3歳の誕生日
ついにこの日が来てしまった――。
虎太郎はふーっと長い息を吐く。
今日は虎太郎の三歳の誕生日だった。
ついこの間、ルナたちを見送ったはずなのにと、虎太郎は月日が立つ早さを痛感する。
ルナと別れたあの日から、とにかく考えた。
自分はどうしたいのか。
どうすれば平穏に暮らせるか。
なにも競人ばかりに気を取られていたわけではない。
それはそれ、これはこれ。
ルナとの約束を守るため、自分のため、しっかりと考えた。
そして、一つの答えを導き出していた。
「おめでとう、虎太郎」
父が祝福の言葉を告げて、儀式は終わった。
いよいよ僕は、これから外へ出るんだ。
でも、その前に――。
虎太郎は父を見据える。
何かを固く決心したような、精悍な面持ちで。
「お父さん、僕――」
虎太郎はそこで、言葉に詰まる。
自分で考え決意したこととは言え、やはり誰かに言うのは勇気がいった。
父は静かに聞いている。虎太郎の言葉を待っている。
虎太郎は一度、深呼吸をする。
そして、言った。
「僕、人間として暮らすよ」
父は驚いたように目を見開いた。
でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに普段の穏やかな表情に戻った。
まるで、虎太郎がその道を歩むであろうと悟っていたかのように。
「そうか」と、父は一言だけ呟いた。何も聞いてはこなかった。
きっと父もルナと同じように、自分の身の上を案じていたのだ。
そしてその答えは、虎太郎が出した答えと一致していたのだろうと思った。
「それで、一つお願いがあるんだ」
「なんだい?」
「お母さんと、一緒に行きたいんだ」
父はまた目を見開く。今度は口も開いている。
さすがにこれは予想していなかったらしい。
目も口も開いたまま塞がらない。
「え、ゆ、優子も連れていくのか? ど、どうして?」
お母さんは人間だから。
人間らしく生きてほしい。
とかなんとか、殊勝なことを言えたら格好がつくというものだが、自分にはそんな文才はない。
それに、上辺だけの美辞麗句をいくら並べても、父は納得しないだろうと思っていた。
だから虎太郎は、思いのままを打ち明けた。
「不安なんだ。僕はこれまで虎として生きてきた。お父さんは色んなことを教えてくれたけど、でもそれは、あくまでも虎から見た世界だ。人間がどんな風に暮らしているか知ってても、僕はそれを人間と同じようにはできない。知ってることとできることは違うんだ。だから、お母さんに助けてほしい。そばにいてほしいんだ」
父は虎太郎から目を逸らし、下を向く。
んー、うーん、と時折唸りながら考え込んでいた父だったが、しばらくして、呟くように口を開いた。
「優子は、どう思っているんだ?」
「恐れながら申し上げますと……」
母は言葉の通り、おそるおそるといった感じで言った。
「ついていってあげたい、と思っています。実は、以前から何度か、虎太郎から相談はありました。最初は、人間として暮らすこと自体、反対でした。虎として生きても、人間として生きても、きっと苦しい人生になる。それなら、エイデンさんに頼んで、ずっとここで暮らしていけばいいと、そう思っていました。でも、虎太郎の意志は固かった。ここを出るまでは、虎でいたい。そして、ここを出ることで区切りをつけたい。けじめがつけられるんだ、と」
母はいつになく滔々と話し続ける。
虎太郎は、真剣な表情ですらすらと話す母を初めて見た。
美しい、とさえ思った。
「でも同時に、不安だとも言いました。人々に罵倒される毎日かもしれない。避けられ続けて一生独りかもしれない。それは嫌だ。でも、もしそうなってしまっても、お母さんがいれば平気だよ。お母さんと一緒ならやっていけるよ。そう言ってくれました。私はこれまで、虎太郎に何もしてあげられていません。だからせめて、虎太郎が私を求めてくれるなら、私はそれに全力で応えたい」
母は膝をついて頭を垂れる。
「エイデンさん、お願いです! どうか、どうか私も、虎太郎と一緒に行かせてください! お願いします!」
これは自分の願いでもある。
そう思った虎太郎は、母に合わせて頭を下げた。
父は沈黙したままだった。
外で風に揺れる木々の音だけが、微かに窓の隙間から聞こえてくる。
父が黙考していたのは数秒だったと思う。
でもその数秒が、とても長く感じられた。
「うん、分かった。いいよ」
父の声に、虎太郎と母は顔を上げる。
「本当ですか!」
「あぁ、本当だよ。優子がそばにいなくなるのは寂しい。だけどそれ以上に、虎太郎のことが心配なんだ。虎太郎が言うように、きっと人間界も苦難困難の連続だ。もしかしたら心が折れてしまうかもしれない。だからそうならないように、優子には虎太郎をそばで見守ってあげてほしい。虎太郎のこと頼むよ、優子」
「はい、ありがとうございます……」
母は再び頭を下げる。
滲みでた涙が、地面に滴り落ちていく。
「お父さん、ありがとう」
「うん。お母さんのこと頼むよ。男同士の約束だ」
父が前足を差し出す。
虎太郎はそれを見て、父の足をぎゅっと握る。
「分かった、約束する」
虎太郎は父と熱い握手を交わした後、母に歩み寄る。
母はもう泣いてはいなかった。
「ありがとう、お母さん」
母はまた泣きそうになったのか、口をきゅっと結んでコクコクと頷いた。
虎太郎は立ち上がって母の手を引き、母を立たせる。
「さぁ、行こう」
虎太郎は母の手を掴んだまま、颯爽と一歩を踏み出した。




