虎太郎が残したもの
――人だ。
そう気づいたときには、足が止まっていた。
ガクガクと震えだす。
息を吸っても吸っても、酸素が入ってこない。
それでも目だけは、その物体に釘付けになっている。
見れば見るほど人だし、コタのような気がしてくる。
そんな、まさか、あり得ない。
二度も同じような光景を目撃するなんて――。
何とか呼吸を落ち着けて、釘付けになっていた目を動かす。
倒れた人の少し奥にも、物体が見えた。光をそちらに向けると、物体は人よりも大きく、すぐに正体が分かった。
虎だった。
それも三頭が横たわっている。
幸い、動く気配はない。
政府の対応がまだ行き届いていなかったのだ。
どこかに身を潜めていたに違いない。
それにしても、今更人を襲って何になるというのか。
少し憤りを感じたからか、足の震えが和らいだ。
このタイミングで足を出さなければ、もう前には進めないような気がした。
勢いに任せて、まだ震える足を踏み出していく。
数歩だった。
たった数歩近づいただけで、分かってしまった。
倒れこんでいるその人の頭には、ふさふさの毛が柔らかそうな、耳が付いていた。
「コタ!」
お腹の子のことなど忘れて、ただ夢中で走り寄る。
必死でコタの名を叫ぶ。
うつ伏せに倒れているコタの肩を引き寄せ、仰向けにする。
「コタ! コタ! ねぇ、コタ! 起きて! 起きてよ!」
肩を揺すり、頬を叩く。
手についていた血がべっとりと頬に付く。
ハッとして、コタの身体に目を移す。
そこで気づいた。
悟ってしまった。
――コタはもう、目を覚まさない。
コタの脇腹は抉られ、そこにあるはずの肉がなくなっていた。
半円形にむしり取られているのを見て、一目でこの虎に食いちぎられたのだと分かった。
眠るコタを抱きしめる。
涙が溢れだす。
どうして。
どうして二度もこんな目に遭うのか。
虎の脅威は去ったのではなかったのか。
なぜコタが、なぜ母が、なぜわたしの家族ばかり――。
どうせなら私を殺せば良かったのに。
なぜわたしを一人にするのか。
一人で生きたってなんの意味もない。
もう嫌だ、嫌だよ……。
ねぇ、コタ。わたしを、一人にしないでよ……。
『凛は一人じゃないよ』
コタの声がした。
腕を緩めて、コタの顔を見る。
しかし、コタの表情は何一つ変わっていない。
「コタ、コタ!」
もう一度肩を揺すってみるが、やはり反応はなかった。
確かにコタの声がしたはずなのに……。
今の状況を受け入れられず、気がふれて幻聴でも聞こえたのだろうか。
ふと、内側からお腹が動く感触があった。
続けざまに何度も動く。
我が子の胎動。
わたしとコタの子――。
そうだ。わたしは一人じゃなかった。
あれは幻聴だったかもしれない。
でも幻聴でも妄想でも、何でもいい。
きっとコタが伝えたかったんだ。
わたしは一人じゃないと。
わたしたちの子がついていると。
もう一度コタを抱きしめる。
コタ、安心して。
この子はわたしが絶対に守るから。
死んでも離さないから。
お腹がまた、大きく動いた。




