丁寧に手入れされてきたかがわかる、綺麗な白刃だった。
では人々は、戦士たちに追いつめられた末、剣を交えて果てたというわけではないのだ。
それらのことから連想したのは、生餌を利用した跳ね罠だった。
(あれは、あんたが降らせたものだったのか……)
巫覡たちがなんのために、どんな残酷な決断を下したのか。フェンリルは、察しのつく自分が嫌になった。
ぽかりと空いた洞に、いくら風を吹き込んでも動かないのと同じで、彼らの死をトルヴァのようには嘆けない。思い出と呼べるだけのものを築くのにここでの日々は短すぎたし、ほとんど知らない人の為に嘆くには、あまりに早くから悟りすぎてしまった。
ただひとつの訴えだけが、さりさりと研がれていく。
今だ。と。
今こそ現れろ。と。
今が、その時ではないのか。と――。
いつしか骨がきしむほど拳を握りしめていた。
「今」が「何故」に変わる頃、疲労と引き換えに鋭利になった五感が告げる。
ハティの全身の毛が逆立ち唸り声を上げるのとほぼ同時に、短剣を鞘走らせた。
「――トルヴァ、構えろ」
首筋を小刀でなぞられたような悪寒が走った。トルヴァは一瞬ぶるりと総毛立ち、振り向きざまに矢をつがえた。
二人が身構えてからいくらもしないうち、複数の足音と共にそれが現れた。
「おお、生き残りがおったわ」
黒い肌に暗い色の瞳を持ち、そろいもそろってまったく同じ、なめし皮の外套に身を包む、女神の戦士たちだった。中央の者にだけ、妙にきらきらしい装飾が施されている。
その戦士はフェンリルとトルヴァを見すえると、金の房飾りを揺らして口角を上げた。
「これはもうけたな。一匹は珍しい毛色ではないか。そらお前たち、行け行け! 生け捕りにせよ! 敗北神と同じ毛色の天の民だ。姫君に献上すれば、大層お喜びになられるだろう!」
人間ではなく、珍奇な動物に向ける発言をしたそいつの片手には、縄が握られており、ひとりの天の民が繋がれていた。それもまだ、額当てが取れていないような子供――ダインくらいの年齢だろうか。
両手をきつく縛られ、引きずられてつんのめったその金髪の子は、フェンリルたちに気づくと、既にぐしゃぐしゃの顔を更にゆがめて叫んだ。
「たすけて!」
即座に鞭がしなり、子供の耳のあたりが二、三度打ち据えられた。びしゃりという音の最中に「ぎゃあ!」と潰れた悲鳴があがった。
「やかましい! 誰が口を利いていいといった!」
子供の震える唇の隙間から、ぶうぶうと唾液まじりの嗚咽が漏れる。腕を引かれているため、顔を覆うこともできないでいた。
トルヴァの食いしばった奥歯が、ぎしりと鳴った。矢をつがえる指先に力がこもり彼の怒りに呼応するように、ハティの唸り声がより太くなる。
一方のフェンリルは、彼らを取り囲もうと広がる戦士たちを目だけで見回した。
扇状に広がった戦士たちはある一定より、距離を詰めてこようとはしなかった。表情には戸惑いと緊張が浮かんでいる。
フェンリルたちは知る由もなかったが、彼らは一度、自警団と刃を交えていた者たちだった。馬を眠らせる歌に、軍馬相手でも引けをとらない統率のとれた一部の住人たち。彼らはヨトゥンヘイムの人々が黙って蹂躙される相手ではないことを、既に周知していたのだ。
緊張の理由は他にもある。巫覡がもたらした落雷は、巨大な光の柱のように凄まじく地上の人々の目を焼き、稲光と轟く雷鳴のあとで大きな地鳴りが続いた。しばらく誰もその場から動けずにおり、フェンリルたちと同じく、初めてこの惨状を目の当たりにしたところだった。
そのうえで目の前にいるのは、尊き女神と対を成す敗北神を思い起こさせる頭髪の天の民。
降臨とまでは言わない。だが戦士たちの胸中に、侮りではなく畏れが芽生え始めていた。
戦士たちは足元の亡骸を踏みつけないように馬足を運び、槍や剣を構えていた。単に効率の問題かもしれないが、あの下衆よりはまだ分別がありそうだ。
フェンリルは横目でトルヴァを見た。トルヴァからは既に、戸惑いと恐れが消えていた。全身から怒りを立ち昇らせ、いつでも矢で射抜けるように身構えている。
……カザドの教えに準ずるなら、敵に取り囲まれた彼らは逃げの一手に集中すべきである。トルヴァとて、優先順位を間違えるなという忠告を、忘れたわけではないだろう。
だがたすけてという声を、聞かなかったことにもしたくないのだ。互いに同じ考えを抱いていると思った。
フェンリルは冷めきった目で、そいつを見すえた。




