分水嶺
この事件により、下火になりつつあった政府への批判は、爆発的に増加した。
犯人の完璧な手口から、関西を侵略されるのも時間の問題だ、と囁かれ始めている。
犯人の痕跡すら見つけられず、犯行を止めることもできずでは、無理からぬことだ。
直近の世論調査では、内閣支持率が一桁台と、歴史的な低位となっている。
世紀の大事件になりつつある現状において、政府としてこれ以上の侵略は何としてでも防がなければならないところではあるが、限られた人員と資金の中で、異次元じみた犯行をやってのける犯人相手では、万策尽きつつあることは想像に難くない。
政府の方針に皆が関心を寄せる中、事件翌々日の朝、首相から「全国の動物園にいる虎を殺処分する」と、いささか強引な、良く言えば思い切った対策が公表された。
公表の中で首相は、『断腸の思いで決断した』とも述べており、その言葉に嘘はないだろうと千尋は思った。
ただそれは、虎を殺めることの心痛に対して、というよりも、動物愛護団体や愛好家たちからの批判を覚悟して、のものだろう。
実際、動物愛好家を名乗る者や虎マニアを自称する者からは、「罪のない虎を殺処分するのは、あまりにも非人道的だ」と批判の声が挙がっている。
ただ、こういった意見はごく一部であり、「人命優先においては致し方無い」という政府を擁護する意見が圧倒的大多数を占めていた。
愛好家たちの意見はもっともである。
人間の身勝手で、動物の命が不当に扱われることなどあってはならない。
しかし、こと人命がかかった現状においては、やはり、致し方ないだろうと、動物園に務める千尋でさえも大多数の一人だった。だが、リヒトたちが処分される瞬間を想像すると、きっと耐えられないだろうとも思った。
首相の公表から数日後、政府は早速行動に移った。
最初に選んだのは、中国地方から最も近く、虎の飼育数の多い、兵庫県のサファリパークだった。
サファリパークと言っても、動物たちをサファリゾーンに出しているのは日中だけで、夜はそれぞれの獣舎に戻している。
そのため、実行当日は虎をサファリゾーンに出さず、朝から獣舎で行われた。
地元猟友会の猟師に協力してもらい、猟銃で麻酔弾を撃って虎の意識を混濁させる。
その後は、安楽死させるときと同じ手順だ。
虎の意識が混濁していることを確認してから近づき、薬物を投与する。
投与後しばらく待って、最後に死亡確認をする。
飼育員は、虎に薬物投与される前に、丁寧に別れの挨拶をし、涙ぐみながら最期を見守った。
これを頭数分繰り返す。
サファリパークというだけあって飼育頭数が多く、全頭を終えたときには、深夜になっていた。
初日はプレスタートということで、兵庫県のサファリパークのみの実施であったが、実行性に問題がないことを確認できたため、予定通り二日目以降は、まず近畿地方を中心に、一日三か所程度実施していくこととなった。
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ここまで順調に事が進んでいるというのに、男は笑うどころか、はらわたが煮えくり返る程の憤怒と憎悪でどうにかなりそうだった。
――愚劣な人間共め。なぜ貴様らはこうも愚行しか成せないのか。どこまで我らを蔑ろにすれば気が済むのか。これまでは甘くやってきたが、もう堪忍ならん。目にものを見せてやる。
――悔しくも為す術なく人間に弄ばれた同胞たちよ。その無念、我々が必ずや果たしてみせよう。しばしの間、美しき桃源郷より、我々を見守っていてくれたまえ。
男は翌日早朝、同胞たちと共に、ある場所へ向かって出発した。
これまでは、深夜の山道を進み絶対に見つからないようにしていたが、もうその必要はない。
道幅を目いっぱい使い、我が物顔で堂々と公道を進んだ。
道中、我々に遭遇した人々は一様に、目をこれでもかとかっ開いて驚愕し、恐れ慄いて腰を抜かしたり、逃げ去っていった。
その姿がなんとも滑稽で、男はそれを見る度に鼻で笑った。




