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第二位、人間  作者: 青野 乃蒼
国家転覆

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虎の脱走

三月も後半に差し掛かったある月曜日、秋元が有休を取ったので、千尋は少し忙しかった。


と言っても、単に秋元の分の作業もやればいいだけだし、今日は休日明けの平日なのでイベントもないし客も少ない。ただひたすら量をこなせばいいだけなのだ。




当然時間は掛かってしまったが、万事問題なく閉園を迎えた。

ただ、一つ気掛かりなことがあった。


作業中、今日のリヒトはかなりおとなしいと感じたのだ。


虎は元来、獲物を狩る時以外は静かに過ごす生き物であるため、大人しいこと自体は大したことではない。ただ、いつも以上に、まるで省エネモードで生活しているかのような感じがしたのだ。


気になって、途中作業を中断して観察してみると、それはリヒトだけではなかった。

四頭とも省エネモードで過ごしているように見えたのだ。


全頭がこんな状態だと、原因が逆に分からない。

一頭だけなら体調不良や病気を疑うが、全頭が同じ状態だとその線は低い。

それに、省エネ以外には特に気になる点はない。


――気温が普段より少し高かったのかもしれないな。明日また確認してみよう。


と半ば強引にこじ付けて、自分を納得させることにした。




千尋は閉園後の見回りを終えて、虎たちを獣舎に戻す作業に取り掛かった。


まずはリヒトだ。


今日の今日なので、まだ省エネモードなのだろうと思いながら足取りを見てみると、これまでが嘘だったかのように、いつもの精悍なリヒトに戻っていた。


心配は杞憂だったようで、千尋は肩をなでおろした。

原因がよく分からないのは気に掛かるところではあるが、とりあえず元気そうで何よりだ。




次は息子のドナー。


ドナーは母親に似て大人しく賢い子で、千尋たち飼育員の指示をよく聞いてくれるいい子だ。

今日も素直に従ってくれて、すぐに部屋に戻っていった。




続いて娘のローズ。


ローズは小さい頃のリヒトにそっくりで、とてもやんちゃなお転婆(てんば)娘だ。

いつもならすんなり従って戻っていくのだが、今日は持ち前のやんちゃぶりを発揮して全然入ってくれなかった。まるで千尋と鬼ごっこでもして楽しんでいるかのように逃げ回る。



ローズを追いかけている途中、虎舎の扉が開く音が聞こえた。


秋元が有休を取っていることは飼育員全員が知っているので、誰かが自分の様子でも見に来たのかと思ったが、今はそれどころではない。


早くローズを戻さねば。



気を取り直して鬼ごっこに付き合ってあげようと思ったのだが、少しすると、彼女は飽きたのか走るのを止めて部屋に戻っていった。


元気なのは大いに結構だが、やんちゃ過ぎるのも困りものだ。

千尋は複雑な気持ちを抱きつつ、最後の一頭であるブルームの元へ向かった。




最後は母親のブルーム。


ブルームは先に入っていった子どもたちの母親であり、リヒトの妻である。


彼女は展示場の隅の木陰に座ってのんびりしている。

ローズと千尋が走り回っている間も終始この状態だった。


そんな彼女を見て、千尋の頭にふと、海水浴の情景が浮かんできた。


浅瀬ではしゃぐ子どもたち。砂浜に立てたパラソルの下で見守る母親。


その母親と今のブルームが重なるような気がした。

種は違っても、母親として果たすべき役割は、本能レベルでは同じなのかもしれない。



千尋が感慨に耽りながらブルームに近づいていくと、彼女はこちらの意図を汲み取るように立ち上がり、ゆっくりとした足取りで部屋へと戻っていった。





いつもより手間のかかった帰厩を終えて、千尋は大きく息を吐いた。


虎たちを獣舎に戻した後は、展示場をぐるりと一周歩いて回る。

ゴミや不審物が落ちていないかを確認するためだ。


念のための確認ではあるが、今日もいつも通り、何も落ちていなかった。

確認を終えた千尋は、最後に展示場を見渡して虎舎に戻った。


虎舎に戻ってすぐ、千尋は驚愕した。




()()()()()




虎舎はもぬけの殻だった。

この場にまるで似つかわしくない静寂に包まれている。


千尋は信じられない光景を目の前に困惑し、しばし立ち尽くした。



なぜ虎が一頭もいない。

消えた……? なぜ? どうやったら消える? 脱走か? 

でも鍵がかかっているはず――。


恐る恐る目を動かし、状況を確認する。


各部屋の扉は開け放たれ、壊れた南京錠が転がっていた。


千尋は膝から崩れ落ちた。

疑いようのない現実にただ絶望するしかなかった。


なぜこんなことが起きてしまったのか。

なぜ、どうして――。




崩れ落ちたまま放心状態になっていた千尋であったが、ある疑念が頭をもたげてきた。


なぜ南京錠は壊れているのか――。


南京錠は明らかに破壊されている。

南京錠は部屋の外側から掛けていたわけで、当然虎たちには壊せない。

言わずもがな、これは第三者によって破壊されたと考えていい。

 

では、一体誰が――。


これも断言していいだろう。仕事仲間の誰かだ。

千尋は閉園時刻を過ぎてから虎舎周辺を巡回し、客が残っていないことを確認している。

万が一部外者が虎舎に忍び込んでいたとしても、犯行は難しいだろう。


犯行に掛けられる時間は、千尋が帰厩のために展示場に入ってから、不審物の巡視をして虎舎に戻るまでの時間と推測されるが、実際はもっと短いはずだ。


虎はナワバリ意識や警戒心がとても高い。

もし部外者が姿を現わしていたとすれば、部屋に戻らないだろう。


四頭とも部屋に戻ったということは、それまで部外者は姿を現していなかったということ。

つまり、犯行に使える時間は実質、千尋が展示場内を巡視していた間だけなのだ。


この短時間の間に、南京錠を四つ破壊して部屋の扉を開け、四頭とも脱走させて自らも(くら)ます。これだけのことを、虎舎の位置や構造、室内の状況や虎の管理体制などをよく知らない部外者ができるはずがない。


虎を脱走させたことはないし、今後もさせることはないが、これらを熟知している自分であっても、この短時間では難しいのではないかと思う。




千尋は、部外者の可能性を放棄して、内部に目を向ける。


自分でさえ難しいと感じるこの所業を、誰であれば可能なのか。


可能性があるのは、唯一の相棒である秋元ぐらいだろう。

だが、その彼は有休を取っていて終日不在だ。「家族でお出掛けっす!」と嬉しそうに話していた。


秋元じゃないなら、誰なんだ。

誰だったらできるんだ……。



「そんなこと考えてる場合じゃない!」


正気に戻った千尋は、犯人捜しをしている最中、猛獣が脱走し世に放たれてしまっていることに気づいた。


千尋はすぐさまスマホを取り出し、電話を掛けた。


「もしもし。菊池くん、どうかしたのか」

「すみません、園長。緊急です。虎が脱走しました」

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