第丗一服 進者極楽
進ま者極楽
一念に帰命の花の開きでは
あなたまかせの身にぞありける
『蓮如上人いろは歌』
堺の街を十重二十重と囲む、襤褸を着た農民や窶れた鎧を纏った土豪等が、麻布に殴り書きされた文言を口遊みながら、押し寄せていた。
進者極楽浄土
退者無間地獄
彼らは一向にこの標語を唱え、仏敵・三好筑前守元長を倒すために、死を恐れず進み続けていた。その数、十万にも及ぶ大集団である。
何故、こんなことになったのか――顕本寺に逃げ込んだ元長は、独り天を仰いだ。
時を遡ること二年。事の始まりは大物崩れの少し前、細川武蔵入道常恒と三好筑前守元長が中嶋で睨み合いを続けていた享禄四年閏五月九日のことであった。
加賀では、若松本泉寺の蓮悟、波佐谷松岡寺の蓮綱、山田光教寺の顕誓ら、三寺の門主が談合を開いていた。加賀の一向宗本願寺派はこの三寺が束ねている。
議題は塔尾超勝寺の処分だ。「三法令」や「一門一家制」に背いた超勝寺を、捨て置くわけにはいかない。三寺にとって、それは加賀における宗門の秩序を守るための処断であった。
「ここで許せば、法度は法度でなくなります」
「されど、門徒に門徒を討たせることになるでな。それに、一度門徒を立たせれば、どこまで広がるか分からぬ」
「兄上、だからといってこのままというのも。追随する者が現れれば、厄介なことに」
若い顕誓が強硬論を唱えるも、年長の蓮綱が慎重論で抑える。現実論を推すのが蓮悟だ。一度門徒が蜂起すれば、如何に連枝の蓮綱らとて、制禦しきれるものではない。
三人は何れも連枝衆である。蓮綱と蓮悟は第八代宗主・信證院蓮如の三子と七子で、顕誓は蓮如の四子・蓮誓の三子だ。
「それもそうよな」
「大隅殿も後押ししてくださいますし」
顕誓が喰い下がる。大隅殿とは、能登守護・畠山匠作家の分家・羽咋郡西谷内城の主で、畠山大隅守家俊のことだ。家俊の双子の姉が蓮如の最後の妻・蓮能であったことから、石川郡剣村の清沢坊願徳寺で住職をしている姪の実悟を支援している。
「金吾入道殿も越前より兵を出してくださるとか」
顕誓の言葉に蓮綱が渋い顔をする。対立することとなったとはいえ、超勝寺も本覚寺も同じ本願寺派の門徒であり、三十年前に越前からこれらを逐ったのが朝倉金吾入道宗滴その人であった。宗滴は文化人であり茶の湯・和歌などに通じており、連歌を好む家俊と交流がある。
「やむを得ぬか」
「では、決まりですな」
「相分かった。触れを出そう」
こうして、超勝寺討伐が決せられた。
触れが出されると、三ヶ寺に従う寺院や道場、門徒らが動き始めた。
ここで加州こと加賀国について触れておく。
加賀国は現在の石川県南部のことで、元々は越前国の一部であった。嵯峨院の御世、弘仁十四年、越前国から江沼郡と加賀郡を割いて、律令制最後の国として設置されている。
越前守紀末成による建白では、「同国の加賀郡は国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も困難である」との理由が挙げられ、これが承認されたのだ。
国力等級は上国、距離等級は中国とされ、課丁と田の数も多い。後世の太閤検地では三五万五五七〇石とされた国である。四郡三十郷を有し、河北郡、石川郡、能美郡、江沼郡から成っていた。
それだけの国で、守護以上ともいうべき力を持つようになったのが、本願寺の門徒と一門寺院である。これは、南北に分割された加賀守護職の内、北加賀守護職に赤松氏が補され、半国守護となったにも関わらず、応仁の乱で赤松氏が与する東軍に属した富樫加賀介政親に対し、赤松支配を好しとしない富樫家中に担がれた異母弟・小次郎親春が西軍に加担した兄弟の争いが原因であった。
親春は同母妹が専修寺住持に嫁している関係から一向宗高田派の支持を受け、越前守護代の甲斐八郎敏光と結び、政親を逐って当主となる。逐われた政親は本願寺派と結び、加賀国内の国人の支持を得て親春を追放し、当主を奪回した。しかし、その後は本願寺派の勢力に脅威を覚え、本願寺派の門徒とそれに繋がる国人を統制しようとしたため、一向一揆を引き起こす。一揆勢は富樫小三郎泰高を擁立し、高尾城に籠もる政親を討ち亡ぼした。
以来、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれて久しい。
これを危険視した九代公方・足利義尚が討伐を企てたこともあったが、細川右京大夫政元が諫めて取り止めとなったことから、本願寺は体制そのものに反抗する勢力ではないと見做されるようになった。
細川政元の勧めもあり、本願寺側も名目上は富樫泰高を戴いて、一揆の自治によって国を治めるようになった。現在は、その孫である次郎稙泰が加賀守護の地位にある。実権がないとはいえど守護であった。その存在は、一揆が国を治めるための御輿として、本願寺派の寺院には重要な存在である。
その加賀に点在する本願寺派の寺院のうち、特に大きな力を持ったのが加州三ヶ寺である。
若松本泉寺は河北郡にあり、蓮如の子・蓮悟らが継承。
波佐谷松岡寺は能美郡にあり、蓮如の子・蓮綱が創建。
山田光教寺は江沼郡にあり、蓮如の子・蓮誓が創建し、顕誓が継承。
それは三つの寺というより、巨大な在地権力網を形作る核である。それ故に、蓮悟・蓮綱・顕誓の三人は早期解決がなされると考えた。
ところが、加州三ヶ寺の見込みは外れた。
超勝寺は、先の一件から三ヶ寺に恨みを抱く和田本覚寺蓮恵の救援を受けた。先の一件とは、永正十五年に三法令で越前への自力帰還が不可能となった蓮恵が、蓮悟に不満を申し立て相論となり、蓮恵は一時、破門処分を申し付けられた件である。
三法令とは
・武装、合戦の禁止
・派閥、徒党の禁止
・年貢不払いの禁止
の三つを言う。
武装合戦の禁止は門徒同士や他勢力——特に武家との戦いや武装を禁じた。派閥徒党の禁止は宗門内の勝手な徒党や派閥の形成を禁じている。年貢不払いの禁止は領主に対する年貢の未納や不払いを禁じた。
「本泉寺殿、話が違うではないか」
「三法令は法主殿のお決めになられたこと故、これに背く訳には参らぬ」
「ならば、何故破門まで」
「本覚寺殿、そこまでになさいませ。何れお赦しが出ましょう。一時の辛抱ですぞ」
激昂した蓮恵は脇息を殴りつけた。大仰に驚いた振りをする蓮悟と蓮綱。蓮誓はその態度に呆れていた。この後、蓮誓は実如・蓮淳ら本願寺中枢とともに一家一門制を強化していく。
のちに西光寺の執り成しによって赦免されたものの、蓮恵はこのことを恨みに思っていた。西光寺は越前国丹生郡石田荘の古刹で、本願寺第七世・存如の布教に伴い、本願寺第六世・巧如の曾孫である永存が宝徳三年、石田荘に道場を開いたのが始まりで、准連枝格として越前の布教の中心的役割を担っている。
大永五年に実如が歿して、新法主の後見人となった願証寺蓮淳が本願寺派を支えることになる。大永七年、細川六郎から北陸の細川高国方の荘園の占拠を要請された蓮淳は、これを女婿の実顕に命じ、下間筑前守頼秀・民部少輔頼盛兄弟と共に荘園の横領を行わせた。加賀三ヶ寺に圧迫されていた実顕と本覚寺蓮恵は、代官を勝手に寺の門徒に交代させる。加州三ヶ寺はこれに反発した。
本願寺派は元々細川政元と組んでいたが、京兆家を嗣いだ細川高国は京の町衆と結び法華宗を保護した。一向宗と法華宗は、教義の排他性と京都を中心とする勢力圏の競合をめぐり、水面下で根深い不信感と潜在的な対立関係にある。このため、高国と対立する澄元に味方した。それ故、澄元の子である六郎とも結託していたのである。
「岳父殿は法主の後見ぞ。その意嚮に歯向かうなど、法主に叛するも同じではないか。しかも命は法主の御名に於いて出ている。違うか、本覚寺殿」
「そのとおりじゃ、超勝寺殿。しかも、其奴らが今我らを武力でねじ伏せようとしておる。儂を三法令を理由に破門にしておいてぞ」
「ご両人、先ずは後見殿に、書状にてご報告致そう」
「それがよい」
実顕と蓮恵は門徒に檄を飛ばした。超勝寺と本覚寺は、その権威を背景に北陸各地にいる両寺の門徒を蜂起させたのである。
加州の秩序を守るための処分として始まったはずの争いは、たちまち一向一揆同士の戦へと姿を変えた。ここで、加州三ヶ寺は思わぬ苦戦を強いられることとなる。
事態を受け、超勝寺に居た下間頼秀は急遽、山科本願寺へ戻った。
この時の本願寺法主は、信受院証如――本願寺派第十代宗主である。とはいうものの、証如はまだ十六歳の若さであった。
「法主様、事態はかなり深刻になっております」
「……願証寺、如何すれば良いか」
少年の高い声が蓮淳を呼ぶ。実際に宗門を取り仕切っていたのは、先代宗主・教恩院実如の弟で、証如の母方の祖父にあたる蓮淳だ。蓮淳は蓮如の第十一子で、この頃は願証寺を号している。
「連枝衆が一向衆に煽られでもしたのでしょうか」
蓮淳は独り言ちた。
浄土真宗は俗に一向宗とも云われるが、本来は別の宗派である。一向宗は浄土宗の僧・一向俊聖が創めたもので正式な宗派名だ。同時期に一遍房智真が興した時宗が、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向宗はこれと混同されていく。
これとは別に法然・親鸞を祖とするのが浄土真宗である。浄土真宗は本願寺を本山としたが、巨大な権力を持つ比叡山延暦寺などの弾圧から身を守るため、天台宗青蓮院門跡の末寺となり存続した。宗主は覚如――親鸞の末娘である覚信尼の子・覚恵の長男――から始まり、代々血脈によって受け継がれる。これが本願寺派だ。
本願寺派が成立した後、蓮如が独立を画策し、北陸で爆発的な布教で信徒を獲得。これが一向宗と融合して「一向衆」と呼ばれる集団化していく。これ以後、浄土真宗は他者から一向宗と呼ばれるようになる。信徒の急増と青蓮院門跡が空位であることから、朝廷工作を行い門跡宣下の獲得を目指した。大永元年、青蓮院准門跡に実如が任ぜられたが、大永五年に歿し、証如は今はその途上にある。門跡の位を得るのは本願寺派の悲願であった。
故に、高まった法主の権威を、蓮淳は守らねばならなかった。
「一向衆は三ヶ寺に従っております」
「となると、三ヶ寺の連枝衆が扇動しておるということか」
「いえ、そうとも言えませぬが」
頼秀の報告を聞いた蓮淳にとって問題だったのは、単に超勝寺と加州三ヶ寺のどちらに理があるかではなかった。超勝寺実顕の行為は、法主の命に従ったものである。ならば、その実顕を討つということは何を意味するのかを三ヶ寺が理解していないことだった。
「では、何故実顕らを襲うのだ」
「左様ですな。法主の命に従うた者を、誰の許しを得て討つというのだ」
「連枝衆を討つことになりますが」
加州三ヶ寺も蓮如の血を引く連枝衆だ。そこには蓮淳自身の兄弟や甥たちもいる。頼秀の懸念は尤もだ。だが、連枝の判断が法主の命より上に立つことを認めれば、本願寺という宗門そのものの秩序が崩れる。
蓮淳が守るのは、外孫である証如個人ではない。法主の権威であった。
実顕の行為は、あくまでも法主の代行者たる蓮淳の命令に従ったものであり、その命に逆らう者は法主への反逆である――そう見定めた蓮淳は、証如の名で超勝寺と各地の末寺・門徒に対し、加州三ヶ寺の討伐を命じる。
「よい。連枝の権威が法主の命を覆してはならぬ。民部少輔と共に、超勝寺らを支えて欲しい」
「畏まりました」
「願証寺よ、それでよいか」
「はっ。血縁とはいえ、法主こそ大事にございますれば」
この時を以て、加賀の一門寺院同士の争いであったものが、法主を頂点とする本願寺全体の内訌へと変わったのである。
六月には東海地方・畿内の門徒が山科に結集して、実如の子である明淳寺実円が超勝寺方として出陣、飛騨では本願寺門徒として知られた内ヶ島上野介雅氏の支援も加わった。法主の命は寺から寺へ、道場から道場へと伝わり、それぞれの土地で門徒を動かしてゆく。
一方、加州三ヶ寺側にも味方がいた。加賀守護・富樫稙泰は、三ヶ寺を中心とする従来の加賀支配体制に擁立されながらも独自の勢力を築いており、協力関係にあったことから、これに参加。畠山家俊は能登守護・畠山匠作家の畠山修理大夫義総の許しを得て、温井備中守孝宗を中心とする軍を援兵とし、自身も実悟の応援として三ヶ寺方に加わった。そして南の越前から、朝倉宗滴が軍勢を率いて参戦する。
「宗滴殿、ご助勢痛み入る」
家俊が礼を述べると、宗滴は恩に着せる様子もなく答えた。
「いや何、因縁浅からぬ超勝寺・本覚寺の坊主どもに加賀を乗っ取られては、枕を高くして眠れませぬからな」
「それは慥かに」
超勝寺と本覚寺は元来、越前に大きな勢力を持った寺であり、朝倉氏とは浅からぬ因縁があった。朝倉にとって、両寺が加賀を掌握することは、隣国の内紛では済まされないのである。
こうして、加州三ヶ寺、富樫稙泰、畠山家俊、朝倉宗滴ら在地勢力派と、法主・証如の命を奉じる本願寺中枢派とが対峙することになった。中枢派を大一揆、在地勢力派を小一揆と呼ぶ。
その頃、畿内でも別の争いが燻っていた。細川高国討滅から僅か二ヶ月。堺公方派では、早くも内輪揉めが始まっていた。ここに来て、細川六郎の側近となっていた茨木伊賀守長隆と結んだ木沢左京亮長政が讒言を繰り返していたのである。
「左京亮殿は筑前殿がかなりお嫌いのようですな」
「三筑は法華宗の庇護者というのがどうにも。法華宗は過激ですからな」
木沢氏は畠山氏の奉行として活躍する木沢の本家・兵庫助家と分家・左近大夫家からなる。仕えているのは畠山総州家に直接ではなく、遊佐越州家だ。これは遊佐越州家の家臣ということではなく、組織の上司と部下という関係に近い。しかも、本家の兵庫助家が河州家に仕えたのに対し、左近大夫家は越州家に仕えた。
木沢長政は、かつて下間周防守頼順と縁を結んだ木沢左近入道浮泛の子である。木沢長政自身は、細川道永が桂川原で敗れる以前に畠山氏に帰参していた。大永二年に遊佐中務丞家盛を生害の後、出奔する。あろうことか敵であった細川高国に仕えたのだ。さらに、畠山尾張守稙長に協力して河内侵攻で功を挙げている。
しかし、細川常恒が香西元盛を誅して柳本賢治らが離反すると、細川六郎に寝返った長政は、気に入られると、三好神五郎政長の妹婿となり、さらに六郎の口利きで畠山総州家に帰参したのである。しかし、長政は六郎の威光を嵩に来て弱体化していた遊佐家や右衛門督義堯を無視して傍若無人に振る舞った。
この頃、松井越前守宗信は京都を失陥し、典厩家に戻っており、六郎に義晴との和睦を薦めていた。これにより六郎との仲を悪化させた元長に追い打ちを掛けるように木沢長政と茨木長隆が讒言を繰り返す。木沢長政は六郎の命で細川氏の河内守護代となって遊佐英盛と対立、さらに畠山義堯の排斥を計画した。しかし、この計画は畠山義堯の知る所となり、激怒した義堯は、既に堺幕府内での立場を悪くしていた三好元長と結託した。
義堯による上意討ちを支援する形で、同年八月、元長は叔父の三好山城守長基を長政の居城・飯盛山城に派兵し、攻囲させる。
「筑前、飯盛山を囲んでいる兵を退かせよ」
「何故にございますか」
「木沢は私の寵臣ぞ。何故、筑前はこれを攻めるか。よいなっ、即刻兵を退かせるのだぞっ」
三好元長は細川六郎に呼び出され、木沢長政を擁護しようとする細川六郎から撤兵を求められた。こうなっては兵を退くしかない。元長は心の中で畠山義堯に詫びた。三好勢の撤兵に畠山義堯も単独での攻囲を諦め、兵を撤退させる。だが、事態はこのまま収まりはしなかった。
一方、加賀では九月、朝倉・加州三ヶ寺方と超勝寺方の戦が激しさを増した。同月廿六日、手取川では朝倉宗滴ら小一揆方が大一揆軍を破る。法主の命を奉じて各地の門徒が動いたとはいえ、三ヶ寺が長年にわたって加賀に築き上げてきた在地権力網は、そう容易く崩れるものではなかったのである。
しかし、願証寺蓮淳は支援の手を緩めず、各地からの門徒に檄を飛ばした。実円に南の守りを委ねた下間頼秀・頼盛は、軍を二つに分け、太田永照寺に布陣した畠山家俊と津幡本福寺に布陣した温井孝宗に夜襲を仕掛ける。この戦で畠山家俊の陣にいた三宅伊賀守俊長、温井孝宗の陣にいた飯川若狭守宗春が討死した。二人は津幡川の北にある本蓮寺に逃げ込んだ。
十一月二日、津幡川を渡った下間頼秀・頼盛の軍勢に畠山家俊と温井孝宗が迎撃した。しかし、それは下間兄弟の罠であり、両軍の連結点を突破した下間兄弟は背面展開して包囲網を敷き、津幡川に軍勢を押し付けて、家俊と孝宗を討ち取ると、その余勢を駆って加州三ヶ寺側を潰滅させる。これにより小一揆側の最後の光教寺も陥落した。首謀者は次々と捕らえられ、蓮綱は幽閉されて間もなく死去し、蓮綱の子・蓮慶は処刑。蓮悟・顕誓・実悟らは加賀を脱出する。富樫稙泰も加賀守護の地位を逐われた。
朝倉宗滴は、小一揆勢の敗戦を前に越前へ軍を戻した。実円は追撃せず、そのまま軍を留めて、役目を果たした。
守護・富樫氏という御輿を担ぎつつ、その下で加州三ヶ寺と門徒が実権を握ってきた加賀の支配体制は、ここに崩れ去った。逃れた三ヶ寺側の一門や門徒には、その後も追討命令が下される。
この大小一揆――享禄の錯乱によって、本願寺法主を頂点とする支配体制が完成した。同時に、主だった一族をことごとく粛清することになった外祖父・蓮淳は、若き法主・証如を擁して絶対的な地位を築き上げることになる。
加賀の趨勢は、遠い堺にいる三好元長にも報された。元長は父・之長同様法華宗の庇護者であり、堺の顕本寺とも親しい。本願寺の勢力が強大となることも、六郎の威を借る狐である木沢長政の勢力が増すことも面白くはなかった。というのも、北河内は本願寺の勢力が増殖しており、木沢氏はこれと協調路線を採っているようであった。特に父親の左近入道浮泛と本願寺証如の側近である下間周防守頼順が接近しており、木沢長政の守護簒奪の企てに国人門徒が関与しているとの話を義堯が溢している。
木沢長政と茨木長隆の増長は元長の悩みの種だった。
「父上」
「千熊丸か、おおきゅうなったな」
久方ぶりに堺で年越しをすることにした元長は、顕本寺にて千熊丸と対面していた。ある意味、人質に出しているようなものだが、率先して元長がすることで、六郎配下の武将たちは堺に妻子を置くようになっている。
「はい。今年で十一歳になりました故」
「そうか。立派な武士になれそうか」
「はいっ。父上のような強い武士になりとうございます」
大人びた千熊丸の返事を満足げに聞いて、大きく頷く元長であった。
「友はどうだ」
「千鷹丸が居りまする」
元長は怪訝な顔をする。すると叔父の長基が鵆屋《ちどりや》の倅に名前を与えたことを耳打ちした。
「おうおう、体の大きな千鷹か。実家は納屋衆だな」
「左様にございます。稲は体が弱い故、千鷹丸の家に預かってもらっております」
「なに?」
元長は娘が商家に預けられていることを知らされていなかった。今度は長基も首を振る。鵆屋のことならば長基が贔屓にしているのに何故把握できていないのか。
「私が頼んだのでございます」
「御前がか」
「はい。子どもとはいえ、稲は女子にございますれば、寺では不都合かと」
言われてみればその通りであるが、何故知らせぬのかと思えば、これだけの多弁をしてみせた千熊丸が赤子の折に預けた家でもあり、詮索しなければならない相手でもなかった。
「そうさな、正月十五日も過ぎた頃には御礼言上に伺おう」
「ありがとう存じます」
打てば響くような千熊丸の返しに、長基が可愛がっている理由が垣間見えた。なるほどこれは小気味いい。話し相手として最適だ。忙しい元長の代わりに何くれなく様子伺いをしてくれた長基に感謝する元長だった。




