人と虎、両方が暮らしやすい世界に
「しかし、最近は物騒な事件が続いとるのー。おそろしゅうて、夜もおちおち寝られんぞ」
ラジオを聞いて、社長の松本が嘆くように言った。
「そうですね。僕たちも気をつけないと」
「おぉ、そうよ。わしらみたいな非力なもんは、襲われたらなんも抵抗できんぞ。せめて戸締りだけはちゃんとしとかないかんわい」
松本の言う通り、戸締りさえしっかりしていれば、夜中に襲われるようなことはないような気がする。
「ほな、もうちょっと休んだら再開するかのー。わし、部屋に戻るから、休憩終わったら声掛けてな」
「分かりました」
松本は食後決まって部屋で寝る。
だから、頃合いを見て自分が起こしに行く。
昼の仕事再開は時間がきっちり決まっていない。
だいたい十三時。
多少早く始めるときもあれば、遅く始めることもある。
その裁量はなぜか自分に委ねられている。
なぜなら、松本を起こしたときが仕事の再開だからだ。
自分が勤め始めるまではどうしていたのだろうかと思わないでもないが、このゆるさが心地よかった。
午後の仕事もいつも通り淡々とこなし、十七時前には片が付いた。
「今日はもういいぞー」
終業も昼と同じで、きっちり時間が決まっていない。松本が終わりと言えば終わりだ。
早いときは十五時頃に終わったりする。
「お疲れ様でした」と簡単に挨拶をして、帰路につく。
スマホを取り出して、母と凛に終業報告のメッセージを送った。
スマホは最近買った。
母と自分がスマホを持っていないことを知った凛は驚いて、「スマホは絶対いる!」と言うので、三人でリサイクルショップに買いに行った。
買った当初は初めて触る機械に翻弄されていたが、それも今は昔。
ようやく使いこなせるようになってきた。
すぐにコミュニケーションが取れるのは本当に便利だ。
母からメッセージが返ってきた。
今日の夕食はカレーらしい。
帰りに牛肉を買ってきてとおつかいを頼まれた。
松本木工所の近くにスーパーがあるので、帰りにおつかいをよく頼まれるのだ。
『分かった』と返事を打った後、スーパーに寄って家に帰った。
夕食はいつも三人で食べる。
母と凛は夜勤があり、夜勤の日は帰ってくるのが朝の八時頃になる。
だから各自仕事がある日は、朝、昼、夕のうち、三人が揃って食べられるのは夕食だけなのだ。
「できたよー」
テーブルの上に、カレーが運ばれてくる。
スパイスの香ばしい香りが鼻をくすぐる。
とてもいい匂いだ。
三人で顔を見合わせ、手を合わせる。
「いただきます」
食べる前から、凛が話し始める。
「そういえばさ、夜勤のときにおもしろい人が来るんだよねー」
「そうなの? どんな人?」と母が尋ねる。
「朝五時頃に自転車で来るおじいちゃんなんだけどね、そのおじいちゃん、必ず新聞とアイスを買うの。朝五時だよ? 新聞は分かるけど、アイスっておかしくない?」
「そんな人いるんだ。確かに変な組み合わせだね。コーヒーとかなら分かるけど」
「でしょ? その人、わたしが夜勤のときいつも来てるの。お母さんのときも来てるんじゃない?」
凛は母のことを『お母さん』と呼ぶようになった。
いつからかは覚えていない。
気づいたときには、そう呼んでいた。
「そうねぇ、そう言われるとそんな人がいたかもしれない。次の夜勤で気に掛けておくわね」
「絶対来てるってー。その人来たときに笑わないように気をつけてよ」
「ほんとよね、気をつけます」
食後は決まって三人でテレビを見る。
テレビも凛の提案で買った。
リサイクルショップの中古品だ。
新品より画質は劣るのだろうが、見るに堪えないなんてことは全くない。
番組が終わり、画面がニュースに切り替わった。
昼間にラジオで聞いた、虎による殺人事件が伝えられている。
「最近多いよねー。しかも結構近場で起きてるよね」
「そうなのよ。今回は隣町だし、私たちも気をつけないと。凛も気をつけてよ」
「はーい。って言っても、気をつけたところで、襲われたら終わりなんだけどね」
凛の言う通りだ。
人には抵抗する手段がない。
襲われたら最後、命はない。
「コタ、どうにかしてよ。元虎でしょ」
「元虎って。僕は生まれてこのかた虎と人のハーフだよ」
「虎じゃん。しかも元皇族じゃん。何とかできないの?」
凛は冗談めかして言っているが、きっと半分は本音だろう。
人がこの時代を生きて、嘆かずにはいられない。
変わって欲しいと願わずにはいられない。
「元皇族は僕じゃなくてお父さんだけだよ。僕には何の力もない。でも、僕も現状がいいとは思ってない。理由もなく人を殺して、何の罪にも問われないなんておかしい。だけど、きっと変わらないと思う。皇帝が変わらない限りはずっと」
現皇帝――父の弟であるローガンは、反人派で有名だ。
そのローガンが、人にとって有利になるような政策を打つことはあり得ない。
そんな政策を望む虎もまた、存在し得ない。
「コタが皇帝だったらいいのにね。そしたら、人と虎、両方が暮らしやすい世界になるのに」
「そうだね。皇帝になれるものなら、そうするよ」
あの日、人として生きると決めた。
だからもう、虎の世界に干渉はできない。
それでも、少し考えたことはある。
獣人である自分にしかできないことがあるのではないか。
虎と人の架け橋になれるのではないかと。
でも、具体的な行動は一つとして思いつかなかった。
だから今はただ願う。
もっと人々が安心して暮らせるような、そんな世界になってほしいと。




