第八章――炎(ほむら)の子【中編】⑨――
掛け声と共に、まずグズリが飛び出した。その際彼女は大声をたてて羊たちをおどかした――驚いた羊たちが一斉に小屋の出口から駆け出して、ヘルガとルクーも走り出した。
三人は羊の群れに紛れて走った。
まわりには一切目もくれず、走って走って、もう一生分くらいは走ったと思えるくらいには走り続けた。
長の天幕へと連なる風車の道しるべが、ただただ無情に回っていた。目的地が遠い――ひどく遠かった。どれほど走っても、永遠に届かない。それでも走る以外にすべはないのだ。
だが心臓がはちきれそうな逃走の終わりは、前触れもなくやってきた。
いずこからか矢が飛んできて、ヘルガの進路先に突きたった。すぐさま迂回しようとした先にも飛んできた。急に立ち止ってきびすを返そうとしたヘルガの動きに翻弄され、もがれるようにルクーの手は離れてしまった。
勢いで転倒したルクーに再び、矢が降り注いだ。
「ルクー!」
留まらずに転がったことが、逆にルクーの命を救った。しかし脅威は去っていない。あっという間に彼は騎馬にとり囲まれてしまった。馬上からルクーとヘルガを見下ろすのは三騎。なめした革の外套に、房飾りの帽子――ヘルガは愕然とした。間違いであればと、どこかで願っていた。
しかし彼女たちを追い詰めたのは、雪山でフェンリルたちが相手にした者たちと、まったく同じ格好だった。
「ヘルガ――ヘルガどこ?」
蒼白になったルクーが膝立ちになり、手をさ迷わせる。蹄の音に翻弄されていた。その様子を窺っていた戦士たちは、彼が盲だと気づいたらしい。ルクーを示して自らの指を目元に持っていき、聞きとれない言葉を交わしている。
ヘルガは小刀を振りかざした。
「ルクーに近づくな!」
ヘルガは無情にこちらを見下ろす暗い色の瞳を、なすすべもなく見上げた。どうすればいい――どうしたら。
「ヘルガ……!」
恐怖にかられた悲鳴が響き、戦士が刃を鞘走らせた。終わりだと思った次の瞬間、騎馬が散るように飛び退った。石が飛んできたからだ。
「その子たちに――指一本――触れるんじゃない――」
投てきしたのはグズリだった。解いた腰布にその場の石を拾ってくるみながら、ずんずんと距離を詰めてくる姿には凄まじいものがあった。
「よってたかって、子供ひとりをとり囲んで――恥を知れ!」
グズリは戦士たちを指差して吠え、腰布を振りかぶった。放たれた石は、彼女の気迫に押されて二の足を踏む戦士の眉間に命中した。
身体がぐらりと傾ぎ、鼻血を噴きながら落馬する。立て続けてもう一度飛んできた石に馬が不満げに嘶きながら飛び退った。
グズリは髪を振り乱して、落馬した戦士に飛びかかった。
「よくも――よくも!」
戦士の顔面に、グズリは手にした石を容赦なく叩きつけた。
ほとんど考える間もなく、ヘルガは操り手を失った馬の鞍にしがみついた。
「駄目! いうこと聞いて――聞けったら!」
戦士の馬は突然乗り手が変わったことに激高し、ヘルガを振り落とそうとした。ヘルガは必死で馬の腹をももで挟み、手綱を繰った。ゆっくりとなだめている暇はない。残りの騎馬がこちらに気づいて叫んでいた。暴れてもいい。振り落とされなければいい。ほんのわずか――進路が変わりさえすれば。
馬の横腹を蹴飛ばして、ヘルガは叫んだ。
「ルクー、腕をあげて!」
ヘルガの進路先に気づいた騎馬が、剣を抜いて前方に立ちはだかる。ヘルガは切り裂かれる直前で、思いきり上体を真横に倒してその間をすり抜けた。
それは一歩間違えればルクーを踏み殺しかねない、あやうい救出だった。
落馬寸前の、ほとんど逆さまになった状態で、言われた通り虚空へと腕を広げるルクーの身体を抱きとめる。肩が、指先が、ぶつかる衝撃で軋んだが、今度は放さなかった。
渾身の力でもって上体を起こし、ルクーを鞍に引き上げた。
「――ヘルガ! ルクー!」
駆け去る後方からグズリの声が響いた。ふり返れば肩越しに、返り血で顔面を真っ赤にしたグズリが、戦士に髪を掴まれて引きずられている姿が見えた。
「グズリさん」
引き返そうとした時、グズリが獣のように吠えた。
「いきなさい!」
戦士の刃が、彼女の柔らかくふくよかな身体を貫くのを見た。血しぶきが噴き上がる前に、ヘルガはばっと正面に向き直った。
「――ルクー、しっかりつかまって!」
正面に座るルクーがヘルガの声に従い、彼女にピッタリと張り付いた。
震えが心臓から喉元に。指先にまでも駆けめぐろうとする。悲鳴が今にもほとばしりそうになる――この場に全身を縫いつけようとする、ありとあらゆるものを振り切って、ヘルガは速度をあげた。
死に物狂いの早駆けだったが、相手はそれ以上に素早かった。ヘルガもルクーも華奢ではあるがこちらは二人乗りで、このように見事な軍馬を駆ったことなど無いのだから、そうなるのは当然だった。
(駄目だ――追いつかれる)
とうとう隣に並ばれてヘルガは絶望した。
馬上からこちらに振りかぶられた刃を前に、ケヴァンとグズリのいたましい最期が蘇った。
「女神の慈悲もわからぬ蛮族どもめ。おとなしくしておけば、安らかに、敗北神の御許へ逝かせてやろうというものを」
あろうことか戦士の嘲りが、ヘルガの燃え尽きそうになっていた心を再び呼び覚ました。
なんとしても生き延びてやるという気になってヘルガは吠えた。言葉にならない悪あがきの雄叫びだった。そして最後の手段をとった。
ヘルガはしがみつくルクーの腰帯を手綱ごと掴み、相手の手首を思いきり蹴りあげた。長剣が戦士の手から跳ね跳び、くるくると回転して地面に突きたった。相手が忌々しく顔をゆがめたその時、ヘルガは前方から複数の騎馬がこちらに向かって駆けてくるのを見た。どの馬も一様に、耳まで覆った頭巾をかぶらされていた。
騎手のうちの誰かが言った。
「備えろ!」
何に備えるのかわからないまま、ヘルガは咄嗟にルクーをかき抱いた。
それと同時に、低く重い音が響き渡った。ぶわりと巻き起こった風にのり、身体を貫いて内側から振動させるその音が人の声だと気づいた時、ヘルガと戦士の馬が同時に膝を折り、勢いよくつんのめった。
宙に投げ出される瞬間ヘルガは、戦士ののけぞる身体を、迫っていた騎手がひと息に斬り裂くのを見た。
落馬の衝撃で一瞬、ヘルガの息が止まった。ごろごろと転がり、ヘルガは抱きしめていたルクーの小鳥のように早い鼓動を、布越しに感じ取った。
「ヘルガ――ヘルガ、大丈夫?」
振り乱れた髪に、煤やら泥やらで汚れて擦り切れた、青ざめた顔。それでも庇われていた分、見た目ほどに酷くはない。
だがヘルガは、すぐには立ち上がれなかった。転倒した馬の下敷きにならなかっただけ、ましと思うべきなのだろう。
全身の痛みに喘いでいると視界が陰り、誰かが馬上より降りてきた。
「痛むか? 痛むよな。だがもう少し頑張るんだ」
先程備えろと言った騎手だった。厳めしい見た目に似合わず、優しく呼びかけてきた男が身につける手甲やの皮の胸当てには、ヨトゥンヘイムの自警団の印が焼きつけられてていた。
男は丸太のように太い腕をヘルガの背中にまわして、助け起こしてくれた。そしてそのまま彼女ごと騎乗した。同じようにルクーも、別の自警団に保護された。
再び風が巻き起こり、声が轟いた――声には言葉があり、音域があった。それは誰かの歌声。覡巫の唱える呪歌だった。ヘルガは自警団の馬たちが、何のために耳まで覆われているのかを理解した。
うたたかな風に撫でられ眠りにつくように、呪歌を耳にした戦士の騎馬が、瞬く間にその場で膝をおり意識を失っていく。
そうして戦士たちは次々に落馬したところを、自警団たちの馬に奔走されていた。あるいは縄の両端を互いの手にわたし、戦士をとり囲み、からめとって引きずり落としもした。先程とはまったく真逆のことが起きていた。
「呪歌が効いている。今のうちに、救助と避難を優先させるんだ!」
武装した自警団たちは颯爽と闊歩し、仲間たちに檄を飛ばしあった。
「現在ヨトゥンヘイムは襲撃を受けている! 相手は帝国の精鋭、女神の戦士だ! 未曽有の事態である――皆、心してかかれ!」




