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第二位、人間  作者: 青野 乃蒼
国家転覆

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どうでもいいと思われるような小さなことを祝うのは幸せの証

「おはざーす」


千尋が展示場の掃除をしているところに、秋元(あきもと)が出勤してきた。


「おはよう、秋元くん」


千尋はちらと腕時計を見る。時計の針は八時前を指している。

開園まで後一時間。いつも通りの時間だ。


「千尋さん聞いてください! 今朝、希愛(のあ)が初めて寝返りしたんですよ。いやー感動しました。子どもの寝返りなんて何回も見てますけど、やっぱり娘は格別ですね。女の子最高!」


秋元は二十七歳の若さにして三児の父親だ。

希愛は末っ子のゼロ歳児で、秋元家待望の女の子だと聞いている。


「それは喜ばしいことだけど、秋元くん、そんな中よく出勤できたね」

「ホンマそれですよ。もっと希愛の可愛い姿を見ていたかったです。断腸の思いでした」


冗談ではないことを、秋元の顔が語っている。

千尋はそれを見て、申し訳なくも微笑ましく思った。


「そうだよね。よく頑張りました。せっかくの記念日だから、せめて早く帰って家族みんなでお祝いしないとね」


秋元の顔が一転してぱっと晴れやかになる。

感情が顔に出るほど素直で真面目で明るい彼の性格を、千尋は好ましく思っている。


「はい! 嫁が晩御飯ちょっと豪華にするって言ってたんで、俺も帰りにケーキでも買って帰ろうかなって思ってます。ちょっと大袈裟かもしれませんけど」

「そんなことないよ。世間一般的にはどうでもいいと思われるような小さなことを祝うこと自体が、幸せの証だと僕は思うよ」


これは千尋の本心であり、長い独身生活で学んだことだ。


何かができるようになった。

一つ年を取った。


これらを祝いたいという誰かを想う気持ちは尊いものであり、想われることもまた然りである。


これは相手がいて初めて成立することであるが、平和国家である現代日本において、相手が存在しないということは稀であり、想われることに慣れてしまっているがゆえ、多くの人たちがその価値に気づけないのだ。


だからこそ千尋は、運よく気づけた者として、自分の周囲の人たちには何よりも優先してより多くの時間を想い想われる人たちと共有し、幸せを積み上げていってほしいと思っている。


「さぁ、お祝いするためにもさっさと仕事を片付けよう」

「イエッサー!」





千尋たちは言葉通り、展示場の掃除と虎たちの朝の体調チェックをてきぱきこなし、九時の開園を迎えた。


今日は日曜日ということもあり、多くの客が来園している。

施設柄、客層としては家族連れやカップルが大半だが、今日のような休日は特に家族連れが多い。


それを見越して休日にはイベントが盛り込まれており、虎舎も『お食事タイム』という展示場での公開給餌をしている。


子どもたちの笑顔を見るとこちらも幸せな気持ちになるし、飼育員冥利に尽きる。

休日はより多くの笑顔を見ることができるため、千尋にとっては休日ではないが少し特別な日なのだ。




子どもたちの笑顔を見ながら忙しなく作業をこなしていくと、時間はあっという間に過ぎていった。

日が落ちてきて客もまばらになっている。閉園時間が近づいているのだ。


千尋は秋元に声を掛けた。


「秋元くん、お疲れ」

「お疲れっす。今日もたくさんお客さん来てたっすねー。ありがたや、ありがたやー」


秋元は天に向かって目を閉じ、両手を合わせた。


「うん、本当にありがたいよ。また来てもらえるようにお世話頑張らないとね。それはそうと、そろそろ閉園の時間だし、もう上がりなよ」

「えっ、マジっすか! いいんすか?」

「いいよ。後の作業はやっておくから。希愛ちゃんのためにも、早く帰ってあげてよ」

「あざっす! じゃあ遠慮なく甘えさせてもらいます。あ、でもこの作業はちゃんと終わらせますから」


今日来てくれていた子どもたちと同じくらい嬉しそうに、秋元は笑った。


「うん、よろしく。帰る前に一言声掛けてよ」


千尋は手を挙げて、仕事に戻ろうと身を翻した。

「了解っす!」と背中を押されたように感じるほどの良い返事が返ってきた。




千尋が戻って作業を再開して五分も経たないうちに、秋元は走ってやって来て、礼と別れの挨拶を済ませると、また走って帰っていった。


千尋は彼の背中を見送りながら、微笑ましく思いつつも、その感情の中に一抹の羨望が交じっていることに気づいて、目を逸らした。





 閉園時間になり、千尋は虎舎周辺を歩き回って客が残っていないかを確認した後、残務作業に取り掛かった。


いつもは二人で分担してやっている作業を一人でやるので、単純に倍の時間が掛かる。

ただ、千尋か秋元どちらかが有休を取る日は、基本一人で作業をこなすことになるので、どうということはないし、何とも思わない。



終わった頃にはすっかり日が暮れていた。

事務所に戻る前に、千尋は虎たちの部屋の前に向かった。


千尋は退勤する前に、必ず虎たちに挨拶をするようにしている。

と言っても虎たちが反応してくれることは稀で、ほとんど独り言みたいなものだ。


「リヒト。今日もお疲れ様」


最後の一頭はリヒトと千尋は決めている。

千尋の声に応えるように、リヒトはおもむろに顔をこちらへ向けた。


リヒトはこの動物園で生まれ、生まれた時から千尋が世話をしている。

これだけ長い付き合いなので、リヒトのことを自分の家族だと思っているし、単なる思い込みでは済ませられないほど、こちらの言葉が通じているように感じる。


なので、リヒトにはついつい何でも話してしまう。


「リヒト、聞いてよ。今日は希愛ちゃんをお祝いするって言うから、秋元くんを少し早く帰らせたんだけど、そんな彼を少し羨ましいと思っていたよ。結婚も子どもも、とっくの昔に諦めをつけたはずなんだけどね。この年になってもまだ夢見てる自分が少し恥ずかしかったよ」


リヒトは静かに、まるで千尋の心の中を見透かそうとしているかのような鋭い眼差しで、ずっと千尋を見ている。その瞳が、「情けないぞ千尋、もっとしっかりしろ」と言っているような気がした。


千尋はそう信じて、リヒトに返事をした。


「そうだね。僕にはリヒトたちがいてくれるだけで十分だ。一晩寝て心を入れ替えてくるよ」


返事を聞いたリヒトは、やれやれといった具合に、千尋から顔を背ける。


「話を聞いてくれてありがとう、リヒト。また明日」


千尋はリヒトに別れを告げた後、虎舎の扉をそっと閉めた。

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