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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第四章 嚆矢濫觴
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第丗二服 沢謀滅長

沢(たく)は謀(はか)りて長(ちょう)を滅(めっ)す


かかる時 さこそ命の 惜しからめ

かねてなき身と 思ひ知らずば

         『慕景集』 太田道灌


 享禄五年(西暦1532年)の年明けを堺で迎えた三好筑前守(ちくぜんのかみ)元(もと)長(なが)であったが、将軍参賀を欠席した柳(やなぎ)本(もと)甚(じん)次(じ)郎(ろう)元(もと)次(つぐ)を、不敬故に詰(きつ)問(もん)するという名分で、正月(2月)五日(10日)に軍勢を率いて入洛していた。


 京・三好屋敷に戻った元長は、即座に元次へ三条城からの退去と三好屋敷への出頭を命じた。が、元次は無視を続けている。


「あの小童(こわっぱ)奴(め)、未だ三条城を明け渡さぬ」

「それどころか、備えを強めている由。殿に刃向かうつもりでしょうか」


 側近の三好伊賀(いが)守連(つら)盛(もり)が、書面による報(しら)せを伝え、相槌を打つ。


 この時、細川武蔵入道常(じょう)恒(かん)を排除した堺幕府は内紛の危機に在った。但し、危機と理解しているのは三好元長、高畠紀伊入道周(しゅう)聡(そう)であり、対立する柳本元次や木沢左京亮(さきょうのすけ)長(なが)政(まさ)、茨木伊賀守長(なが)隆(たか)、三好神(じん)五郎政(まさ)長(なが)などは元長の排除に躍起になっている。


 元長と六郎の間に溝を作ることになったのは、六郎が足利義(よし)晴(はる)との和睦だけでなく、将軍として迎えようとしたからであった。その中心人物が柳本元次である。


 元長からすると、足利義晴から将軍職を剥奪し、足利義(よし)維(つな)を新将軍に据えれば、細川六郎の堺幕府は公認されるまであと一歩である。


 しかし、主君が典(てん)厩(きゅう)家の家宰・松井越前守宗(むね)信(のぶ)や、畠山総州家で専横の兆しの見える木沢長政、摂津の国人から六郎の奏(そう)者(じゃ)となった茨木長隆、分家の三好政長らの勧めによって義晴との全面和睦を推し進めようとしていた。それを、高畠周聡が辛うじて押し留めている。


 この動きを封じるべく、正月早々に上洛したのだ。


 京の三好屋敷は、永正四年(西暦1507年)に三好之長が宿所としていた土御門西洞院(にしのとういん)にあった仏(ぶっ)陀(だ)寺が焼亡し、跡地を三好越後守長(なが)当(まさ)が細川高国から下賜された屋敷である。長当自身は現在、堺に隠居して越後入道宗(そう)安(あん)を名乗っており、邸宅は本家に明け渡した恰好だ。


「遠巻きにするか」

「それも良いかも知れませぬ」


 元長は脅す位の心算であったが、結果としてこれが裏目に出た。元次が籠城してしまったのである。


 正月廿二日。三条城を取り囲んだ元長は、抵抗する柳本勢の、挑発に乗った篠原大和入道宗半を抑えきれず、柳本元次を討ち取った。柳本勢は総崩れとなり、三条城から撤退。急報が堺の細川六郎に飛んだ。


「筑前は余の家臣ではないのかっ!」


 六郎は激怒した。


 これに驚いた周聡は、阿波の撫養(むや)にいる六郎の舎弟・細川彦九郎に知らせ、取り成しを頼んだ。彦九郎は堺に詰めていた阿波衆八十人に髻(もとどり)を切らせ、恭順の意を示させる。だが、その怒りは解けなかった。


「筑前を斬首に処せっ」


 六郎は元長に死を命じると言い募り、詰問状を認(したた)めさせる。陰で差し押さえて時を稼ぐと、周聡は早馬を差し向けた。周聡からの報せを受け、高畠伊豆入道周(しゅう)適(てき)は謹慎している元長を呼び出した。


 周適は大徳寺の塔頭の一つである光(こう)勝(しょう)院——細川讃岐(さぬき)守頼(より)春(はる)の院号・光勝院に因んだ細川讃州家の菩提寺——の住持で、細川讃州家における京人脈の元締めでもある。ちなみに阿波にも光勝院があり、そちらは周聡が住持を譲られていた。


「筑前殿、此度はやり過ぎじゃ」

「面目次第も御座らぬ……家臣の手綱を握れぬとは」

「こうなったならば致し方ない。頭を丸めるしかあるまいて」


 周適が己の禿(とく)頭(とう)をつるりと撫ぜた。元長も申し出に首肯(うなず)くしかない。主君・細川六郎の怒りを納めるべく、光勝院にて剃髪した。


「法名はそうよな——見性院(三好之長)殿の法名に肖(あやか)って、〈海雲(かいうん)〉と名乗るがよかろう」

「有り難う御座いまする、伊豆入道(雲臥周適)様。御厄介をお掛け申した」

「よいよい。此度のことは些か肝を冷やしたぞ」


 周適は頭を下げる海雲を起こし、慰めた。見性院とは、海雲の父・三好之長のことで、歿(ぼつ)後(ご)は見(けん)性(しょう)院喜(き)雲(うん)道(とう)悦(えつ)と呼ばれる。父の戒名も周適の付けた名であった。


 海雲はそのまま京にて謹慎する。だが、六郎はそれでも怒りを収めることはなかった。


§


 月が明けて二月三日、彦九郎と周聡の奔走によって謹慎を解かれた三好海雲は、六郎に謝罪するべく堺に入った。軍勢は京に置いたまま、単身駆けつけたのである。謁見を申し入れると、六郎はすぐに顕本寺の本殿での引見を決めた。


 六郎の側には御前衆の筆頭である高畠周聡、海雲を敵視する三好政長と、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの茨木長隆が並んでいる。それ以外では、松井宗信と柳本孫七郎元俊も居た。


「大変申し訳御座いませぬ」

「……」


 親の仇を見るような目で海雲を睨み付ける六郎に、只管(ひたすら)、熊のような巨体を縮こまらせて謝罪し続けた。横でそれを見ていた三好政長が思わず吹き出す。


「どうした神五」

「いえ、余りにも御屋形様に謝罪する筑前入道殿が滑稽でして、笑いが堪(こら)えられませんでした」


 未だその声に怒気を孕んでいたが、六郎の勢いは削がれた。それに釣られて松井宗信と茨木長隆も笑い声を零す。


「孫七郎殿、これぐらいで溜飲は下がりまするかな」

「はっ、亡き甚次郎殿は甦りませぬが、これにて手打ちで宜しゅうござる」

「御屋形様、この辺りで赦してやっては如何」


 海雲は訝(いぶか)しがった。何故、柳本元俊がいるのだろうか。更には、自分と敵対する者たちが、猫撫で声で取り成すのを聴いて、怖気が走った。


「相分かった。筑前入道(三好海雲)がこと、此度は不問とする。が、次はないと思えっ」

「ははっ。有り難く存じます」


 側近の申し入れに鉾(ほこ)を収めたものの、腹立ちは収まらぬのか、荒々しく襖(ふすま)を開けて出ていった。海雲も、その後ろ姿に一礼してその場をあとにする。


 二人が出ていったのを確かめて、政長が口を開いた。


「しかし孫七郎殿も酷なお方じゃ」

「神五郎殿、それはど、どういう……」

「いやいや、分かっておる、分かっておる」


 馴れ馴れしく政長が元俊の肩を叩いた。元俊はやや引き気味だ。


「甚次郎殿に籠城させたのは孫七郎殿であろう?」

「なっ……ひ、人聞きの悪いことを仰せになられますな」

「ご安心召されい。気がついて居らぬのは三筑ぐらいよ」


 松井宗信と茨木長隆も口を挟む。四人は車座になり、密々(ひそひそ)と話し始めた。


「それにしても、神五郎殿が取り成すとは思いもよりませんでしたぞ。のう、伊賀(茨木長隆)殿」

「然り然り。越後(松井宗信)殿の言うとおり。これで三筑を除くのかと思うて居りました。」

「あれで居て戦は滅法強い。使い処はあると思いましてな」


 意味深長な含みのある笑い方をする政長。


「何にせよ、雲州家の当主は虎満丸殿に決まった。大船に乗った気で居ればよい」

「有り難く存じます」

「我らも其処許の策を利用させてもろうた。此処はお互い様ということにしておくとしよう」 


 元俊は政長の言うとおり、元長が遠巻きにするのを利用して、元次を煽りこれを除くことを思いついた。それは柳本家中の対立が要因である。


 柳本家中は柳本姓を与えられた血縁のない新一門衆と、雲州家累代の血縁を有する一門衆に分かれる。元俊は賢治の義弟であり、柳本氏の出ではないため、新一門衆に属していた。


 これに対し、元次は弾正忠元治の遺児で、本来であれば跡取りである。しかし、元治が討死したときはまだ幼く、高国の口入れで賢治が家督した。


 しかし、賢治が死に、新一門衆から死者と脱落者が出ると、旧臣らが勢力を盛り返してくる。このままでは、虎満丸の家督が危ぶまれるという処であった。これなら家中の不満は外に向く。


「これで、しばらくは孫七郎殿が雲州家の舵取り役として上手く立ち回れよう」

「……あくまで虎満丸様に当主となっていただく為の道筋に御座れば」

「分かっておる、分かっておる」


 骨までしゃぶり尽くすような、貪欲な光を目に宿した政長を見て、元俊は組む相手を間違えたのではないかと慄(おのの)いた。


 同じ頃、皮屋新五郎こと武野紹泡は大徳寺の古(こ)嶽(がく)宗(そう)亘(こう)から受戒して、法名を紹(じょう)鷗(おう)に改め、大黒庵にて細(ささ)やかな会を催した。


§


 一方、木沢長政の野心を危険視する畠山右(う)衛門督(えもんのかみ)義(よし)堯(たか)は、取り戻した高屋城に木沢長政を呼び付け、詰問の席を設けていた。


「左京亮、何故呼ばれたか分かるか?」

「はて、とんと見当が付きませぬ」


 抜け抜けと言ってみせた長政は、義堯に向けてにっこりと含みのある笑顔を返した。それを見た義堯はふてぶてしさに吐き気を催す。ぐっと飲み込んで、長政を睨め付けた。


「そなたは当家の内衆に相違ないな?」

「はい。木沢の家は両家とも御屋形様の直臣に御座います」


 何を今更という呆れ顔で答える。


「ならば、何故、六郎殿の御前衆に貴様の名があるのだっ」

「あぁ! そのことで御座いましたか」


 声では感嘆してみせる振りをして、表情には侮蔑の色を見せる。気がつくのが遅いと言わんばかりだ。その露骨な厚顔さに、義堯の怒りに火が点く。


「私が当家から暇を出されて居りました間、三友院(細川高国)様にお仕えしておりましたのは御屋形様もご承知のこと」


 義堯が口を開きかけた処に、長政が喋り出した。機を逸した義堯は黙ったまま先を促す。


「それは細川京兆家に仕えたのであり、三友院(細川高国)殿に仕えた訳では御座いませぬ。それ故、六郎様が細川の御屋形様となられると思い、私としましては馳せ参じた次第。その御屋形様より、金吾家に復帰してはどうか——とご仲介いただきましただけに御座いまする」


 詭(き)辯(べん)だった。個人では細川京兆家に仕え、家として畠山総州家に仕えるなどという話で謀(たばか)ろうというのか——と、怒声を浴びせた処で、長政には痛くも痒くもない。それ故、義堯は周聡から知らされた長政への補(ぶ)任(にん)を問題にした。


「では、何故、六郎殿がそなたを河内守護代に任じるのだ? 河内守護は我なるぞ!」

「それは……」


 今まで立て板に水の如く喋っていた長政が言葉を失った瞬間であった。その顔を見て、義堯は溜まっていた鬱憤が少し晴れた気がしている。だが、ここで手を緩めては長政に手を打たれてしまう虞(おそ)れがあった。


「故に、そちには謹慎を申し付ける」

「なんですと?」

「河内守護代を返上し、御前衆を辞するまで、蟄(ちっ)居(きょ)せよ」


 そこには畠山氏累代の国人らが集っており、木沢長政の行動に反感があるのは、目に見えていた。長政は、此処で抵抗することの無意味さを悟る。


「……分かり申した」

「追って沙汰する。飯盛山城にて待つように。その間、中務(木沢秀政)に引き継げ」

「ははーっ」


 長政には平伏する以外の選択肢が無かった。だが、長政はこれだけの事を仕出かして、悪(わる)怯(び)れることもない。中務は長政の弟で中務大輔盛政のことだ。


 遊佐(ゆさ)中務丞(なかつかさのじょう)英(ひで)盛(もり)が下がるように申し付けると、挨拶もせず無言で退出した。


「これで大人しくなりますかな」

「その時は筑前(三好元長)殿とともに攻め滅ぼすのみ」

「なれば、その際の先陣は某(それがし)に賜りたく」


 身を乗り出したのは、孫三郎家盛だ。長政に殺された伯父の恨みを、家中で最も忘れていない。それもその筈、彼の名は伯父から受け継いだものだった。


「焦るな孫三郎。何事も筑前(三好元長)殿と相談せねばならぬ」

「畏まりました」


 一先ず引き下がる家盛だったが、木沢長政は英盛の懸念通りとなる。蟄居謹慎するどころか、兵を整えて、六郎麾下の守護代としての活動を再開させたのだ。


 義堯は三好元長に連絡を取り、河内衆を率いて飯盛山城を包囲する。当然ながら六郎に正式に抗議をした上で、であった。


§


 五月十七日、畠山義堯が、飯盛山城を再攻囲した。義堯から取次を頼まれた元長は、六郎に直談判を図った。


「御屋形(細川六郎)様、右衛門督(畠山義堯)様より書状が来ております」

「……読め」

「左京亮(木沢長政)は畠山家中の者ゆえ、その処分に六郎様は口を挟まれぬよう願っておりまする」


 一瞬怒鳴り声を挙げそうになった六郎だったが、奏者の茨木長隆に首を振られて堪(こら)えた。


「……好きにせよ」

「また、某(それがし)にも合力を求めておりまするが」

「ええい、勝手にせよ!」 


 政長はその言葉に北叟(ほくそ)笑む。元長は六郎に対して筋を通した。だが、この方は筋など大事にしておらぬ——と分かるからこそ、取り入りやすい。


 元長は一先ず、下山城から叔父の山城守長(なが)基(もと)を遣わし、義堯に合流させた。自身も兵馬を整えて出陣の支度に取り掛かる。


 この間も細川六郎は表向き、義堯・元長の行動を黙認する形であった。しかし、木沢長政より救援を求める書状が届くと、態度を一転させ、元長に撤兵を促し始める。元長からすれば「勝手にせよ」と許しておいて兵を引かせようとするなど、木沢長政をのさばらせるだけと、反論した。


 しかし、六郎の解釈は違った。「勝手にせよ」と言ったら「三好元長が勝手に出兵した」という理窟である。お世辞に言っても屁理窟だった。


 元長が再三の撤兵を拒むと、茨木長隆の勧めもあり、本願寺に救援を求める書状を送った。


 そもそも茨木長隆が本願寺に親しい。それに加えて木沢長政も接近していた。


 この頃、本願寺の勢力は摂津の茨木や榎木、河内全域に広がっており、これと上手く付き合って行く農本主義の代表格が、畠山総州家では木沢長政、六郎麾下では、茨木長隆・三好政長である。これに対して三好元長は商工主義であり、掲げる政策の違いも対立の根柢(こんてい)にあった。


 六郎から木沢長政救援への協力を要請された本願寺は「単なる武家の騒乱でありながら宗門が参戦する」事態を了承した。これは、畿内における宗門の責任者であった蓮(れん)淳(じゅん)が、熱心な法華宗徒である商人や工人らを元長が保護したことを恨んでいたためと言われる。このことから百姓を主体とする浄土真宗の門徒は、元長に対し深い恨みを抱いていた。


「法主(ほっす)様、私は此処こそ正念場と存じます」

「願証寺(祖父上)、されど不介入の件は如何される」

「既に加賀で三友院(細川高国)殿の所領を奪っておりますれば、今更ではございませぬか」


 証如(しょうにょ)は抜け抜けと言ってのける蓮淳に驚いた。さらに蓮淳は続ける。


「それに嘘は申さずとも、民が自(おの)ずから立ち上がるように、仕向ければ良いのです」


 そして、紙と硯を持ってこさせ、檄文を認(したた)めた。


聴け、真宗の門徒よ。

正しき教えを崇めし者たちよ。

今、武家と商人が結託し、そなたたち民から米を奪い、買い叩き、戦に使い果たし、さらに税を搾り取ろうとしている。

その元凶は何処か、堺である。

では、その堺の庇護者は誰か、三好筑前である。

そして、皆々から税を取るのは誰か、畠山金吾である。

奴らは憎き法華の輩(ともがら)である。

三筑と畠金が手を結び、我らが友を攻めている。

これ、武門の争いに非ず。

河内を百姓の持ちたる国とすべき好機なり。

立てよ、門徒よ。

旗を掲げて門前に集え。


 書き終えて蓮淳は筆を置いた。証如が文机(ふづくえ)の上に広げられたままの巻紙を看る。


「これは詭辯(きべん)ではありませぬか……それに、河内の門徒が蜂起すれば、我らの手に余るのでは?」

「ご安心召されい。法主の命に従わぬ者らなど居りませぬ」

「ならば好いのですが……」


 こうして本願寺法主・証如の名で一向一揆を起こすよう、檄文が各地の末寺に配られていった。


 六月五日(7月7日)夜、証如を出陣させて大坂御坊に入れた。畿内における「浄土真宗と法華宗の最終決戦」と位置づけることで全畿内の門徒結集を促し、法主を旗頭にしてこの戦いを大きく盛り上げたのである。


§


 六月十日(7月12日)になると、元長が本妙寺に着陣する。既に一向一揆の集結が、野崎の慈眼寺に陣所を設けた義堯の耳に届いていた。直様、海雲の陣を訪れた義堯は、不穏な動きを伝える。


「何やら左京亮(木沢長政)が謀を巡らせて居るらしい」

「左京亮(木沢長政)……彼奴が本願寺と結んだと?」

「百姓如きは烏合の衆故、大したことは出来ぬであろうが、問題は六郎殿よ」


 海雲が頷く。全く同じ懸念を抱いていたからだ。今の段階で六郎に梯子を外されるのが海雲としても最も困る。


「紀伊入道(高畠周聡)殿がなんとかしてくださるとは思いまするが」

「だが、伊賀守(茨木長隆)が居る」


 茨木長隆は佞臣というのが二人の共通見解である。海雲としても、足許を掬うのは奴だと考えていた。


「何事もなければ好いのだが」

「早めに城を総攻めにしたい所ですが、この数では……」


 畠山義堯の本隊が五〇〇〇、三好海雲が三〇〇〇、遊佐英盛が田原口に二〇〇〇、忍岡に三好長基が二〇〇〇と遊佐家盛が一〇〇〇の総勢一万三〇〇〇で、飯盛山城を囲んでいる。


「兵粮(ひょうろう)が尽きるのを待つしかあるまい」

「左様ですな。こちらには皮屋に用意させた兵粮はたんとあります故、気長に待つとしましょう」


 海雲が皮屋新左衛門(武野紹晋)に集めさせた兵粮は、一万の兵を三ヶ月食わせても余る程、蓄えられていた。 


§


 それは突如として現れた。


 のちに三万とも十万とも言われる一向衆が、雲霞の如く黒い波となって押し寄せてくる。北からは下間備中守頼盛率いる山城・近江・北陸一揆勢、西からは下間周防守頼順率いる摂津・和泉一揆勢、南からは下間筑後守頼秀率いる河内一揆勢が襲いかかった。


 六月十五日(7月17日)、本願寺門徒の参戦で戦況は一変した。飯盛山城を攻めていた畠山義堯と援軍の三好長基は背後から一揆に襲われ、長基は討死、義堯は決死の突撃で包囲を脱し、辛うじて南河内に逃げ延びる。


 攻囲軍は潰滅し、遊佐英盛と家盛は潜伏して生き延びた。敗走した海雲も命からがら堺の顕本寺へ逃げ込む。


「堺も最早安全ではない、千熊たちを逃がせ!」

「殿は如何いたします」

「公方様を逃さねばならぬ」


 連盛は、海雲が決死の覚悟であることを悟った。それ故、命を果たすべく、千熊丸を探し廻る。た(・)ち(・)と言ったからには末の姫である稲も一緒に逃がせということだ。顕本寺の中を駆け巡る。


「千熊様、若様!」

「伊賀、如何した」

「此処は危のう御座います。山城守(三好長基)様も討死なさいました。されば、殿が阿波へ避難するように、と」


 千熊丸の顔に緊張が走る。


「末の姫様は?」

「稲(いね)は此処には居らぬ。鵆(ちどり)屋だが、今は動かせんな」

「何故にございますか」


 千熊丸は落ち着くように連盛をいなす。

 

「瘧(おこり)を患って、熱が上がったり引いたりしていてな。動かすのは命に関わる。父上はお報せしたのだが、行き違いか」

「では、若様だけでもお逃げください」

「使いの者を鵆屋へ、熱が下がったら稲を阿波に連れてくるように、と」


 瘧とは、間欠熱のことで、日本では「童(わらわ)病み」とも言って子供が罹りやすい病気だった。


 そして六月十六日(7月18日)、千熊丸は堺を一時的に離れる。だが、それが父との永遠の別れとなった。


§


 木沢長政は危地を脱し、本来は此処で一揆は解散の筈であった。ここから、一揆勢は下間頼秀・頼盛・頼順らの手を離れ、暴走を始める。


「仏敵畠金を殺せ!」


 一揆勢は日々数を増やし、義堯を追って南河内へ進撃した。六月十七日(7月19日)、畠山義堯は挙兵には加わらなかった本願寺の石川道場に逃げ込んだものの、衆寡敵せず、自刃して果てる。


「仏敵三筑を殺せ!」


 六月十八日(7月20日)には堺を囲んだ。この時、始めは三万程であった軍勢がいつの間にか十万に膨れ上がっている。既に指導者も居らず、土豪どもの寄合所帯に過ぎずとも、数は力だった。


「誰と交渉すればよいか」


 海雲は堺の街を火の海にせぬために、一揆勢の交渉役を探した。だが、既に指導者もなく、皆が行くから己も征くという集団になっている。


 交渉を断念した海雲は堺公方・足利義維を逃がすのが、精一杯だった。海雲とてこの裏で誰が糸を引いていたかなど、調べずとも感じていた。


 そして六月二十日(7月22日)、一揆勢が堺の堀を越えて堺に攻め入った。十重二十重に顕本寺を取り囲む。


「御屋形様は、然程に筑前が死をお求めかっ」


 主君から見限られた上に、勝ち戦を敗北に貶められた元長は自害して果てた。享年丗二歳。その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物(はらわた)を天井に投げつけるという壮絶さで、顕本寺には消えぬ血の跡が残ったという。


 六郎はこのどさくさに紛れ、足利義維を捕縛。阿波へ送り返し、幽閉するよう舎弟・彦九郎に申し伝えた。海雲の死に、彦九郎は涙したと言われる。これにより堺幕府は幕を下ろした。


 だが、一向一揆は、法華宗の庇護者たる「仏敵」三好元長との戦いが終わっても解散しなかった。いや、指導者を欠いた烏合の衆は解散できなかったのである。この中で、法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする門徒の声は、証如や蓮淳による制止命令をも聞かず、暴走をしていった。


 そして、大和に雪崩込んだ。

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