第十三章 秋の記録会
体育祭が終わった。
夕方。
グラウンドでは、片付けが始まっていた。
隼は椅子を重ねて運んでいた。
「陸神くん。」
振り返る。
凛がいた。
「まだ片付けしよるん。」
「うん。」
「手伝おうか。」
「別にいいよ。」
「じゃあ一個だけ。」
凛はそう言って、椅子を一脚持った。
「軽いやつ選んだやろ。」
「バレた?」
「見たら分かる。」
凛が笑う。
二人で体育倉庫まで歩く。
しばらく無言。
「今日さ。」
「ん?」
「リレー。」
隼が凛を見る。
「ほんとに速かったね。」
「そう?」
「うん。」
少し間。
「……かっこよかったし。」
隼が前を向く。
「また言うん。」
「嫌なん?」
「嫌じゃないけど。」
「じゃあいいやん。」
凛が笑う。
体育倉庫に着く。
椅子を置く。
外へ出る。
凛が先に歩き出す。
「じゃあね。」
「おう。」
数歩進んで。
凛が振り返る。
「陸神くん。」
「ん?」
凛が隼を見る。
「今日、喋れて嬉しかった。」
隼が一瞬止まる。
「俺も……。」
「うん。」
凛はそれだけ言って、友達のところへ戻っていった。
隼はその後ろ姿を見送る。
少し間を置いて。
「……マジか!」
体育祭から数日後。
放課後。
陸上部のグラウンド。
隼はスターティングブロックを合わせていた。
体育祭が終われば。
またいつもの毎日だった。
走る。
タイムを測る。
また走る。
ただ。
一つだけ。
前までとは違うことがあった。
高瀬がいない。
全中を最後に。
高瀬は陸上部を引退していた。
三年間走ってきたグラウンドから。
毎日のようにいた先輩がいなくなった。
隼はスタート地点に立つ。
初めて百メートルを走った日。
隣にいたのは高瀬だった。
12秒0。
11秒8。
あの時は。
その差が遠く感じた。
「陸神。」
顧問に呼ばれる。
「はい。」
隼が顔を上げる。
部員たちが一か所に集まっていた。
隼もその輪に入る。
顧問が一枚の紙を見せた。
「二週間後、秋季記録会がある。」
隼の目が紙に向く。
「基本は百メートル中心。」
顧問が隼を見る。
「陸神も百な。」
「はい。」
隼はすぐに答えた。
その時。
グラウンドの入口から声がした。
「お疲れさまです。」
顧問が振り返る。
「おう、高瀬。」
隼も振り返る。
高瀬だった。
「高瀬先輩。」
「おう。」
高瀬がグラウンドに入ってくる。
隼が言う。
「引退したのに来るんですね。」
「悪いか。」
「いや。」
「未練あるんかなと思って。」
「誰がや。」
「高瀬先輩が。」
「お前、最近ちょっと生意気になったな。」
「前からです。」
「認めるんか。」
高瀬が呆れた顔をする。
「でも、ほんとにもう大会出ないんですか?」
「中学ではな。」
「高校でも走るんですか?」
「ああ。」
高瀬はすぐに答えた。
「そのつもり。」
「やっぱり走るんや。」
「なんや、その言い方。」
「いや、引退したら急に遊び人になるんかなと思って。」
「ならんわ。」
高瀬が隼の肩を軽く叩く。
「お前も記録会出るんやろ。」
「はい。」
「どれくらい狙っとるん?」
隼は少し考える。
県大会。
11秒46。
その後。
練習では11秒20台まで出るようになっている。
そして。
一度だけ。
10秒98。
「11秒20台。」
高瀬が頷く。
「現実的やな。」
「できれば前半。」
「11秒20くらい?」
「それくらい。」
「欲出てきたな。」
「そりゃ出ますよ。」
隼が答える。
「速くなっとるの分かるんで。」
「10秒98出した男やもんな。」
隼が高瀬を見る。
「それ言います?」
「言うやろ。」
「計測ミスかもしれんのに。」
「でも気にしとるんやろ。」
隼は返事をしなかった。
「図星やん。」
高瀬がそう言う。
顧問が口を開く。
「あと陸神。」
「はい。」
「来年になったら、二百も考えるぞ。」
隼が顧問を見る。
「二百?」
「百だけじゃなく、二百も走れるようにしといた方がいい。」
隼は少し考える。
百メートル。
まだそれだけで。
十分面白い。
でも。
その先にも。
まだ走ったことのない距離がある。
「分かりました。」
「まあ、今は百や。」
「はい。」
顧問が手を叩く。
「ほら、練習戻るぞ。」
部員たちが散っていく。
隼もスタート地点へ戻る。
高瀬は少し離れたところから、その様子を見ていた。
高瀬はもう。
中学の大会には出ない。
次は。
自分たちの番だった。
隼がブロックに足をかける。
二週間後。
秋季記録会。
目標。
11秒20前後。
「位置について。」
隼が構える。
「よーい。」
腰を上げる。
――パンッ。
隼が飛び出した。
二週間後。
秋季記録会。
朝から風が強かった。
競技場の旗が、何度も大きく揺れている。
隼はトラックを見ながら、ゆっくり身体を動かしていた。
「今日、結構きついな。」
顧問が風向きを見ながら言う。
「向かい風ですか。」
「たぶんな。」
隼はスタート地点の方を見る。
一年最後の大会。
全国につながる大会ではない。
でも。
今の自分がどこまで来たのか。
それを知るには十分だった。
目標は。
十一秒前半。
できれば。
もっと。
招集が始まる。
隼は自分のレーンへ向かった。
ブロックを合わせる。
足を乗せる。
深く息を吐く。
頭に浮かぶのは。
あの日の10秒98。
けれど。
追いかけない。
今できる走りをする。
それだけ。
「位置について。」
隼が構える。
「よーい。」
腰を上げる。
――パンッ。
飛び出す。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
身体が前へ出る。
悪くない。
向かい風。
顔に風が当たる。
それでも。
進む。
中盤。
前の選手を一人抜く。
残り四十メートル。
さらに加速する。
風が強い。
それでも。
脚は止まらない。
残り二十メートル。
先頭。
そのまま。
ゴール。
隼は数歩進んで止まる。
息を整える。
すぐに掲示板を見る。
数字が出る。
11秒06。
風。
−1.8。
隼は動かなかった。
一瞬。
意味が分からなかった。
その横で。
顧問も掲示板を見ていた。
「……。」
数秒。
そして。
「よっしゃ!」
声が響いた。
隼が振り返る。
顧問が拳を握っていた。
「先生、喜びすぎやろ。」
「当たり前や!」
顧問が掲示板を指す。
「この風で11秒06やぞ!」
隼ももう一度見る。
11秒06。
−1.8。
「……ほんとや。」
「ほんとや、じゃない!」
顧問の声がまだ大きい。
「県大会11秒46やったやつが、何か月でここまで来たんや。」
隼は何も言わない。
顧問は風を見る。
そして。
もう一度掲示板を見る。
「この風がなかったら……。」
隼も顧問を見る。
「十一秒、切っとったかもしれんな。」
その言葉に。
隼の表情が変わる。
十秒台。
一度だけ。
練習で見た数字。
10秒98。
あの日は。
計測ミスかもしれないと思った。
でも。
今は。
もう。
遠い数字じゃない。
顧問が隼を見る。
「陸神。」
「はい。」
「お前。」
少し間。
「ほんまに、楽しくさせてくれるな。」
隼は答えなかった。
ただ。
掲示板を見る。
11秒06。
−1.8。
一年生。
最後の大会。
まだ。
十秒台には入っていない。
でも。
その壁は。
もう。
目の前だった。




