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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第三章 干戈騒乱
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第廿七服 駆虎呑狼

三好元長を失脚させた柳本賢治が死んだ。柳本治久らが柳本勢を撤退させようとする。そこに襲いかかる依藤村忠。奮戦する柳本治久と柳本治頼だったが……

(とら)()しかけ(おおかみ)()ます


住吉の神の昔も松ときけば

我が落葉をも守り給へや

       赤松彦次郎教康『赤松盛衰記』

 

 (つごもり)。陰暦の月末を意味するこの言葉の由来は、月が隠れる「つきごもり」である。陰暦の月はほぼ月齢に等しく、十五夜が満月(フルムーン)で、()()()から朔日(ついたち)新月(ニュームーン)であった。それ故、晦の夜は月明かりのない夜闇となり、総てを覆い尽くす。今、播磨(はりま)(のくに)(ひがし)(じょう)(たに)(ぎょく)(れん)()は漆黒の(とばり)の中にあった。


 その中でゆらりと動いたのは、闇に()ける黒装束に身を固めた背の高い――(じょう)(しゅん)(ぼう)(ほう)(けん)である。月明かりもなく、(かがり)()の少ない玉蓮寺の(へん)殿(でん)裏は闇に包まれており、姿は見えない。普通ならば目の周りは露出しているものだが、それさえも黒く覆われているようだった。気配だけが、そのまま塀を音もなく上り、向こう側に消える。居ると分かって見ていなければ気配さえ気取れないであろう。篝火の灯は遠く、偏殿の裏側には届かず、(かす)かに建物を下から照らして、(おど)ろ驚ろしくその威容を見せていた。


 偏殿には(やなぎ)(もと)(だん)(じょう)(のじょう)(かた)(はる)の寝所があり、ここ数日は賢治が深酒をしていたため、柳本源七郎(はる)(ひさ)の配慮で巡回の兵は減らされていた。とはいえ、皆無ではないはずなのに、誰の姿も見えない。見回りの兵の気配すらなかった。


 しばらくして、刺客が消えたのを見計らったかのように現れたのは、一人の足軽である。深く笠を被っていて、顔ははっきりとしなかった。足軽は周囲を見回すと、深々と息を吸って、大声を挙げる。


「曲者だぁぁぁぁぁぁぁ!」


 人が集い辺りが騒然とし始めると、その者は騒ぎを余所に人混みに紛れ、姿を隠した。声に釣られた雑兵たちが次から次へと集まりながら、右往左往している。


「何処だ! どちらに逃げたかっ?」

「こちらには居らんぞっ」


 近くの部屋で眠っていた治久は大声に跳ね起きた。すわ何事かと、賢治の許へと駆けつけるべく、取るものもとりあえず渡殿を走る。


 賢治の部屋の前まで来て、声を掛けようとしたとき、血の匂いがした。声掛けする暇も惜しいとばかりに障子を力任せに開ける。


「なっ……!?」


 そこには血の海に突っ伏し、物言わぬ(しかばね)と化した無惨な姿の主君が横たわっていた。治久はそのまま膝から崩れ落ちる。驚愕に見開かれた眼は、板間に広がる血に釘付けされていた。


「と、とのぉぉぉぉぉ!」


 慟哭の声とはこういう物であろうか。怒号のような大きさに、地獄から(ほとばし)るかのような悲しさが、まるで物理的な衝撃を起こしたかのような圧を辺りに放っていた。周りの兵らは、顔を見合わせている。どうすべきか、何をしたらいいのか分からず、戸惑っていた。


 どれほどの時間が経ったであろう。周囲の者も掛ける声を失ったかのように治久の泣くがままに任せていたが、その泣き声が途絶えた。立ち上がった治久は、泣き腫らした顔のまま、辺りを見回す。


「そなたらは若狭(柳本治頼)殿、出羽(柳本道秋)殿、越中(柳本吉久)殿を呼んで参れ。そこもとらは我に従え。そこの者、本殿前に篝火を(とも)せ」


 治久は冷静さを取り戻したかのように周りに集まっていた者たちへ矢継ぎ早に指示を出した。嘆き哀しむのは今ではない。そう心を落ち着けると、賢治の死が敵によるものであるとに思い到った。その眼の奥には怒りの(ほむら)が宿る。


 ()(たび)の柳本勢には内海(うつみ)()()(のかみ)(ひさ)(なが)()(じま)()()(ひょう)()(のじょう)(まさ)(いえ)らは居らず、柳本(しゅ)()(のすけ)(はる)(しげ)も不在である。副将格と呼べるのは、(やり)(ぞう)()(あだ)()される柳本(わか)()(のかみ)(はる)(より)だけだ。その治頼は兵を率いるよりも突出した武の力で兵を従える武将で、撤退の指揮を委ねるには不安がある。退路の先頭を切ってもらうのが最適だ。


 治頼の実家は西岡の(いま)(ざと)()()氏で、父の三郎左衛門尉(かた)(より)は既に亡く、次兄・(いち)(のかみ)(みつ)(より)の子・与次郎左衛門尉(たか)(より)が当主となっていた。この一族は京兆家内衆である。賢治と治頼はその頃から面識があり、出家の身でありながら(やり)の名手として名を馳せていた治頼に柳本の名字を与え、一門衆に引き上げていた。世が世なら一流を興しても不思議ではない達人であった。


 玉蓮寺は味方の陣より前に出た形である。小高い丘に建つ故、河原や岸辺よりも見通しが良いと陣を張ったのだが、撤退にはそれが足枷となった。


「使番は池田(池田信正)殿、薬師寺(薬師寺国盛)殿、高畠(高畠長直)殿に殿の死を知らせてくれ」


 治久は柳本賢治の死を秘匿しなかった。前備えを兼ねる本陣の柳本勢が下がれば、右翼の池田勢と左翼の薬師寺勢が孤立しかねない。脇備えの高畠勢に至っては小勢であり、包囲(せん)(めつ)の危機ですらあった。


 それに、賢治の死は既に兵たちに知れ渡り、戦を継続することも出来ぬ程に士気は低下していた。直に敵方にも知られてしまうであろう。知られて居なかったとしても、指揮を執るべき賢治はいないのだ。


 主将亡き今、跡継ぎでも居るならばまだしも、ここには治久を含め属将は四名しかいない。軍勢を四つに分け、先陣を治頼に預けて敵の包囲を喰い破り、突破口を開いて逃げるのが関の山だ。第二陣は柳本()()(のかみ)(みち)(あき)、第三陣は柳本(えっ)(ちゅう)(のかみ)(よし)(ひさ)と続いてもらい、己が殿軍(しんがり)を務めることで、兵の消耗を防ぐという形以外、打てる手はなかった。


源七郎(柳本治久)殿」

「皆様、こちらに」


 鑓を担いだ治頼が本殿に姿を見せた。吉久や道秋の姿も見える。三人を評定場に誘い板間に坐した。絵図を中心に左右に分かれ、治久は治頼の隣、下座である。


「――という状況です。最早退()くしかないかと。手を(こまね)いて居れば、浦上の援軍がいつ現われてもおかしくないでしょう」


 軽く現状を話し、今後の予想を織り交ぜる。誰も彼も悲壮な顔を隠そうともしなかった。このまま何もしなければ、敵の餌食になることは間違いない。撤退には同意が得られた。故に――


「殿軍は私が務めまする」

「……宜しいのか?」


 治頼が顔を見合わせて意思を確かめた。この四人の中では、治久が一番若い。その治久が殿軍を買って出たのだ。三者三様ではあったが戸惑いと安堵した様子である。殿軍が居なければ多くの犠牲が出ることは間違いなく、誰かがやらねばならないが、誰も死にたくはないのだ。それはほぼ死を意味するからこそ、自ら言い出せばこの場の主導権を握れる――と治久は考えた。


若狭(柳本治頼)様、敵に包囲されているかもしれませぬ。先陣を切っていただけませぬか」

「任されよ」


 治頼としては願ったり叶ったりである。三人は治久が殿軍引き受けたことで、我を通しにくくなった。それ故、治久は思い切って策戦を話せる。


「殿軍は手勢の五〇〇で構いません。あとの兵は故郷に連れ帰っていただきたく」

源七郎(柳本治久)殿の心意気、この出羽(柳本道秋)(とく)と感じ入りまいた」

羽州(柳本道秋)殿の申す通りだ、皆を必ずや連れ帰ろう。されど……本当に五〇〇で良いのか」


 吉久は少々不安顔であるが、治久は策戦を無理押しした。後は、決死の者たちを集めるだけである。治久は三人に手勢の半分を託す約束をして、本幕を出た。治頼も吉久も道秋も、足軽大将たちを呼び、兵を分けて出立の準備に取り掛かる。


「兵粮以外は持たずとも好いっ」

「具足を着けた者から、集まれいっ」

「騎馬武者を前に押し立てて参るぞっ」


 玉蓮寺はにわかに慌ただしき喧騒で満たされる。そして、柳本勢が逃げ出すと静寂を取り戻した。



 玉蓮寺が慌ただしさに包まれ始めた頃、(より)(ふじ)太郎左衛門尉(むら)(ただ)は寝所でまんじりとしていた。計画では、今宵、浄春坊が暗殺に向かっているはずで、その成否が気になり横になっても寝付けず、酒を煽っていたのである。


――浄春坊(あれ)が失敗したなら、智慧弾正(柳本賢治)首級(くび)は戦場で獲るしかあるまいな……


 目を(つむ)ったまま、物思いに(ふけ)る。眠気も少しずつだが増えてはいた。だがまだ眠れそうにはない――と思ったその時、カタンと小さな音がして、風が動いた。曲者か――


「お静かに」


 誰かある――と言おうとして、声に出す前に、口を塞がれた村忠は、聞き覚えのある声に驚いた。声の主は浄春坊である。安堵とともに浄春坊の力量が自分の想像以上であることを思い知らされた。かの細川武蔵(むさし)入道(どう)(えい)が二つ返事で賛同したのはこの腕を買われてのことであったと得心できる。


智慧弾正(柳本賢治)は物言わぬ(むくろ)となりました」


 そのまま頷くと、浄春坊は村忠から離れ、物音一つさせず姿を消した。先程の音は、自分に気取らせるために(わざ)と出したものであると気づいた村忠は、背筋が凍りつくような(おぞ)()を感じた。自分が浄春坊に狙われれば、気付かぬ内に命は奪われてしまうではないか。だが、どうやってこれほどの()()れを亡き者にすれば良いのか――と考えてはじめて、すぐに首を振った。


武蔵入道(細川道永)殿と敵対せねばよい」


 これほどの忍働きをする者を使えるのは、恐らく京兆家の細川道永であろう。ならば、道永と敵対せねばよいだけだ。そうと決めたなら、道永の思惑通りに動けばよい。飛び起きるように寝床を離れ、身支度に人を呼んだ。


弥三郎(依藤村長)を呼べ。兵を集めさせよ!」

「はっ」


 不寝番(ねずのばん)をしていた小姓に嫡子・弥三郎(むら)(なが)を呼びに行かせ、別の小姓を呼んで、宿老らに戦支度の命を伝えさせる。既に起きていた夫人らには具足を持ってこさせた。


 敵は大将を失っており、士気は地に落ちている。今、襲いかかれば、楽に勝てる筈だ。


 馬に飛び乗った依藤村忠は、城門で手勢を待つ間に八幡社前で手を合わせた。時は金なり、今は時が惜しい。早く集えっと願えども、手勢は三々五々集まってきた。


 依藤氏の動かせる手勢は三〇〇〇に満たないため、玉蓮寺を包囲することは難しい。それ故、村長と次郎左衛門尉(なが)(かつ)に数少ない騎馬武者を預け、屋口城の城代・三郎兵衛尉(なが)(はる)には街道脇から回り込んで火を放つよう命じた。街道を封鎖させ、敵の逃走経路を狭めたのである。


「まだ、間に合う」


 村忠の視線の先には、玉蓮寺から這い出す柳本勢の群れが見えた。取るものも取り敢えず逃げ出す者の居る様は、村忠の嗜虐心(しぎゃくしん)を煽りたてる。


「掛かれぇぇぇぇっ」

「応ぉぉぉぉぉぉぉっ」


 多勢に無勢が追い打ちを掛けるという不自然な光景がそこにはあった。総大将を失い士気が底辺に近い中、柳本治久が手勢は依藤勢を押し留める。良く敵を防いだものの、瞬く間に数百の兵が討たれ、玉蓮寺が炎に巻かれた。


 瞬く間に燃え移り、伸びた炎が空を焦がすと、伽藍が焼け落ちる。治久は最後まで踏み留まり、単騎になってから逃げ出すも、遂に囲まれて討ち取られた。


柳本源七郎(柳本治久)が首級は依藤弥三郎(依藤村長)が討ち取ったり!」


 気勢を上げる依藤勢が、殿軍を失った柳本勢に襲いかかった。逃げる軍は弱い。雑兵たちは命あっての物種と、我先に逃げ出していき、その兵力を半減させてしまうのだ。


出羽(柳本道秋)殿、越中(柳本吉久)殿、此処は儂に任せて先を急がれよ! 包囲の網は閉じ切っておらん!」


 馬首を返した治頼が、同僚二人を先に逃がす。


若狭(柳本治頼)殿こそ、急がれよっ」


 吉久としては、一門の序列を鑑みる。主君の(へん)()を戴く治頼と、持たぬ吉久では格が違う。治久の死に後悔を覚える身としては、ここで身を挺して敵を抑えるのは我が役目と覚悟したのだ。だが、ひらりと馬を舞わせた治頼は、愛おしそうに鑓を撫ぜた。


「儂の出番は奪わせぬ」


 言うなり吉久の馬尻に(しのぎ)を喰らわせた。驚いた吉久の馬は一目散に走り出す。振り落とされまいと馬にしがみつく吉久を見ながら呵々大笑していると、傍に道秋が立っていた。


(かたじけ)ない」

「なに、お主らに功名を持っていかれたくないだけよ。……くれぐれも甚次郎(柳本忠治)様を頼む」


 (じん)()(ろう)は、柳本出雲(いずも)(のかみ)(なが)(はる)の子・弾正忠(もと)(はる)の遺児だ。柳本賢治が当主となり又次郎を名乗ったことから、仮名を継げず甚次郎を名乗っている。元服すれば柳本一門として年寄(おとな)衆に名を連ねる予定だ。甚次郎の武芸の師として治頼は槍を授け、父を知らぬ甚次郎は治頼を父のように慕っている。


「相分かった。この道秋、必ずや甚次郎(柳本忠治)様をお支えしよう」


 そう言い残して道秋も去った。


 治頼とすれば、甚次郎に伝えた槍術は心身を鍛えるためのものであり、自分のような武芸者を育てるものではない。これからの甚次郎に必要なのは軍の動かし方や政の捌き方であり、吉久や道秋のような家臣と温存できる兵力であった。賢治の遺児が幼子である以上、賢治亡き今、甚次郎が当主(虎満丸)に代わって柳本家を担わねばならない。殿軍の治久が討死したとなれば、次は自分の番だった。依藤勢は最早眼前である。


「若様の元服を見れなんだのは残念だが……な」


 覚悟は決まった。にたりと嗤って、迫りくる依藤勢の(くろ)(だか)りに穂先を向けて大音声を放つ。


「我こそは柳本家中にこの人ありと名を知られた鑓蔵主・柳本若狭守治頼ぞ! 命を惜しまぬ阿呆から掛かって来るがよいっ」


 一分の隙も無く、それでいて悠然と馬上で鑓を掲げた治頼の一世一代の晴れ舞台であった。剃り上げた頭をペしりと撫ぜて敵を挑発する。


(ひる)むな! 多勢で押し込めよっ」


 村忠が治頼の意図を読んで、手勢を差し向けた。その声に、飲まれていた兵たちも息を吹き返して治頼に立ち向かう。が、治頼が鑓を振るえば手や脚を切られたものたちが辺りに転がった。多勢に無勢であるというのに、なかなか治頼に近づけない。変幻自在の(やり)(さば)きに治頼を中心に空白が生まれた。だが、治頼の手勢は次第に討ち取られ、残るは治頼ただ一騎となる。


 どれ程の時が経ったであろうか、治頼を取り囲みはしたものの、誰も動かなくなった。如何に村忠が叱咤しても、命を惜しむのは当たり前である。治頼が前に出れば、兵は退いた。


 退屈そうに囲みを眺めた治頼は、長い嘆息を吐いて、手綱を引き、馬首を返そうとした。


「これでも喰らえ、鑓蔵主!」

「むっ」


 声と共に彼方より飛来したのは矢である。だが、その矢が治頼に当たることはなかった。振り向きもせず鑓を軽く捌くと、矢は真っ二つに裂けたのである。


 その姿に誰もが呆気にとられた。鑓で叩き落とすのならまだしも、鑓で矢を縦に裂くなどという神業は滅多に見れるものではない。


「誰も打ち掛かって来ぬならば、お主らに用はない」


 固まったままの依藤勢を尻目に、治頼は悠々と帰途に就いた。その姿が遙か彼方に消えゆくまで、誰からも声飛沫一つ挙がらない。


 たが、治頼が故郷に帰り着くことはなかった。数里先の峠道で力尽きるように落馬し、この世を去ったのである。人々は僧侶と出会った頃に殺生をした因果だと噂した。




 依藤勢が柳本勢を襲っている頃、池田弾正忠(のぶ)(まさ)、薬師寺三郎左衛門尉(くに)(もり)(たか)(はた)甚九郎(なが)(なお)らは玉蓮寺の本陣から離れた自陣に居り、治久からの知らせを受けて即座に兵を引いた。(べっ)(しょ)大蔵大輔(のだいゆう)(むら)(はる)()()城、()(でら)()()(のかみ)(まさ)(たか)(しょう)(ざん)城、小寺藤兵衛(のり)(もと)()(ちゃく)城、(あり)()(ちく)(ぜん)(のかみ)(のり)(なが)()()城ヘと軍を向ける。


 浦上掃部(かもん)(のすけ)村宗は島村弾正左衛門尉(つら)(のり)に二〇〇〇の兵を付けて依藤村長と合流させ、念仏城から一城ずつ陥落を命じて、自身は細川道永との合流を急いだ。


 七月(7月)六日(30日)、備前を出立した細川道永は松田氏らを率いて高砂(たかさご)に着陣した。浦上村宗と合流した道永は庄山城へ軍を向ける。籠もった小寺政隆は激しく抵抗したため、浦上村宗は総攻めを命じ、同月(8月)十五日(8日)には庄山城を陥として小寺政隆を討った。 


 余勢を駆って御着城を包囲すると、同月(8月)廿七(20日)日、援軍の見込めぬ御着城は開城し、小寺則職は堺へと逃れる。


 御着城の落城を聞いた別所村治は、同廿九(22日)日、細川・浦上連合軍の姿が観えぬ内から逃げ出した。戦らしい戦もなく三木城に入場した道永は浦上村宗に三木城を与え、これによって浦上氏による播磨統一が成し遂げられた。


「管領殿、殿、播磨統一、(しゅう)(ちゃく)至極に存じます」


 占領した三木城の広間で浦上掃部助村宗に賀を献じたのは島村貫則である。その貫則の顔も明るい。


「弾正殿、面を上げられよ。掃部助殿もこれで三国の太守となる。貴殿もいずれかの守護代に任ぜられよう」

「左様、左様。此度の献策も戦功も随一よ。東播磨の守護代はお主に任せたいと思うておる」


 道永も村宗も上機嫌で貫則を褒めちぎる。道永は貫則の献策を見事と純粋に褒めており、村宗は道永の思惑を見抜いた貫則の非凡さを改めて見直していた。


掃部助(浦上村宗)殿この功績を称して弾正殿を受領名へ改めさせてはどうか」

「それは好いお考えですな、管領(細川道永)殿」

「まだ、改める歳でも御座いませぬ。それよりも、我が子らに御字を拝領賜われればこの上なき幸せにございます。

――さ、ご挨拶差し上げよ」


 二人で盛り上がっていた所に貫則が止めに入りつつ、後背に控えたままの息子へ関心を引いた。道永と村宗はようやく気付いたように貫則の二人の子をしげしげと()る。


「島村弾正左衛門尉貫則が一子・弥三郎に御座います」

「同じく、弥四郎に御座います」


 深々と頭を下げる二人をみて、道永と村宗は大きく頷いた。道永としては浦上村宗と島村貫則の助力はこれからも受け続ける必要がある。村宗の子に偏諱(へんき)したいところではあるが、虎満丸はまだ幼く、元服したばかりの晴国の小姓にするには晴国を正式に養子とし、野州家を誰かに継がせる必要があった。


「この若人らが弾正(島村貫則)殿の御子か」


 村宗が呼んだ右筆が道永の前に卓を設え、紙と筆を調える。水滴で墨池(うみ)を潤すと、硯堂(おか)で墨を磨り始めた。その音に気付かされたのか、道永が小さくつぶやく。


「そうか、法体(ほったい)からの偏諱はいかぬと爺が申しておったな……」


 思い出したのは細川右馬頭尹賢の嫡子・宮寿丸の元服の際のことである。この時代、偏諱は俗世のことであるため、法体――つまり、入道した者からは行ってはならないとされていた。但し、法体同士の師弟で同じ字を用いるのは偏諱にならないとされており、師から弟子に字が受け継がれる例はある。


「よし、我が細川の通字で、近年然程(さほど)使われておらぬ『氏』の字を遣わそう。氏貫と名乗るがよい」

「有り難き幸せ。弥三郎、早く礼を言わぬか」

管領(細川道永)様、誠に有り難きことにて、言葉になりませぬ」

「よかったのぅ、氏貫。これからも頼りにしておるぞ」


 道永が紙に氏貫の字を認めて掲げると、平伏する貫則と氏貫に村宗が声を掛ける。そして、期待に満ちた眼を向ける弥四郎に微笑んだ。


「そなたには儂から『宗』の字を与える。これよりは島村弥四郎宗貫と名乗るがよい」

「恐悦至極に存じます」


 嫡子ではない次男とすれば主家から偏諱を賜るというのは別家を立てても良いと認められるに等しい。分家ならば通字を本家から賜って寄騎となるが、別家となれば主家に直接仕えることとなり、戦功次第では惣領になれる可能性もあった。


 村宗は宗貫と書かれた紙を掲げず、そっと宗貫の前に置かせる。


「氏貫、宗貫。そちたち兄弟は(いが)み合わず、力を合せて掃部助(浦上村宗)殿の力になるように。それが引いては余や大樹(足利義晴)の力となる」

「はっ」

「ははぁっ」


 貫則は偏諱を終えた二人を下がらせ、今後の方針について相談を持ち掛けた。道永の策戦は東西からの(きょう)(げき)である。道永と共に浦上勢が西から上洛するのは分かっているが、東のことは何も聞かされていなかった。村宗の楽観的な様子から見込みの大きい話があったのだろうとは推し量れはしたが、貫則が知る限り細川道永という人は戦上手ではない。


「して、東はどのような手立てを?」

「急かすでないぞ、弾正(島村貫則)

「よいよい。それよりも、弾正(島村貫則)殿も(かん)()を変えては如何か」


 道永が再び話を蒸し返す。この当時、官途名は嗣子が三十歳になって官途(なり)をするか、自身が五十歳を過ぎるか、あとは孫が袴着を済ませて仮名を継ぐときに名乗り変えをするものだ。しかし、貫則はそのどれにも当たらない。


 道永が勧めたのは父・越中守景貫の官途名で、貫則が官途成をした際に改めた名であり、いずれは継ぐものであるが、今はその時ではないと思っていた。


(それがし)弥三郎(島村氏貫)の官途成を待ちとうございます」

「成程、弾正(島村貫則)殿は律儀であるとみえる」

「それ故、安心して事を任せられますぞ」


 試されたのか――と貫則の顔に険しさが出たが、村宗は流した。村宗とて貫則の偏諱乞いに多少不快な思いもないではなかったが、これより始まる摂津攻めを鑑みれば、貫則の()(ぼう)は不可欠である。軽く釘を刺すに留めるがよいと考えていたのだ。

ご無沙汰しております!


8月はお盆休みをがっつりいただいてしまいまして、全く執筆が進みませんでした(爆)

実は家の増築が決まり、銀行から融資を受けることになったのですが、今度は建築確認申請が2〜3ヶ月も待つと言う事態に!


ということで、バタバタしておりました。


ようやく書き上げた『第廿七服 駆虎呑狼』事実ではサラッと流されてしまう部分ですが、じっくり書いていきます!

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