第八章――炎(ほむら)の子【中編】⑧――
ボズゥはヘルガの声に無反応だった。
「ヘルガ――そこにいるの?」
ルクーの呼びかけにボズゥが、くききと、ぎこちなく小首を傾げてこちらを見た。 ヘルガは確かにボズゥと目が合ったと思った――だが中身が抜け落ちたように無表情で、まなざしには力がない。焦点も定まっていない。
ぽかりと空いた洞のような、がらんと真っ暗な目だった。
「あんた、いったい、何してるの?」
火の明るさで照らされたボズゥの頬に、そばかすよりも大きな血のしみが点々ととんでいることに気づいて、ヘルガは背筋が凍りついた。
「その血は……誰のもの」
ボズゥは無機質に短剣を握る手の甲で頬の血をぬぐい、今度は反対の方向に、くききと、首を傾けた。血のついた手を見る動作をした。だがやはり、何も映してはいない。見えない糸で引っ張られ操られている、人形のようだった。
ぼんやりと自身の手を眺めたのち、再びヘルガに顔を向けて――ここで初めて彼女だと気づいたようだった。ヘルガの装いが、彼の記憶にあるものと大きく異なっていたせいもあるのかもしれない。
何も見ていなかったボズゥのまなざしが、わずかに揺らいだ。
「……なんで」
魂を砂で撫でさするようなざらりとした声と共に、真っ暗な目から一筋の涙が静かに流れ出た。
「なんで、お前らなんだろう……」
その時小屋の外が新たにざわつき始めたのがわかった。
最初の喧騒の比ではなく、人々が口々に何か叫んでいた。小屋の周囲のあらゆるところから興奮した声が上がり、金属を激しく打ち合う音がする――それは住民に危険を知らせる音。避難をうながす警報だった。
「逃げろ」
意外なことにこの場で誰よりも冷静だったのは、ルクーに無体をしいたはずのボズゥだった。
突然ボズゥはルクーの拘束を解き、無理矢理に彼を立たせてヘルガに押しつけた。
「逃げろって何」
訳がわからない。
動揺で消えかけていた怒りが、ヘルガの胸に蘇った。
「どういうこと。いったいなんなの! なんであんた――」
「逃げろっつってんだよぉ!」
怒号にヘルガは息を飲んだ。
ボズゥは歯をむき出しにして迫り、激しく短剣を振りまわした。
「行けよ、早く行け! さっさと行っちまえ! ――でねぇとその面ぁ、ぐちゃぐちゃに刻むぞブスぅ!」
凄まじい形相で泡を飛ばすボズゥにぱっと背を向けて、ヘルガは若鹿のような敏捷さで駆け出した。
「――待って、ボズゥはどうするの?」
ヘルガに引っ張られながら、ルクーがあまりにも的外れなことを言い出した。思わず罵倒したくなる気持ちをこらえてヘルガは警告した。
「口元を押さえて。煙を吸う。」
「でも」
「黙って!」
握り返してくるルクーの指先から、血が滴っている。馬鹿――誰に何をされたか理解していないのか。どうして――どうして。
小屋から飛び出した先でヘルガが見たのは、蜘蛛の子でも散らすように一目散に駆ける人々の群れだった。
「ヘルガ! ルクー! 行くよ――走るんだ!」
呆然と立ち尽くすヘルガの二の腕を、グズリが痛いくらいの強さで掴んできた。彼女の頬はまだ涙に濡れていた。だが充血した赤い目は、嘆きではなく怒りに燃えている。
一切の反論を許さぬ迫力に気押されて、ヘルガは再び走り出した。直前、その場に横たえられ、放置されたままのケヴァンの亡骸を見た。
彼の左胸には赤い花が咲いていた。
血濡れた短剣。頬の血のしみ。ヘルガは残酷な連想をしてしまった。
そしてそれは、ほとんど事実だと思えた。
「どうして……」
吐きそうになり、ヘルガは口元を押さえた。
「抜け道だ――奴ら、山壁の抜け道を使ってやってきた――どうして――どうやって――!」
グズリがひとり喘いだ。どこか遠くの方から、角笛が発する太くて低い音が響いてきた。
「奴らって?」
ルクーのささやきに答えるかの如く、すれ違った別の誰かが言った。
「――逃げろ! みんな逃げろ! 地の民だ! 地の民が来た――女神の戦士だ!」
* * *
燃えた牧は、ケヴァンのところだけではなかった。少なくともその周辺二つの牧から火の手が上がり、ほとんどの馬が火に巻かれて逃げ出していた。
残っているのは火傷を負って走れない馬か、取り残された子馬ばかり。運よく荒れ馬に乗りあげた人もいたが、ほとんどの人々は自分たちの足で走るしかなかった。乗ったは良いが、振り落とされてしまった人もいただろう。
そのすべてを把握することはできなかった。
矢が次々に飛んできて、すぐ隣を走っていたはずの人が、地に倒れ伏したまま動かなくなった。引き裂けるような悲鳴は、背後のあちこちで上がっていた――それもふいに途絶えたりした。
けしてふり返ってはならなかった。ふり返れば足は止まってしまう。追いつかれてしまう。その姿を見てはならない。見れば世界が終わる。きっと終わってしまう――
ヘルガは濡れそぼって重くなった、自分の衣服を呪った。
動くたびに布地が肌に張り付き、振りかぶる腕を、足を、からめとる。これでは早く走れない。どうして水なんかかぶってしまったのか。だってそれは、ルクーが燃える馬小屋にいると思ったからで、そしてそこには何故かボズゥもいて……。
ボズゥの怒声が、血濡れた短剣が、ケヴァンが、血のしみが、地べたに押しつけられたルクーが……これまでの光景がくりかえしくりかえし、あぶくのように湧きあがってははじけとんだ。
「こっちだよ!」
ヘルガたちの先頭をきって走り続けていたグズリが、突然進路を変えて家畜小屋の中に飛び込んだ。連ねられた琥珀玉のようにヘルガとルクーがそぞろ続いてなだれ込む。むわっと、干し草と家畜の臭気に包まれた。
「いいかい。これから言うことをよくお聞き」
ばくばくと鳴る心音は、鼓膜にまで達していた。ヘルガもルクーも、ひそめられてはいるが鋭いグズリの声を、懸命に聞きもらすまいとした。
「あんたたちがここに来るまでに使った、大川を覚えているね? 大川の流れはこの居住地から自警団たちの天幕へ。そこからブラギの天幕に向かって覡巫の長屋へ。そして世界の支柱の向こうまで続いている。ヨトゥンヘイムの山壁の真反対を、大川が囲っているような感じさ。これからわたしらは、ブラギの天幕と覡巫の長屋の、ちょうど中間。そこを目指すよ」
先程まで夫にしがみついて、涙にくれていた人物とは思えないほどに、グズリの声は凄烈だった。
「そこに、何があるんですか?」
「もうひとつの船着き場だよ。まだ数える程度しか試しちゃいないが、舟が何隻かある。大川を使って逃げるんだ。奴ら、陸路で来たってことは川を渡ることまではできない。追っては来れないはずさ。――まあ、ほとんど、そうだったらいいなって希望なんだけどね」
グズリは引きつれるように口角を歪めて笑った。ここぞという時には、度胸ひとつでなんでも実行できる人と思ってはいた。
今の彼女は表情といい、人を鼓舞するはきはきとした物言いといい、驚くほどブラギによく似ていた。
口元を引き結ぶと、グズリはヘルガとルクーをきつく抱きしめた。
「今朝ダインとロッタは、ニルフェンの娘と一緒に覡巫のところに行ってたね。うちの末っ子と嫁だって今日は――ともかく、抜け道からは遠いから、きっと無事でいるよ。そのはずさ――川がもし駄目だったとしても、山が、森がある。無理だと思ったら、すぐに進路を変えるんだよ。判断を誤っちゃいけない」
彼女の背に腕をまわして、ヘルガはぎゅっと瞼を閉じた。こうしてこのまま、優しい腕の中に蹲ってしまいたかった。
『――泣くな』
鷹のような金色の双眸が、記憶の底からヘルガを射抜いた。
『まだ泣くな。泣くのも、祈るのも、全部あとにしろ。生き延びなければできないことだ』
出会った最初にカザドが放った言葉がこれだった。
彼は実際のところ、ヘルガに手を差し伸べ寄り添うのではなく、くじけて蹲ろうとする子供を叱りとばして自ら立たせたのだった。
(……まだ駄目だ)
せめてと、ヘルガは整いきらない震える息を吸い込んで、全身を甘い母の匂いで満たそうとした。だが残念なことに、煙と家畜の臭いに負けていた。
「そしてこれから、何があっても、足を止めちゃいけない。ふり返ってもいけないよ。たとえ誰が倒れていてもだ――これまでの知恵を駆使して、逃げ延びてごらん!」
ヘルガとルクーは、彼女にしがみついたまま、こくこくと小刻みに頷いた。
「馬がいるかと思ったんだけどねえ……」
グズリはヘルガの背後で、尻尾をぴこぴこ振って鳴き声を上げる子羊を見て、あまりの場違いさについ笑ってしまった。
部外者を遠巻きに囲む、白や黒のもこもこの群れが、よりいっそう別世界の穏やかさを際立たせる。
咄嗟に飛び込んた小屋は、羊しかいなかった。誰の囲いか把握できてはいなかったが、お日様が高くなっているのにこれだけの羊を小屋に閉じこめたままなのだから、大層な不届き者には違いない。
黒々とした無垢なまなこを見つめているうち、いつだか囲いから羊たちに逃げられて、慌てふためき追いたてるケヴァンの赤ら顔を思い出した。
胸いっぱいに広がりかけた悲しみをこらえて、グズリは立ち上がり小屋の窓から外を見た。
逃げまどう人々を追い立てる騎馬が、既に複数すぐそこまで迫っていた。そして騎手の手には抜き身の剣が握られている。
(天王様。ケヴァン――どうか守って)
グズリは覚悟を決めた。
「奴らがどれほどいるのか、どこまで侵入してきたかはわからないが、地の利はこちらにあるはずだよ。合図したら走るんだ――いいね?」
ヘルガとルクーは共に頷いて、互いの手を固く握りしめた。ヘルガはルクーの目になって、誘導しなければいけない。けして、転んではならない。この手を放してはならない。
「行くよ!」




