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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第三袋 干戈騒乱
35/42

第廿八服 山岳可崩

柳本賢治が死んだ。撤退する堺勢に襲いかかる依藤村忠と島村貫則。奮戦する柳本治久と柳本治頼も死んだ。播磨統一を成した浦上村宗は細川高国とともに摂津攻略に乗り出す。

山岳崩(くず)す可(べ)し


さき懸(が)けて かつ色みせよ 山桜

       長崎九郎左衛門師宗

嵐や花の かたきなるらん

       工藤二郎右衛門祐貞

       「太平記」千(ち)剣(は)破(や)城(じょう)軍(のたたかい)より連歌


 浦(うら)上(かべ)掃部(かもん)助(のすけ)村(むら)宗(むね)は三木城に腰を据え、ひと月ほど軍勢の再編を行った。享禄三年(西暦1530年)は七月(8月)廿九日(22日)に処暑となったばかりで、八月(新暦9月)はまだ残暑の只中である。この暑さでは兵も馬も戦どころでは無いが、そのために休みを取ったのではなく、摂津(せっつ)侵攻の道筋を付けるためであった。


 その間、細川武蔵(むさし)入道常(じょう)恒(かん)は東の軍略を進めるべく、山陰道の諸将を通じて近江(おうみ)・伊(い)勢(せ)・越(えち)前(ぜん)・若(わか)狭(さ)へと書状を送っている。また、腰の重い赤松次郎政(まさ)村(むら)に出陣を要請し、上洛軍の兵力の増強に余念がなかった。


「先ずは瀧(たき)山(やま)城を落としませんとなぁ」

「籠(こ)もるのは三郎左(薬師寺国盛)か」


 浦上村宗のぼやきに対して、厄介だとばかりに細川常恒が嘆息する。薬(やく)師(し)寺(じ)三郎左(さ)衛(え)門(もん)尉(のじょう)国(くに)盛(もり)は先の当主・細川右京大夫(のだいぶ)政(まさ)元(もと)の側近でありながら謀(む)叛(ほん)を起こした薬師寺九郎左衛門尉元(もと)一(かず)の子で、先年の桂(かつら)川(がわ)原(はら)の戦いの後、三好筑(ちく)前(ぜん)守(のかみ)元(もと)長(なが)に攻められ降伏し、現在は堺陣営の将として瀧山城を守っていた。常恒としては、兄の九郎左衛門尉国(くに)長(なが)とともに、偏(へん)諱(き)して元服させ、摂津下(しも)郡(ごおり)守護代として引き立てたこともあり、複雑な思いがある。しかし、常恒が敗れなければ、彼らが降伏することもなかったのであり、彼らを責めるのも筋違いであった。


 堺勢で最も早く兵を引いて瀧山城に入り、防備を固めたのが薬師寺国盛である。


「左様です。豊(とよ)地(ち)城から引き上げ、そのまま籠もっております」

「弾正(島村貫則)の追撃も間に合わなんだというのは些(いささ)か……」


 村宗の懸念も尤(もっと)もである。島村弾(だん)正(じょう)左衛門尉貫(つら)則(のり)は村宗の命で、依(より)藤(ふじ)勢の増援として駆けつけ、柳(やなぎ)本(もと)弾正忠(のじょう)賢(かた)治(はる)の死を合図に玉(ぎょく)蓮(れん)寺(じ)に同陣していない諸将を襲ったのであるが、ほぼすべて空振りに終わっていた。辛うじて高(たか)畠(はた)甚(じん)九郎長(なが)直(なお)の殿軍(しんがり)を崩すことに成功したが、大きな戦果は挙げられていない。


「どこぞから暗殺の件が漏れていた、と」

「一杯喰わされたかもしれませぬな」


 解せぬという顔で常恒が問うと、貫則が思案顔で内訌に乗せられた可能性を示唆した。となれば、堺陣営内の内輪争いに手を貸して、憎まれ役を押し付けられたことになる。だからといって、浄(じょう)春(しゅん)坊奉(ほう)賢(けん)が怪しいかといえば、そうとも言えなかった。浄春坊は現在、中村助三郎秀(ひで)周(ちか)の所に預けられており、不穏な動きも報告されていない。敵の計略というには敵の被る被害が大きすぎるのが不可解だった。


「もしや、三筑(三好元長)の手引きか?」

「どうでしょう。聞き及ぶ筑前(三好元長)殿の気性に合わぬ気がいたしまする」


 常恒が元長の謀略を勘繰るも、貫則は首を振る。元長は戦に強いが謀略は好まず、ましてや戦場に出ている同陣営の大将を暗殺するような愚かな真似をするとは思えなかった。常恒としても口にしたものの、貫則に同意である。この手口は堂弟(父方の従弟)である細川右(う)馬(ま)頭(のかみ)尹(ただ)賢(かた)の遣(や)り方に似ていた。とはいえ、堺方に降った以上、尹賢が敵(こちら)に塩を送るような謀略を仕掛けるとは思えない。


「それに失脚して阿(あ)波(わ)に戻っていると聞きます」

「それよ。幾ら三筑奴(め)の手が長いというても、な」


 阿波から指図した可能性もないではないが、近いとはいえ海を隔てており、動きが後手に回りやすい。それに、失脚したとあっては下手に動くとは考えにくかった。


「それはここで話し合(お)うても埒(らち)が明かぬのでは」

「慥(たし)かに、掃部助(浦上村宗)殿の申す通りよ」


 常恒は話を切り上げて、視線を絵図に向けると、村宗が置いた黒の碁(ご)石(いし)を一つ取り除いて、白を打った。そこは、摂津国有(あり)馬(ま)郡(のこおり)である。貫則の調略で、細川六郎に鞍替えしていた有馬郡分郡守護・赤松又次郎村(むら)則(のり)が常恒陣営に復したのだ。これによって堺陣営の播磨(はりま)侵入路は閉ざされ、上洛軍の補給路が確保できた。また、ここには有名な鹽(しお)の湯――現在の有馬温泉がある。負傷した者の治療にもなると歓迎された。


「筑前(三好元長)の手が伸びていれば、摂津の諸将がこうも靡(なび)きはいたしますまい」

「それはそうよな」

「神尾山(柳本賢治)も嫌われたものよ」


 常恒が会話に参加せず、黙っていた有馬村則を一瞥する。視線を感じたのか、村則は居心地悪そうに不(ふ)貞(て)腐れた顔で応じた。


「好きも嫌いもございませぬ。降ったのは武力に抗(あが)らえば家が滅びます故」

「……」

「有馬(赤松村則)殿が戻られたこと、御屋形(赤松政村)様もお喜びになられておりましたぞ」


 直(す)ぐ様(さま)、とりなすように村宗が口を挟んだ。これは明らかに嘘で、村宗は村則の帰参から政村に会っていない。これは方便というやつだ。


 有馬赤松氏は延暦寺の僧で大(だい)塔(とう)宮(のみや)護(もり)良(よし)親王の側近であった権律師妙善(赤松則祐)の子・兵(ひょう)部(ぶ)少輔義(よし)祐(すけ)を祖とする赤松一族で、細川氏牽制のための有馬郡の分郡守護を継承している。応仁頃に上(こう)月(づき)赤松氏の治(じ)部(ぶ)入道道(どう)衍(えん)・|直祐父子と争ったが、上総(かずさ)介(のすけ)元家が復権した。


「有馬(赤松村則)殿、大樹に仕える気はないか」

「それはどういう意味にございますか」


 唐突とも思える常恒の発言に、村則はその真意を測りかねた。復したからには細川京兆家の内衆(陪臣)に戻るものだと思っており、ここに来て直臣に戻ることになろうとは予想していない。


 有馬赤松氏は祖父・出(で)羽(わ)守則(のり)秀(ひで)まで外様衆に名を連ねていたが、父・刑(ぎょう)部(ぶ)大輔(のたいふ)澄(すみ)則(のり)の代に細川政元に属(つ)き、両細川の乱では細川澄(すみ)元(もと)に従った。そして、永正五年(西暦1508年)十月(11月)に高国方の瓦(かわら)林(ばやし)対馬(つしま)守政(まさ)頼(より)・伊丹(いたみ)兵庫助元(もと)扶(すけ)・塩(しお)川(かわ)孫太郎種(たね)満(みつ)らに攻められ敗死している。則秀は遺児・村則を擁して赤松宗家に復し、赤松宗家の後援を受けて有馬城奪還、旧領を恢(かい)復(ふく)した。


 義晴を将軍に擁立した細川高国と赤松氏の和睦がなり、村則は細川京兆家の影響下に入った。しかし、常恒が敗退したことで堺陣営に攻められ降伏する。それを悔いる様子もなく、さりとて面従腹背という訳でもなかった。強い者に従う、唯それだけのことである。


「大樹(足利義晴)に、力を増していただきたくてな」

「何(なに)故(ゆえ)で」


 常恒としては、自身の配下にした所で、有馬郡と本領の間に堺幕府を挟むのでは直接支配は難しい。さりとて赤松政村に復させても、浦上村宗に呑み込まれてしまうだけだ。それよりも、赤松分家として奉公衆にすれば、赤松政村にも、浦上村宗にも釘を刺すことになる。奉公衆を家臣化することは国人を家臣にするようにはいかないからだ。


 また、将軍直属の総兵力を増やすことで、外へは御輿の重みを増すことができ、内には兵を分散させることで細川家がなくては幕府が成り立たぬように出来る。それは奇(く)しくも堺幕府が国人等を奉公衆に引き入れたり、讃州家の家臣らが大名に匹敵する力を持つのに似ていたが、常恒は三好氏のような数カ国に跨がる家臣の出現を巧妙に防いでいた。それ故に細川氏の勢力が拡がりにくくなってもいる。


「……有馬(赤松村則)殿、受けられては、如何か」


 賀を献じようとして、村宗は一瞬躊躇った。村則に辞退させたくない常恒の意を汲んでのことであるが、常恒の意図は見え透いる。ただ、村宗としても赤松氏に戻って貰いたくはなかった。付け加えるならば、両細川どちらにも有馬郡を呉れてやるのは惜しい。立地的にいえば、有馬赤松氏が奉公衆となるのは邪魔だが、ここで赤松村則に恩を売って置くのは悪くなかった。奉公衆になれば単なる国人ではなくなり、分家として将軍家から認められ、大名家への途が拓ける。村宗は恩着せがましく村則に勧めた。


「働きが認められれば、国持衆並――いや、国持衆も夢ではなかろう」


 村則の眉が上がった。国持衆並というのは国持衆の一つで、御供衆の有力者が列せられることが多いが、一家だけ分郡守護で国持衆並に列せられている家がある。細川典厩家だ。分郡守護は、直臣に取り立てられた守護大名の分家筋が外様衆や御供衆となって列せられることが多い中で特例であった。


 国持衆は、三管領・四職・相伴衆に次ぐ室町幕府における家格で、三管領家や四職・相伴衆の一族や分家が殆どだ。准国持衆は外様衆の中でも国持衆に準じる家格を持つ家が列せられる。室町幕府では、国持衆と准国持衆以上が大名と呼ばれた。


「そのお話、有り難くお受けいたします」

「そうでなくては、の」


 常恒は破顔する。村宗も追蹤して、酒宴の運びとなった。一人、貫則だけは苦い顔である。これからが戦いの本番であると感じていたからだ。慥かに、柳本賢治は脅威であったが、戦の強さでは三好元長の方が恐ろしい。柳本賢治はどちらかと言えば、意表を突いた策戦の上手さで戦を勝ってきた。しかし、三好元長の勝ち方は正々堂々とした戦い振りで、その上寡兵であっても大軍を打ち破る強さを持っている。


「勝って兜の緒を締めよ、と言うではないか」


 貫則の声は弱い。その誰にも聞こえぬ憤りは、常恒と村宗の耳に届かなかった。まだ、東上軍の前には、難攻不落と名高い瀧山城と鷹尾城が立ちはだかっている。


 瀧山城には薬師寺国盛が居り、その後詰めともいえる鷹尾城には生粋の堺方である瓦林出雲守是高が一子・五郎左衛門尉定高が控えている。これを如何に味方の犠牲を少なく落とすかを思案せねばならなかった。


「……余人に漏れぬを良しとするか」


 瀧山城から鷹尾城まではおおよそ一日ほどの距離で、軍を急行させれば半日余りで着けなくはない。賑わう宴席の喧騒を余所に、貫則は絵図に碁石を打った。


 誰が見ていなくても好い。己に課せられた役割を果たすまでのことであった。


「精が出るのぅ」


 不意に常恒が姿を見せた。宴の喧騒はまだ続いている。厠の帰りであろうか、中座してきたことは間違いない。


「これをな」


 そういって、懐から小さな磁器を取り出した。青い色は染付であろう。茶の湯に使われる蓋置か香盒かの掌に収まるほどの大きさだ。常恒がそれを置こうとするので、両手を差し出すと、貫則の掌に小さな蒼い蟹が置かれる。


「これは?」

「唐渡りのもので、蟹の形をした染付の墨台じゃが、蓋置になるとおもうてな。愛らしかろう」


 貫則とて茶の湯の心得はある。たが、あくまで嗜む程度であって、唐物を大枚を叩いて手に入れる程ではなかったが、これには惹かれるものがあった。


「そなたに呉れてやろう」

「……宜しいので?」


 貫則は喰い入るように掌に載った二寸弱のそれを眺めていた。現代で言えば古染付に分類される明の景徳鎮のものである。


「泉州(宇喜多能家)には昔、馬と釜を贈った故、いずれそなたにもとは思っていたのだが……戦の最中故、これぐらいしか持ってきて居らぬが、よいか?」

「有り難く頂戴仕ります」


 蟹蓋置を押し戴いて、懐中していた袱紗に包んで、懐に仕舞った。


 




 一方、柳本賢治を失った堺幕府の動きは鈍い。池田信正は池田城に戻っており、常備軍である池田勢は兎も角、高畠長直の軍勢は上郡の地侍らが多く、厭戦の気配が強かったので、早々に解散し、長直は単身帰堺していた。そして、柳本賢治が接収した伊丹城には、城主不在を補うため高畠長直が入る。瓦林定高も鷹尾城に入り、瀧山城――鷹尾城――伊丹城という縦深陣の一角を担うこととなった。


 帰城した薬師寺国盛は瀧山城に手を入れ始めた。瀧山城は尾根を利用した堀の少ない東西に広がった山城になる。本丸はやや西寄りで、その西側に西曲輪があった。国盛は本丸と西曲輪の間に二重に堀切を設け、西の曲輪とは行き来出来なくなった。


「殿、西曲輪(にしのくるわ)はお捨てなさるので」


 国盛の側近・寺(てら)町(まち)又三郎盛(もり)隆(たか)が確認とばかりに尋ねた。


 寺町盛隆は国盛の堂弟(父方のいとこ)である。盛隆の父は又三郎長(なが)隆(たか)で、子のなかった細川京兆家評定衆の寺町石(いわ)見(み)守通《みち》隆(たか)の養子となった。長兄・元一が上郡守護代となると、次兄・三郎左衛門尉長忠、四弟・芥川彦太郎信方とともにこれを支えたが、元一が乱を起こすにあたってこれに従い戦死している。盛隆は薬師寺家に戻され、通隆は伊丹氏より養子・三郎左衛門尉通能を迎えた。


「西曲輪を潰してしまえば、東側に全力を向けられよう?」


 これは瀧山城が東側から攻められることを想定して作られた城だからだ。赤松氏が築いたこの城は、六波羅軍に反撃された赤松円心が立て籠もった城である。以来、赤松氏最東端の城であったが、文明年間には赤松家臣・井上九郎入道成(せい)陰(いん)が城主となっていたが、細川氏が下郡に勢力を伸ばすと薬師寺国盛が下郡守護代として入って、八部郡はその直轄地となり、瀧山城を居城とした。


「仰ることは分かりますが……」

「背後から攻め込まれては堪らぬ。それに敵に遠回りをさせてやろうと言うのだ。西曲輪一つ潰した方が迎え撃つには好都合というもの。心配するな、又三郎(寺町盛隆)!」


 自信に満ちた国盛であるが、盛隆は納得していない。西曲輪への道は嶮(けわ)しく、二重の堀切をどうにかするほどの資材を運んでくるのは難しいとはいえ、敵が仕掛けてくるのを妨害する兵も居ないのでは不安であった。


「ならば、私の手勢だけでも西の丸の護りに残してはいただけませんか」

「ふむ……無用とは思うが、又三郎(寺町盛隆)の好きにせよ」


 盛隆としては、後背の備えのつもりである。自身は中曲輪での迎撃を任されているので、直接守ることは出来ないが、信頼できる家臣の一人に西の丸を委ねて、中曲輪へと向かった。




 浦上村宗と細川常恒から瀧山城攻略を命ぜられた島村貫則は瀧山城を素通りし、鷹尾城に攻めかかるかのように軍勢を動かした。先頭には自身の馬廻衆を貸し与えて弥四郎宗(むね)貫(つら)を据え、大将の旗印を掲げさせている。続くのは小荷駄を守る兵五〇〇に、後備の兵一〇〇〇。貫則は陣の中程に構え、これも大将の旗印を掲げている。最後尾は弥三郎氏(うじ)貫(つら)で、ここも旗印を棚引かせていた。


「どういうことでしょう」


 遠見の報せを受けた寺町盛隆は、敵の思惑が分からず、戸惑いを見せた。敵将は智謀で知られた島村貫則である。奇策の名手と名高いが、その首級をどうしても狙いたい因縁は国盛にはなく、大将が何処に居るか幻惑させる意味はないとしか思えなかった。それにも関わらず、大将旗を三箇所に掲げ、細長い隊列を作っており、隙だらけに見える。


「明(あか)ら様に、儂を誘っておるのよ」


 国盛は貫則の意図をそう説明した。城を無視して進めば、補給線を寸断するために兵を出してくると読んでの行動であると。兵を出せば、鷹尾城を攻める兵の順とは逆にしてあるだろう備えによって逆撃を被る可能性が高いと読み解いた。ただ、それにしては大将旗が三つも掲げられているのが不自然である。


「ここは様子見じゃ。あの布陣で鷹尾城を攻めはせぬ」

「然様にございますか?」

「間違いない。しばらくしたら引き返して、こちらを囲むだろうよ。五郎左衛門尉(瓦林定高)殿に後詰を頼むとしよう。又三郎(寺町盛隆)は兵糧を確認して参れ」


 盛隆は不承不承、籠城の手配を続けた。国盛は、鷹尾城に報せを送るべく狼煙(のろし)を上げ、使番を送ると、張り切って各曲輪の見回りへと向かった。盛隆は国盛を送り出しつつ、各曲輪の連絡と糧秣や水の手を確認する。籠城戦では、兵の士気が戦局を左右するため、食料と水の確保が肝腎だ。瀧山城の水の手は西の丸が水源となっている。


「瓦林様には後詰ではなく、敵の先陣を叩いてもらう方がよいのではないのか」


 盛隆は引っ掛かるものを感じながら、西の丸へと向かった。




 正午過ぎ、瀧山城の眼前を鷹尾城へ向かっていた島村貫則の軍勢が、ゆっくりと向きを変え、瀧山城の包囲を始めた。途中、布引の滝を鑑賞する一幕があるほど、ゆっくりとした進軍である。これは、後詰めの軍を待ち構えて迎撃するかのような動きであり、瓦林定高に「用心せよ」と知らせるため、盛国は足早の者を選んで使者を出した。


「どうやら上手く行きそうだな」


 島村貫則は包囲する軍の本陣ではなく、瀧山城の西、一里山より尾根伝いに西曲輪へと入っていた。平地に陣取る本隊の動きは国盛に看破させるための擬態――陽動である。兵たちは曲輪の外で近くの寺から切り出した竹で梯子を組み、西の丸からは見えぬ位置で準備に勤しんでいた。


「三郎左衛門尉(薬師寺国盛)殿の驚く顔を見たいものだ」


 恐らくそれは叶わぬだろう。薬師寺国盛という御仁は先陣に身を置いて兵を鼓舞する武人だ。貫則のように謀略や策略を得意とする軍師とは違う。故に本丸に籠もるような真似はすまい。


「そこが付け込み処なのだがな」


 ニヤリと嗤って、采を振った。陰から竹の長梯子を引き出した兵たちが鬨の声とともに支えとなる木を打ち立てる。


「みーはしら(御柱)、お(起)こぉせーっ」


 半数の兵が縄を引いて、土塀前に掘られた穴に突っ込ませた大木を起こしていく。その高さはゆうに二重の掘切の巾を超えていた。貫則の大音声に西の丸の兵が気付いたのか、引き起こされる柱を見て騒ぎ始める。


「みーはしら(御柱)、よぉそろぅー(宜候)」


 先導の掛け声で、蜘蛛の子を散らすように西の丸の兵たちが土塀から離れ、そこに大木が真っ直ぐに倒れていく。雷が落ちたのかという程の轟音とともに、地響きがした。成功である。


「すーじかい(筋違)、わぁた(渡)せぇっ」


 筋(すじ)違(かい)とは建築用語で二本の交叉した柱と柱の間を補強する斜めの柱のことで、竹梯子を二つ交叉した形が似ていることからそう、呼んだものであろう。それは丸太に掛かるように厚みを持っており、丸太の先に付けられた輪杭(めがねくい)を通して縄で引かれていった。筋違の上には梯子というより、二本の長い竹で作った細長い簀子(すのこ)のようなものが三つ取り付けられている。そして、その簀子の先は竹を斜めに切ってあり、ドーーーンという槌を打った様な音と共に土塀に突き刺さった。


「掛かれーっ!」


 貫則の号令一下、足軽たちが簀子の橋を渡って行く。我に返った薬師寺勢が弓を構えて矢を放つも、的を絞らぬ疎(まば)らな反撃は意味が無かった。だが、それでも不運な兵が二〜三人当たりどころが悪く、橋から落ちる。兵を損なわずという訳にはいかなかったが、戦闘の鎧武者が土塀を乗り越え、弓を構えた兵に突進した。


「よし、次だ」


 間を空けて二陣を送り込む。一陣の者たちは本丸への出入口を抑えている筈だ。二陣の者たちは西の丸に残った兵たちを鏖(おう)殺(さつ)する。ここまでくればあとは、後続を率いて本丸から攻め下るだけだ。


 そろそろ氏貫が誘いの陣を敷いている頃合いである。四陣を送り込んだ貫則は伝令に狼煙を上げさせた。


「これで薬師寺殿も気付くであろうよ」


 窮鼠猫を噛む。噛まれたく無ければ追い詰め過ぎぬことだ。ましてや薬師寺国盛は鼠ではなく、細川常恒が頼りにした武将である。逃れる道があるなら、其処に活路を見出すはずだ。生きていてくれた方がこちらとしてもやりやすい。


「管領(細川常恒)様に帰参する気が有れば良いが」


 後続の兵と共に西の丸ヘ移り、瀧山城の陥落を確実にするため、本丸に打って出ることにした。ここまでは策戦通り順調に推移している。不測の事態が起こらなければ、勝てるところまでの筋道は付けた。あとは――


「人智の及ばざる所なり……か」


 そう嘯(うそぶ)き、貫則も軍勢に付いて行った。西の丸には仮の陣所が設けられ、丸に橘の家紋を染めた陣幕で覆われているのは、三陣に付いていた設営隊の仕事である。


「では、皆の者、兵をまとめたら出るぞ」


 後続の来るまであと半刻(約1時間)ほどあるが、それを待たずに貫則は兵を出した。途中、計略に気付いた寺町盛隆の反撃が有りはしたが、難なくこれを排除した貫則は瀧山城を占拠する。敗れた盛国は途中、伏兵に遭ったものの、一目散に大物城へ逃げ帰った。


 島村盛貫はその勢いのまま兵を駆って、鷹尾城を包囲する。鷹尾城は鷹尾山から南東に張り出した三段備えの曲輪を持つ城であるが、裏手の鷹尾山側には備えがなかった。これを知った島村貫則は、馬廻衆を率いて山の裏手から攻め掛かり、虚を突かれた瓦林定高は自害、鷹尾城を占拠する。


 八月(9月)廿七日(18日)、常恒の求めに応じて浦上村宗は摂津国神(かん)呪(のう)寺(じ)に本陣を置き、細川常恒も同陣した。


 これに対して細川六郎は伊丹城には池田信正を、富松城には薬師寺国盛を増援として派遣するが、|九月|《10月》廿一日(12日)には富松城が落城し、国盛は大物城へ逃れた。しかし、細川常恒・浦上村宗率いる軍勢に包囲され、今度ばかりは逃げ場もない。そして、ひと月余りの籠城の後、十一月(11月)六日(25日)、薬師寺国盛が細川常恒に降伏した。

大変長らくお待たせいたしました。

途中、瀧山城の攻略法で悩みまして、縄張図とにらめっこな毎日でした。

鷹尾城の方はまともに攻めれば難攻不落だが、弱点のある城だと知っていたので、サラッと流しました。


今回の茶道具は「古染付蟹形蓋置」。元は墨台(墨を置く台)だったものを蓋置として用いたものです。伝承などに詳しい方はピンッと来たかも知れませんね。


それでは次話でお会いしましょう!


令和8年2月14日

細川高国の法号が道永から常恒に改まっているのを反映させました。

寺町氏が奉公衆というのは引用した資料の間違いのようだったので訂正。

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