女子100メートル 5番 菊池
階段を上り、二階の隅の方に座る。
フィールドを見回してみるが、陸上競技場と特に変わりはなかった。
ただ、来ている客は、陸上競技とは違って虎しかいなかった。
なぜ虎しかいないのか。
虎太郎にはなぜだか分からなかった。
レースは女子一五〇〇メートルの長距離から始まった。
選手が走る様子も歓声を上げる観客も、終始陸上競技と同じだった。
ただ、公営競技というのもあって、レース終了後は、称賛の声に交じって、人券を外した観客が罵声を浴びせたり、野次を飛ばしたりしているのは印象的だった。
長距離、中距離の順にレースは進み、次は短距離の女子一〇〇メートルが始まろうとしている。
ここまでのレースを見て虎太郎は、初めこそ新鮮味があって面白いと感じていたが、次第に飽きてきていた。
人間は虎ほど走るのが早くない。
それなのに、長距離や中距離ときたら、ペース重視で走るため、虎太郎には遅く感じられ全く迫力が感じられなかった。
だから、次の一〇〇メートルは少し期待していた。
並んでいる選手たちの中に一人、頭一個分背の低い子がいた。
身長は一五〇センチほどで、歳は十五、六くらい。
ショートカットで、前髪がアシンメトリーに切り揃えられているのが印象的だ。
切れ長の目には闘志がみなぎっている。
こんな背の低い子も走るんだ、と虎太郎は思った。
オンユアマーク――。
セット――。
号砲が鳴った。
スタートと思いきや、続けざまにもう一発号砲が鳴る。
フライングだ。
フライングは一発で失格になる。
フライングをした選手は、もうこのレースを走ることができない。
虎太郎の目には誰がフライングしたのか分からなかったが、近くにいた審判がフィールドの最内にいる選手に向かって歩いていく。
あの選手だったのか、残念だなと思っていると、フライングした選手は抵抗し始めた。
しかし、その拒みようは想像を絶するものだった。
「ち、違う……違う! 私じゃない! 私はフライングなんてしてない!
いや! いや! いやあああああぁぁぁーーーーーー!!!!!」
まるで拷問か殺害されることを悟った被害者のような絶叫が、フィールド中に響き渡る。
なぜ、そこまで拒否するのか、これまた虎太郎には分からなかった。
確かに失格は辛い。
今日のレースのために万全の準備をしてきたはずだから。
だとしても大げさな気がする。
失格と言っても、走れなくなるのはたかだかこのレースだけで、次のレースには出られるのだ。
喉が潰れそうなほど叫び、暴れまわるほど、このレースに賭けていたのだろうか。
選手はしばらく抵抗を続けていたが、その努力も空しく、数名の審判によって退場させられていった。
一人が退場した後、レースが再開される。
号砲が鳴った。
今度は一発しか鳴らなかった。
スタートと同時に、あの背の低い子が一歩早く前に出る。
そしてぐんぐん加速していく。
後ろから追い上げようと頑張る選手たち。
それでもあの子は、最後まで抜かせることはなかった。
両手を後ろに伸ばし、身体をぐっと前に倒す。
そしてゴールラインを切る。
かっこいい。
虎太郎は衝撃のあまり、感動していた。
まさか、あの子が勝つなんて。
そして何より心を奪われたのは、ゴールラインを通過した直後の笑顔だった。
勝った喜び、努力が報われた幸せ、走ることの気持ちよさ。
たくさんの幸福感が目いっぱい詰め込まれたような、そんな笑顔だった。
虎太郎は一瞬で彼女のファンになった。
彼女の名前を知りたい――。
虎太郎は彼女のゼッケンを確認する。
番号は『五』と書いてある。
慌てて電光掲示板に視線を移す。
一から順に視線を下ろし、五番に辿り着く。
そこには、『五番 菊池』と表示されている。
菊池さん、菊池さん。
よし、覚えた。
虎太郎は、また彼女のレースを見たいと強く思った。
彼女の走る姿が見たくて、虎太郎はあれから何度も競人に足を運んだ。
虎太郎が頻繁にせがむので、父は虎太郎がよほど競人を気に入ったのだと勘違いしていたが、虎太郎はそんなことはどうでもよかった。
とにかく、彼女を一目見たい。
そう思っていたのに、あの日以来、彼女の姿を見ることはなかった。
選手は毎週レースに出るわけではない。競人場だっていくつもある。
だから、自分が足を運んだときと彼女のレースのタイミングが、たまたま合わなかっただけのことなんだ。
そう自分に言い聞かせているが、あの姿が見れないのは、やはり残念だった。
今も元気に走っているといいな。
虎太郎はそう祈るばかりだった。




