わしは幸せ者
冬の朝は凍てつくように寒い。
太陽はこの時期、毎日朝寝坊で顔を出さないので、いつまで経っても気温が上がらない。
自分も太陽のように朝寝坊したいと少し思わないでもないが、今は仕事がある幸せの方が大きい。
虎太郎は玄関を開けた。
部屋の温かい風が抜けて、代わりに冷たい風がひゅーっと部屋の中へと流れ込んでくる。
薄着の母と凛が、「さむいさむいっ」と言いながら、身を抱えるように肩をさする。
「いってきまーす」と言って、虎太郎が手を上げる。
「いってらっしゃーい」と、二人が手を振って見送ってくれる。
凛との共同生活が始まってすぐ、ようやく仕事が見つかった。
家から一時間と少し歩いたところに、松本木工所という木製の家具や小物を製造しているところがあった。
最初声を掛けたときは、これまでと同様に断られた。
ただ、何かのはずみで世間話になると、社長の松本が、自分は今年で七十四歳になるが、重いものを持つのにかなり苦労をするようになったと話し始め、それからあれよあれよという間に、気づけば少し手伝ってほしいということになっていた。
最初はお試しということで、一週間通った。
大きな木材を運んだり、松本が言う通りに木材をカットするといった内容で、力のある自分にとっては簡単な作業だった。
それでも松本は、自分を気に入ったのか、それとも思ったより松本自身が楽になったからなのかは分からないが、そのまま雇ってくれることになった。
給料はそこまで出せないがいいか、と聞かれたが、仕事があるだけでありがたかったので了承した。
雇ってもらうことが決まったその日、連絡先を教えてくれと言われたが、連絡手段を持っていなかったので、代わりに家の場所を伝えると、「そんなところから来ていたのか!」と驚かれた。
通勤方法は徒歩だと伝えるとさらに驚かれた。
その後、松本は工場内に引っ込んだかと思うと、自転車を押して戻ってきた。
所々に錆は目立つが、それでもまだまだ乗れそうだ。
なぜ自転車なんか持ってきたのだろうと思っていると、松本は「それでは通勤が大変だろう」と言って、なんとその自転車を譲ってくれた。
予想だにしないことだったが、本当に嬉しかったし、ありがたかった。
虎太郎はペコペコと何度も頭を下げて礼を言った。
松本木工所がある限り、ここで働き続けようと思った。
そして今日も、その自転車で通勤している。
凛は、母と同じコンビニで働いている。
母が店長に相談したところ、若い子は大歓迎と言われ、すんなり採用されたらしい。
凛は若いということもあって夜勤が多い。
生活リズムが乱れて大変だろうと心配して聞いてみると、
「夜は客が少ないのに時給が高くてコスパいいんだよ。やらない理由がない」
となぜか逆に怒られた。
昼休憩に入った虎太郎は、母が作ってくれた弁当を広げる。
手を合わせて、「いただきます」と言って、玉子焼きに箸を伸ばす。
松本がラジオと弁当を持ってやって来た。
お昼は松本と二人、工場内に置いている切り株のような木材に座って弁当を食べている。
「虎太郎、お前、昼ぐらい帽子取りゃええのに」
「いや、いいんですよ。帽子被ってないと落ち着かないので」
松本には自分が獣人であることを明かしていない。
雇ってくれた恩人だから打ち明けようとも思ったが、獣人だと知って追い出されるかもしれないと思うと、怖くてできなかった。
「そうか。それより、虎太郎の弁当はいつも美味そうよのー」
「はい、おいしいですよ。松本さんのもおいしそうじゃないですか」
「おぉ、美味いぞ。母さんの作る飯は美味い。ほれ、これやる」
そう言って焼き魚を一つ、虎太郎の弁当箱に入れる。
松本は「若いものはもっと食わないかん」と言って、いつもおかずをくれる。
確かに、松本のくれるおかずはどれも絶品だ。
「ありがとうございます。でも、本当に奥さんのおかず美味しいです」
「そうやろー。母さんは家のことなら何でもできる。ほんと、いい嫁もろうたわい。わしは幸せ者よ」
「いつも奥さんのこと褒めてますよね」
「当たり前よ。わしができんことを全部してくれるんやから。母さんがおらんかったら、わし、生きていけんぞ。虎太郎、お前もいい嫁もらえるように精進せえよ」
松本は照れ隠しのように冗談めかして言う。
松本が妻の話をするときは、いつも幸せそうな顔をしている。
その顔が、松本の言葉が心の底からの本音であることを物語っている。
話が途切れたタイミングで、雑音となっていたはずのラジオが耳に入ってきた。
『――男性が虎に襲われました。男性は病院に運ばれましたが、まもなく死亡しました。今月に入ってからはこれで四件目になり、警察は同一の虎による犯行と見て、警戒を呼び掛けています』
今月はまだ中旬だ。
それで四件は多い。
そもそも虎による人間の殺害など、一件でも起きてはいけない。
それでも人々は、恐怖に怯えながらも黙って暮らしていくしかない。
この世界で、人間は虎を裁くことも滅することもできない。
だから警察は捜査ではなく、警戒を呼び掛けるしかないのだ。
なぜ虎は無実の人を殺すのか。
なにも全ての虎がそういった凶悪な心を持っているわけではない。
ごく一部の虎がこういった犯行に及んでいるのだ。
それでも、何のために殺すのか、虎の血が混じる獣人の虎太郎でさえ、その理由はまるで分からなかった。




