第丗三服 和民拠起
和の民は拠りて起つ
おほけなく 憂き世の民に おほふかな
わが立つ杣に 墨染の袖
『千載和歌集』 慈円
証如は怒っていた。
飯盛山城を救ったあと、南河内の一揆勢は下間民部少輔頼盛の制止を振り切り、そのまま畠山右衛門督義堯を討った。下間筑前守頼秀を置き去りにした摂津・和泉の一揆勢は、堺に押し掛けて三好筑前入道海雲を討った。どちらも未だに、数万の軍勢を保っている。
事態の収拾を求める細川六郎からの使者は、既に幾度も大坂道場を訪れていた。
「だから危ういと申したではないか」
叱責する証如の声が大坂道場に響き渡る。御前には願証寺蓮淳ほか、下間兄弟ら坊官衆が並んでいた。
「申し訳ございません」
「抑えきれなかった我ら坊官の責任にございます」
蓮淳と下間兄弟が伏して赦しを乞うた。他の坊官たちもそれに従い、和して誦す。証如は怒りを堪えて問い質した。
「それで、今、蜂起した者たちはどの辺りにいるのだ?」
「堺に向かった者たちは浅香道場におりますが、筒井勢を追った者たちは久宝寺に、残りは石川道場のようです」
証如は一揆勢へ再三解散を命じているが、最早命令を聴かない事態に陥っている。一揆勢の中で組織化が進み、指導者が現れているようだった。
「実孝に使いを出しましょう。飯貝御坊の門徒が決起しなければ、興福寺には暴徒の乱入ということで言い訳も出来ましょう」
「飯貝だけでよいのか?」
「無論、下市御坊にも使いを出すべきです」
証如の懸念に蓮淳が応じた。すかさず、下間頼秀を本善寺に、頼盛を願行寺に派することを決める。下市と飯貝には一向宗の門徒が多く、興福寺や東大寺の支配下にある人々にもその信仰は浸透していた。一揆勢が大和に乗り入れれば、共に蜂起する可能性がある。
「では……」
「うむ。筑前は、実孝の下で飯貝門徒が一揆に合流せぬよう動くのだ。民部は勝慧を助けて、静謐を守れ」
「ははっ」
下間頼秀・頼盛の兄弟が大和へと向かう。だが、事態は既に進んでいた。享禄五年七月十日には、橘屋主殿允豊冬、雁金屋民部丞国之、蔵屋兵衛尉正共らが蜂起したのである。
この蜂起は、飯盛山城の戦いと堺の戦いに一揆勢が勝ったことで、南都の門徒が呼応したものであった。興福寺の寺社社会の末端を支える職人・商人にも一向宗が浸透しており、外から来た一揆だけではなく、奈良社会の内部——興福寺や東大寺の末端である公人たちから一揆が噴き出したこのである。公人とは、寺社の支配機構に組み込まれ、実務を担った下級職員層のことで、大和では工人や商人がこれに任じられていた。奈良の一揆勢が、興福寺門徒との戦闘となると、興福寺方が良く防いだものの、六日間に及ぶ防戦で寺院・坊舎にも被害が及んだ。
この奈良蜂起は、一宗独裁への反撥と憎悪が公人らに長年蓄積していたことを示している。だが、貨幣経済の発達とともに財を蓄えた工人・商人らが、公然と鎌倉以来の支配に抗らい、その体制を揺らがし始めたのである。
奈良の一向一揆は当初、然程大きくなかったが、これに久宝寺に留まっていた中河内の一揆勢が呼応し、生駒山を越えて大和郡山に侵入した。七月十五日、中河内の一揆勢は筒井城を襲ったのである。筒井勢は奈良一揆の蜂起で警戒を強めていたため、これを迎撃。一揆勢は敵わぬとみて南都へ向かった。
この頃から、一揆勢の中に指導者的な者たちが現れる。中河内勢を率いたのは、奥村玄蕃允貞宗・鵲屋又七郎円状らで、雁金屋ら奈良三人衆と合流し、四〇〇〇〇の勢力と化して南都を焼いた。そして遂に、七月十六日、興福寺・東大寺方が防戦しきれずに、菩提院方の恵心院・阿弥陀院が焼け落ちる。僧侶・坊官は悉く逃げ出した。
七月十七日には大乗院へ押し寄せ、興福寺勢に押し返されたが、火災が拡大。これにより、東北院をはじめ、子院・院家・僧坊多数が焼亡。一方で、主要伽藍・一乗院・大乗院・院家十七坊は残った。また春日社にも被害が及び、宝蔵等を破壊・掠奪されている。
その後、一揆勢は再度、筒井城を攻める。しかし、これも筒井勢の健闘によって落としきれず、南へと退いた。
筒井城の大広間では、筒井良舜坊順興が成身院随舜坊光就、秋篠伝左衛門尉春藤らと一揆への対応を協議していた。
「伝左衛門、一揆共はどうだ」
「はっ。十市城を攻めております」
「ならば、追い打ちを掛けてはどうだ? 良舜坊」
光就が攻め気を昂ぶらせて順興に欲を見せる。ここで一揆勢の数を減らせるだけ減らした方が、鎮圧に一歩でも近づくのは確かだった。
「伝左衛門は如何程兵を出せるか」
「少なくとも一〇〇〇、時をいただければ三〇〇〇は」
「此処は時を掛けられぬ、一〇〇〇でよい」
今は一刻も早く一揆勢を追撃する態勢を整えるべきである。それを察したのか、光就が出せるだけの手勢を示した。
「儂は三〇〇〇はじゃな」
「私もすぐ出せるのは三〇〇〇ほどですが、追撃です。多すぎても良くはない」
追撃戦は速さが命であり、多勢の一揆勢に切り込まなければならないため、数だよりの民兵は当てに出来ない。筒井の精兵を連れて行かざるを得なかった。光就の云う三〇〇〇は民兵が混ざっている。ここは一〇〇〇ほどが妥当か、と順興は思案した。
「では、直ぐに兵を出しましょう。総大将は私でよろしいか」
「当たり前だ。お主が筒井の当主よ」
「辺りの国民にも声を掛けておきます」
こうして、筒井党は敗走した一揆の追撃に入った。集まったのは総勢六千。燃やされた興福寺の恨みを晴らすとばかりに、兵たちの士気は高い。
追撃を始めた筒井勢に十市城の十市左衛門尉遠忠から救援を求める使者が送られて来た。使者は五大院源了である。五大院源了は十市遠忠の弟で、興福寺五大院の院主であるが、焼き討ちによって十市城に避難していた。
「筒井殿、城は既に囲まれています。至急、兄の救援を」
「五大院殿、慌てるでないぞ。良舜坊とて節穴ではないからの。一揆の行く先など見えておる」
「従兄上、そう持ち上げずとも宜しゅうございますよ。五大院殿、承った。其処許も同行なされよ」
承諾した順興らは足を早めて十市城へと急いだ。筒井城から十市城は半日の距離にある。急げば、一揆勢の後背から襲い掛かることができるはずだ。
十市城は寺川から岐れた小川沿いにあり、川を北にして南に川の水を引いた濠を巡らした城砦で、東西に門を持つ構造であった。濠内の南側に寺院や城下が広がり、川に近い北側に城がある。一揆勢はこの西門から南にぐるりと取り囲むように広がっていたが、東口には一族の楢原三郎左衛門尉政遠が兵を置いているため、此処には近づいていない。
「よし、西口から追い落とせ!」
「放てーーーー!」
筒井勢が西口に集っていた一揆勢を背後から襲い始める。鯨波に驚いた一揆勢が南側へ殺到したところへ、楢原政遠と十市遠忠の軍勢が突入した。
呼応した十市遠忠は、散々に一揆を打ち倒し、一揆勢は南へと敗走する。その先には越智氏の高取城があった。一日ほどの距離である。しかし、筒井勢と十市勢は、市内の鎮火と後始末に追われたのである。
この事態を受けて、七月廿三日、幕府は本満寺をはじめとする日蓮宗諸寺へ軍勢催促を通達した。これは堺の細川六郎からの働き掛けであり、堺方と幕府——足利義晴の結託が摸索され始めていることが分かる。
法華衆はこれに応じ、本国寺を集結場所として洛中防衛のため武装を始めた。山科本願寺側はこれを危険視し、法華衆を先に潰そうとする動きを見せるが、実力行使には至っていない。このため、両者は本格的な武力抗争をしてはいなかったが、京の空気は不穏になっていた。しかし、山科本願寺に敵視された法華衆は、洛中に不在の幕府ではなく、堺方の応援を頼ったのである。
七月三十日。一揆勢が高取城を包囲。城には越智氏一族の越智玄蕃頭利之が籠もる。利之は城を支えながら使者を送り、細川六郎の救援を求めた。
一方、堺が再び一揆勢に包囲された。八月二日のことである。木沢左京亮長政、三好神五郎政長、茨木伊賀守長隆らが一向一揆勢と戦い、これを撃退した。敗れた一揆勢は再び大坂道場周辺へと逃れている。この頃から、堺方面の一揆勢にも指導者らしき者が出始めていた。その一人が、河内の有徳人で寿垣屋惣右衛門前友という。有徳人とは、中世に於いて徳のある人物ではなく、「徳=得」つまり商業などによって財を蓄えた富裕者をいう。
寿垣屋は全軍を掌握している訳ではなかった。だが、纏まりを見せる集団に付いて行きたくなるのは人の常。徐々に集団を大きくしていた。
六郎は一揆勢に激怒して証如に詰問状を送り付けた。同日、証如は六郎へ恭順の意を示す書状を送り、その中で一揆勢が法主の命令を聞かないことを訴える。一方、六郎側でも茨木長隆が有力寺院へ一向一揆を警戒するよう奉書を発給した。この時点では、本願寺と堺方はまだ決裂しておらず、双方が一揆勢を危険視して収拾を図っている。
「このまま睨み合ってばかりでは、埒が明かぬぞ?」
怒気を孕んだ声が落ちる。そこには高畠紀伊入道周聡を始めとする御前三人衆と、三好政長の姿があった。薬師寺九郎左衛門尉国長も顔を見せている。
「只今、飯盛山や高屋から兵を集めておりますれば、今しばらく、今しばらくお待ちくだされ」
畠山義堯が討死したことで、河内の守護代を独占した木沢長政が、必死で六郎を宥める。現在、飯盛山城・高屋城近郷から兵を掻き集め、堺に送らせていた。
「そうは言っても、一部は摂津に雪崩込んだと聞く」
「大物道場の者共も不穏な動きをしているとか」
三好海雲の抜けた穴を埋めるかのように権力を手に入れつつある木沢長政に、それを望まぬ政長と長隆からさらに不利な情報が突き付けられた。額に掻いた大汗を、手拭いに吸わせた長政が平伏する。といっても、政長と長隆に長政を追い落とす意志はなかった。単なる牽制に過ぎない。
「あちらは池田殿と伊丹殿が居られる」
二人が図に乗って不安を煽るのを見かねて、周聡が口を挟む。大物道場の一揆勢の総数はまだ分からぬが、摂津に向かった一揆勢三〇〇〇と合流したとて、伊丹・池田城を落とすのは難しいと考えられたからだ。それでなくとも六郎は不安定である。対策を伴わぬ不穏な情報だけを言ってもらいたくはなかった。
「兎に角、北河内衆の集結を急ぐのだ。阿波衆の居らぬ今、兵が足りぬ」
周聡は木沢長政にそう言い渡して、評定を解散する。三好海雲の死は、讃州家当主・細川彦九郎氏之を怒らせ、阿波衆の撤退という事態を招いていた。兄弟が啀み合うという訳ではないが、主力であった兵力——しかも、精鋭が抜けた穴は大きい。六郎は単純で、木沢長政の河内衆で埋まると思って居るが、あの武勇と智略の代わりは居ないのだ。
「惜しい男であった……」
六郎らが居なくなった本堂で、周聡は独り言ちて、黄昏れる。仰ぎみる視線の先には、海雲が腸を投げつけた天井があった。これからあの強欲な三人と一人で渡り合って行かねばならぬと思うと、どっと疲れを感じて、溜息が出る。拭ききれず残ってくすんだ血の痕に、海雲の無念が宿って居るかのようだった。
そして、八月四日。木沢長政の呼び寄せた北河内衆と一向一揆勢が街道沿いで揉め、木沢方に死者が出た。長政は報復として即座に兵を出して、浅香道場に攻め込み、道場に火を放つと、近郷も焼く。堺の一揆勢は大坂道場へと逃れた。
京では山村新兵衛尉正次が本国寺に集った法華衆を率いて、東山で打廻をした。山村正次は、柳本甚次郎元次の筆頭家老であった柳本彦七郎次安の弟・源七郎治久と近い家臣である。六郎は治久を通じて正次に命じて、法華衆と合力することで、洛中支配を維持しようと図った。打廻とは、武装勢力による市中巡回をいい、示威行為によって山科本願寺を牽制する目的である。洛中洛外の緊張も高まっていた。
八月五日になると、三度一揆勢が堺を包囲する。同日、摂津では懸念通り、大物道場の門徒らが池田筑後守信正の池田城を包囲していた。しかしそこに「堺へ集結せよ」との号が届く。彼らは池田方と和睦して包囲を解き、堺へ向かった。法主の命には従わない一揆勢が、堺の一揆勢からの命に従って動いており、そこに新たな組織化が伺えたのである。
「左京亮! 奴らを追い払ったのではなかったのか? 直ちに討ち滅ぼして参れ!」
再び怒りを爆発させた六郎は、長政に一揆掃討を命じた。木沢長政は堺に集結した寺社勢力や河内の農民・堺の傭兵からなる混成軍を率いて出撃、一揆勢を破る。敗れた一揆勢は大坂方面へ逃走するも、長政は追撃を続け、天王寺付近でもこれを破る。一揆勢は大坂道場へ後退した。だが、戻った長政を待っていたのは、六郎からの労いの言葉ではなく、高取城への派兵の命令だった。
「左京亮、直ちに大和高取城の救援に赴け」
「なんですと?」
「なんだ、異論があるのか?」
長政は厭な顔をした。だが、六郎は意に介さず、救援を求める書状を投げつける。周聡がなんとか、とりなして、長政を送り出したが、六郎の仕え難さは年々増すばかりであった。
——これに三筑は耐えて居たのか。
流石の長政も海雲の忍耐に思いを馳せた。
八月七日になると、在京の山村正次が再び打廻を行った。このときは法華衆だけでなく柳本勢も加わっている。町衆だけでなく、明らかに堺方の警戒心が高まって、合流した形であった。
八月八日、軍勢を再編した堺方が大坂道場へ軍勢を送った。しかし五日に堺・天王寺で敗れて大坂方面へ後退していた一揆勢がこれを迎え撃ち、三好政長の軍勢は破れて撤退する。この戦いに於いて、本願寺は一揆勢と連合し、下間刑部大夫頼包を指揮官として派遣した。しかし、頼包は乱戦の中討ち死にし、三好政長は大いに面目を施した。この日を境に、本願寺と堺方は敵対していくことになる。
越智利之は善戦していた。一揆勢を高取城へ引きつけたまま、城の攻防は一進一退が続く。
高取城は北を峻険な峰に守られ、高取山の尾根を利用して築かれた山城であった。本丸に先代当主・越智大学助利元、東曲輪に従弟の小治郎利祐。西曲輪には鳥屋三郎左衛門尉元良、南曲輪は二つに分かれていて、東側には家老の弓場志摩守元之、西側には島屋五郎右衛門尉元孝を配した。
「十日だ。十日保たせれば、細川様の援軍が来るぞ!」
利之自身は手勢を遊兵として、押されたところに援軍として出る形だ。九日間の包囲にも耐え、一揆勢を城下へ引きつけ、ともすれば逆撃を加え、休息する暇を与えず、疲労させている。
そして、八月九日、筒井順興勢、十市遠忠勢、木沢長政勢の連合軍が高取山の山麓に現れた。襤褸を着て、雲霞の如く群がる一揆勢の後背に、鎧を着け、槍を握った精鋭が陣を張る。軍勢の出現に、一揆勢が動揺したのが看て取れた。
「打って出るぞ!」
すかさず越智利之は動ける者全てを率いて、南曲輪の西口から駆け出す。及び腰になった一揆勢など、物の数ではなかったが、その戦い方は、追い立てるといった方が正しかった。
「以逸待労か。玄蕃奴、上手く我らを使いおったな」
光就は越智勢の戦い振りを指差して、本陣で笑って順興に言ってのけた。この度の救援は細川氏主体であり、主戦場は木沢長政が請け負っている。光就としては高みの見物であった。
越智利之は疲弊した一揆勢を城外へ押し出し、木沢の陣へぶつけた。主力として戦う木沢勢が一揆勢を打ち破り、筒井・十市の手勢もこれを討つ。越智勢に追い立てられた一揆勢は木沢勢の槍衾へと突き落とされ、大敗した。
そして、引き上げた筒井順興は、一宇も残すことなく一揆勢の奈良の根拠を焼き払って、見せしめとした。
翌八月十日、京の状況を懸念した証如によって蓮淳が山科本願寺に移る。法華衆の打廻に六郎方の柳本勢が参加したことを重視し、また、再び門徒が暴走して幕府方と事を構えては、本願寺が窮地に陥ると考えたからであった。
敗残の一揆勢は吉野方面へ逃走し、本善寺周辺へ落ちていった。その殿を務めたのは、橘屋で、木沢勢の執拗な追撃を受けて数を減らしながらも、仲間を逃しきる。
「主殿殿! ご無事であられたか」
「民部殿も、兵衛殿も」
「何を言うか、全てお主のお陰よ」
傍らには蔵屋正共もいる。誰も彼もが満身創痍で、意気銷沈していた。九日も囲んでいたのに、たった一日で戦局をひっくり返されたのだ。一揆勢に「侍には勝てぬ」という空気が流れている。
「このまま数を減らされて殺されるのを待つのか」
「そうはさせぬ。同じことをしていたのでは、侍どもに屠られて終わる。だから次は数の有利を上手く使えば良い。既に石川道場には使いを出した」
「民部殿には何か策がお有りか」
辺りを探して枝を拾うと、雁金屋は地面に図を描き始めた。飯貝の本善寺、倶尸羅の専念寺を丸で記し、高取山、葛城山を山形になぞる。
「高取に出れば、捕まるか殺される。今は特に厳しく取り締まっているだろうから、そこを避けて、こう行く」
「なるほど」
「兵衛殿は先に行って兵粮や武具の手配を頼む。ワシと主殿殿で手分けして飯貝の者らを決起さす」
雁金屋が蔵屋の肩を叩き、橘屋が大きく頷く。こうして三人の方針に従った一揆勢は本善寺で休むと、少しづつ姿を消し、その動きは杳として掴めなくなった。
「あとは、どう焚き付けるかだな」
「それは願了様に頑張っていただくさ」
願了とは僧形の在家信者であるが、説法が上手い男で、中市では無寺和尚とあだ名されていた。人徳があり、誰にでも好かれる性格で、雁金屋も何くれなく面倒をみている一人である。その願了の説法がここで活きた。門徒らの心に再び火を灯したのである。
三々五々、小さな集団となって飯貝から吉野川沿いを西へ下り、六田からさらに西へ抜けた。高取へ通じる峠道を避け、車坂を越えて葛城山の麓へ入り、倶尸羅の専念寺を目指す。これに、菅原掃部允英真や門蔵与五入道円覚・鈍覚父子率いる南河内の一揆勢が加わる。
だが、次第に専念寺に人が集まり、兵粮やら武具になりそうな物が運び込まれるようになると、貝吹山城主・越智民部少輔家頼の耳に入った。家頼は一族の利之に報せると同時に先だって高取救援に力を貸してくれた十市遠忠と筒井順興へ早馬を送る。八月十八日のことだった。
八月廿三日、再び四〇〇〇〇にも膨れ上がった一揆勢は、専念寺を出て吐田庄へと進軍した。その前方には、筒井順興を総大将とする大和国民連合が待ち受けていた。
雁金屋は軍略を知っている訳ではないし、一揆勢も高度な策戦に対応出来る訳でもない。だから、数に任せて敵を叩くしかないと一気に襲いかかった。ここに大和一揆最後の戦いが始まる。
いざ戦が始まると、一揆勢は国民連合が思うよりもしぶとかった。
進者極楽浄土
退者無間地獄
一揆勢はこの二つの句を幟に書き、それを先頭に押し立てて、口々に唱えて進んでくる。死を恐れぬ人間が兵としては一番厄介で、その上、数の差は実に五倍であった。圧している——と、雁金屋が喜んだその時。
「敵だーーー!」
後背から越智家頼と利之の両越智勢が一揆勢に襲いかかったのである。中央の中河内勢が崩れた。それが決定打となって一揆は敗北し、門徒数百人が討死する。
捕らえられ、生き残った者の中から一揆勢の頭たちが捕らえられる。咎人とされた彼らは興福寺に引き渡された。奥村貞宗、雁金屋国之、菅原英真、願了、鵲屋円状、門蔵円覚・鈍覚父子、室院埜新九郎願成、油屋与七郎宗伴、高間賢丞らが梟首された。彼らは武将ではなかったが、門徒集団を率いていたとされ、見せしめになったのである。
興福寺の刑場には数百の屍と梟首された者たちの骸が並び、その向こうには、火は消えたものの焼け落ち、更地に消炭となって崩れた柱などが散乱している。隣接した街にも被害は出ており、大和一向一揆の勢いを物語っていた。
同日の八月廿三日、京では法華衆と六角定頼の軍勢が山科本願寺を取り囲み始めていた。




