一年ぶりの再会
虎太郎は一人、夜道を歩いていた。
空には三日月と数多の星々が燦然と輝いている。
田舎らしい、美しい夜だ。
母には噓をついて家を出た。
「夜の仕事があるかもしれないから探してくる」
そう言った。でも探す気はなかった。
こんな田舎に夜やっている工場や店などあるはずがない。
あってもコンビニくらいだ。
ただ夜の外を歩きたかった。
何かがあるというわけでもないが、やさぐれた心が、夜の闇へと誘った。
仕事を探し始めて二週間が経っている。
至るところを歩き、それらしい建物を見つけては声を掛けた。
数十軒は声を掛けた。
でも、全て断られた。
仕事の件を断られただけなのに、なぜか自分を否定されているように感じてくるのはなぜだろうか。
人間の心というのは不思議なものだ。
そのせいで、探すのが嫌になっている。
でもこのままではいけない。
ずっと母一人を働かせるのは許されない。
何としても仕事を見つけなければならない。
でも、どうやって……。
悶々と考え込んでいた虎太郎は前を見ていなかった。
突然、左肩に衝撃が走った。
「す、すみません!」
ハッとして、咄嗟に謝罪した。
目の前に、人が下を向いて立っている。
虎太郎よりも、頭二つ分くらい背が低い。
衣服は汚れ、腕や足はかなり細い。
線の細さからして、女性かもしれない。
その人は一向に動かない。口も開かない。
虎太郎は困って二の句を継げずにいると、その人は虎太郎に向かって倒れてきた。
虎太郎はそれを慌てて抱きとめる。
「だ、大丈夫ですか?」
返事はない。
虎太郎は肩を掴んで軽く揺する。
「あ……の……」
蚊の鳴くような掠れた声がした。
声の高さから女性だと思った。
「ぶつかってしまってすみません。大丈夫ですか?」
もう一度聞くと、女性が顔を上げた。
彼女の顔が露になる。
雷に打たれたかのような衝撃が、虎太郎を貫いた。
この顔には見覚えがある。いや、見覚えがあるなんてものじゃない。
ずっと待ち焦がれていた、あの人の顔だ。
ショートカット、アシンメトリーの前髪、切れ長の目――。
一年前、父と行った競人場で僕の心を奪った、菊池選手にそっくりだった。
「あの……、た……食べ、ものを――」
何かを言い切る前に、彼女は体を完全に虎太郎に預けた。
虎太郎はもう一度肩を揺する。
しかし、今度は一切反応しなかった。
どうやら意識を失ったらしい。
このまま置いていくわけにはいかないし、とりあえず家に連れて行こう。
虎太郎は彼女を背に、歩いて家に戻った。
「おかえりー」とのんびりとした母の声がした後、母が玄関に出迎えに来ると、今度は血相を変えて「どうしたの?」と聞いてきた。
事情を説明すると、「すぐに寝かせましょう」と言うので、この家では一番上等にあたるソファに彼女を寝かせた。
虎太郎は彼女の寝顔を見つめる。
自分の目に狂いはないはずだが、彼女は本当に菊池選手なのだろうか。
もし、菊池選手なのだとしたら、なぜ彼女はこんなところにいるのだろうか。
なぜこんなにも瘦せ細っているのか。
意識を失ってしまうほどの、何があったというのか――。
彼女に聞きたいことが、山ほどある。
しばらくして、彼女は目を開けた。
身体を起こそうとしたので、「起きないでいいのよ」と母がそれを制した。
彼女はしきりに目を動かす。
「あの、ここは……」
「私たちの家よ。心配しないで、安全な場所だから」
彼女の顔から、すっと力が抜けたような気がした。
「あなた、大丈夫? 虎太郎から倒れたって聞いたけど」
「おかげさまで、今は大丈夫です」
彼女が虎太郎に目を向ける
「さっきはすみませんでした。それと、助けていただいてありがとうございます」
「大丈夫みたいで良かった、安心したよ」
大丈夫と本人が言っても、倒れたばかりだ。体に障るようなことはしたくない。
それでも虎太郎は、彼女に確認せずにはいられなかった。
「もしよければ、名前を教えてくれないかな。ちなみに、僕は虎太郎。虎に太郎で虎太郎ね。で、こっちが母の優子」
「よろしくね」
「よ、よろしくお願いします。わたしは……|菊池、凛といいます」
菊池――。
やはりそうだ。
目の前にいる彼女は、あの菊池選手なんだ。
虎太郎は気が急いて、矢継ぎ早に聞いてしまう。
「菊池さんは、競人選手、だよね」
切れ長の目が、大きく見開かれる。
問いに対する答えが是であることを告げている。
「どうして、それを……」
「一年前、父と競人場に行ったときに、君のレースを見たんだ。君は一位だったんだけど、そのときの君の笑顔がとても印象的だったんだ。だから、君を覚えてた」
「そう、だったんですね。……でも、今はもう選手ではないんです」
「そうなんだ。それじゃあ、今は何を?」
沈黙が訪れる。
答えるかどうか、彼女にはそんな逡巡の色が見えた。
核心を突いてしまったのかもしれない。
虎太郎は彼女が答えるのを待った。
しかし、沈黙を破ったのは母だった。
「はいはい、長話はこの辺にしておきましょう。あんなことがあったんですから、凛ちゃんはしっかり休まないと」
「あ、はい。でも、あの、一つお願いが……」
「ん? なにかしら?」
「図々しいのは分かっているのですが、その、何か食べ物をいただけませんか……?」
そうだった。
彼女は気絶する直前、食べ物がどうと言っていた。
どうやらあれは、食べ物を欲していたらしい。
気絶するほどの疲労と空腹を抱えて、ここまで歩いてきたのには、一体どんな理由があるのだろうか。
母は彼女のために急いでおかゆを作り、食べさせた。
彼女は自分で食べれると言っていたが、母がそれを許さなかった。
彼女は恥ずかしそうにしながらも、されるがままになっていた。
本当に疲れていたのだろう。
食後しばらくすると、彼女からすやすやと寝息が聞こえてきた。




