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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第三袋 干戈騒乱
33/42

第廿六服 布石誅神

細川尹賢は三好元長の失脚に焦り、柳本賢治を計略に掛けようとする。細川高国は東からの奪還ではなく、西からの攻略をすべく、備前を訪れ浦上村宗の協力を得た。浦上村宗の挙兵で時代の流れが加速する!

石(いし)を布(し)いて神(しん)を誅(ちゅう)す


小(さ)夜(よ)かぜもかすめる月の光かな

宿(やど)の梢(こずえ)の春ぞ色めく

    浦上美作守則宗『新撰菟玖波集』発句

    浦上美作守則宗『陰涼軒日録』次句


 五月雨(さみだれ)に烟(けぶ)る備(び)前(ぜん)国(のくに)の中でも、一(ひと)際(きわ)青々とした山並みに建つ三石城では、浦(うら)上(かみ)掃部(かもん)助(のすけ)村(むら)宗(むね)が家臣の中村助三郎秀(ひで)周(ちか)を引見していた。村宗の 傍(かたわ)らには 舎(しゃ)弟(てい)・近江(おうみ)守(のかみ)国(くに)秀(ひで)が坐(すわ)っている。普通、主君の後ろには 小(こ)姓(しょう)が仕えているものだが、村宗は小姓の類(たぐい)が好きではなく、刀持ちのような者はいなかった。小姓を置かず全て馬(うま)廻(まわり)衆(しゅう)としているため、 鍛(たん)錬(れん)に 勤(いそ)しんでいる。


「面(おもて)を上げよ」

「ははぁっ」

 

 国秀の 声掛けに中村秀周が顔を上げた。 野(の)良(ら)焼けをした黒い顔の男である。中村秀周は国(こく)人(じん)領主である浦上氏に仕える 豪(ごう)族(ぞく)であり、武士とはいえ半農半士だ。


 その傍らには白装束――白頭襟(ときん)に白い篠懸(すずかけ)や結(ゆい)袈裟(げさ)を着けた 如何(いか)にも 修(しゅ)験(げん)者(じゃ)といった出で立ちの男が居た。男は 念(ねん)珠(じゅ)、 錫(しゃく)杖(じょう)、 笈(おい)、 桧(ひ)笠(がさ)などの 法(ほう)具(ぐ)を 一(ひと)纏(まと)めにして 脇(わき)に置いている。


 城の中では 異質な存在であると言えるのに、存在感の薄さが不思議な人物だった。白装束の修験者と浅黒い秀周の色の対比が 眼に痛い。


「その者が件(くだん)の者か」

「左様でございます」

「浄(じょう)春(しゅん)坊奉(ほう)賢(けん)と申します」


 浄春坊奉賢と名乗った男は屈強そうには見えずのに、色は白い。美形というのとも違う線の細さはあるが、感情が消え失せた冷たい眼をしていた。 髪の色も日焼けなのか少し 薄い茶色のようにみえる。それでいて 何処(どこ)にでもいるような平凡な人相に見えた。人の記憶に残らない、存在感の薄さがある。


  値踏みをするような国秀に、村宗が苦笑いを 零(こぼ)す。言い掛けた国秀を手で制すると、村宗が人好きのする笑みをみせた。


「 儂(わし)が村宗じゃ。なるほどすばしこそうな者よな。そう堅苦しくせんで良い、寛(つくろ)げ」

「……はい」


 国秀に変わって村宗が口を開く。浄春坊は言葉少なに会釈をして、胡座(あぐら)をかいた。修験者というより忍のようだと、村宗は心の中で警戒する。


「話は聞いておるか?」

「はい」


 やはり浄春坊は言葉が少ない。秀周はいつものことなのか落ち着いているので、村宗は警戒を解いたように見せねばならぬと考えた。


「助三郎(中村秀周)、この者はいつもこうか」

「左様にございます。多くても二言三言口にすればいい方で」


 訛(なま)りを気取られぬ用心なのだろう、と村宗は考えた。面白いのは忍と相手に分からせようとしているように見えることだった。忍と分かれば警戒されるし、下手を打てば命を取られることもある。しかし、浄春坊にその懸念をしている様子はなかった。


「鉢(はち)屋(や)衆(しゅう)ではなさそうだ」

「はい」

「浄春坊は大和の出身だそうですが、児島の|五(ご)流(りゅう)修験の者にございます」


 尼(あま)子(ご)氏に仕える鉢屋衆の名が出て慌(あわ)てた秀周が浄春坊の身の上を話した。


 児島の五流修験とは、五流尊(そん)瀧(りゅう)院(いん)のことである。役小角(えんのおづぬ)の高弟五人――義学・義真・義玄・寿玄・芳玄――が尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。


 五流寺院は南北朝の頃まで繁栄していたが、再び衰えこの当時は尊瀧院のみとなっていた。というのも、細川武蔵(むさし)守 勝(かつ)元(もと)の縁者・覚王院円(えん)海(かい)に勝手な振る舞いが多く、憎まれていたことに因がある。応仁の乱を契機として打倒の声が高まったため、円海は危険を知って備中国西地阿知(あち)へ逃れた。そして、地阿知の地に熊野権現を勧(かん)請(じょう)して対抗勢力を集め、細川上総(かずさ)介(のすけ)勝(かつ)久(ひさ)より兵を借りて、応仁三年(西暦1469年)児島の新熊野山に乱入、一山三十有余の伽(が)藍(らん)僧坊を一夜のうちに焼き払ったのである。


 それから二十余年後、大(だい)願(がん)寺(じ)住職天(てん)誉(よ)の発(ほつ)願(がん)で再興に着手し、明応元年(西暦1492年)以降に本殿・大日堂・三重塔・長(なが)床(とこ)などが再建されたが、後鳥羽院の御(ご)廟(びょう)堂と一(いっ)切(さい)経(きょう)蔵(ぞう)及び楼(ろう)井(せい)塚(づか)の覚仁親王の御廟は再建できていなかった。


「そうか尊瀧院の者であったか。なるほどのぅ」

「はい」


 その五流尊瀧院は京の聖(しょう)護(ご)院(いん)門(もん)跡(ぜき)を本山とする修験寺院の宿(しゅく)老(ろう)にあたる。そして聖護院門跡と云えば足利将軍家と諸大名との仲介役を務めており、その勢力は全国に及んだ。そして近年では先代の細川京(けい)兆(ちょう)家当主細川右(う)京(きょう)大夫(のだいぶ)政(まさ)元(もと)が修験道に凝(こ)って聖護院を保護している。


――そういうことだろうな。


 村宗は浄春坊を細川京兆家の手の者と考えた。現実的に考えてそうでなくては常恒があれほど簡単に首肯(うなず)くはずがない。そのことは、家中にまでその手が伸びていたという驚きとともに、用意周到さが常恒の政治力の源であると教えてくれていた。村宗にとって、分家の野州家から本家の京兆家当主となった常恒は目標であり、憧れでもある。


――布石を活かすか


 自分がそれを利用することすら常恒の掌(たなごころ)の上であろうが、上手くすれば三カ国太守の座が転がり込んでくる。ここは利用されるのが良いと判断した。


「仔(し)細(さい)は助三郎(中村秀周)に任せる。浄春、頼んだぞ。褒(ほう)美(び)は思うがままじゃ」

「はい」

「ははぁっ」


 中村秀周と浄春坊は下がった。一(ひと)先(ま)ず、抑えの策はこれでよいとして、あとは戦の支度である。布石を打ったとて、本手の石が弱ければ話にならないのだ。十分な兵力と十分な糧(りょう)秣(まつ)が必要になってくる。


「三郎(浦上国秀)、戦支度は手抜かりなくな」

「兄上、兵(ひょう)粮(ろう)はどうにかなるとしても、兵が足りぬぞ」


 備前国は本来豊かな国である。播磨(はりま)と備(びっ)中(ちゅう)に挟まれ、北に美作(みまさか)がある山陽道の中央に位置しており、古くから優れた刀工が集まり、長(おさ)船(ふね)派、一(いち)文(もん)字(じ)|派など様々な流派が鍛(きた)えた刀は、備(び)前(ぜん)物(もの)と呼ばれて重んじられた。また、焼物も盛んで、備前立(たて)杭(くい)焼(やき)が有名である。人は多かったが、商人や職人の多い土地だ。兵となる者たちは多くない。


 もともとは吉(き)備(び)国という大きな国であったが、七世紀中に備前・備中・備後に分割された。さらに和銅六年(西暦713年)四月三日に北部六郡の英(あい)田(だ)郡、勝(かつ)田(た)郡、苫(とま)田(た)郡、久(く)米(め)郡、真(ま)嶋(しま)郡、大(おお)庭(ば)郡を割いて美作国が設けられたが、それでもなお国力等級は上(じょう)国(こく)で、距離等級は近(きん)国(ごく)とされている。この当時の中心は福岡であった。


 備前国内の郡(こおり)は東から


 和(わ)気(け)郡 備前市・赤磐市

 磐(いわ)生(なす)郡 岡山市東区の一部・赤磐市の一部

 邑久(おく)郡 |瀬戸内《》市・岡山市東区

 赤(あか)坂(さか)郡 岡山市北区の一部

 上(じょう)東(とう)郡 岡山市東区

 上道(かみつみち)郡 岡山市中区

 御(み)野(の)郡 岡山市北区の一部・南区

 津(つ)高(だか)郡 岡山市北区の一部

 児島郡 玉野市


 の八郡五一郷(ごう)を有する。国府は上道郡上道郷にあり、守護所は赤松氏の置(おき)塩(しお)城にあったが、大永二年(西暦1522年)に備前守護に村宗が補(ぶ)任(にん)されてからは三石城に移された。太閤検地では二〇万三〇〇〇石余で、全国三四位の石高を誇る。


 浦上氏は備前の出身ではなく、播磨国揖(い)保(ぼ)郡浦上庄(のしょう)の豪族で、梶(かじ)原(わら)平三郎景(かげ)時(とき)が播磨守護職から失脚した際、浦上郷の中臣城の初代城主となった紀長(は)谷(せ)雄(お)流の左衛門尉紀(きの)秀(ひで)村(むら)を祖とする。

 

 その後、茶の湯と関わりの深い大徳寺の開基・宗(そう)峰(ほう)妙(みょう)超(ちょう)――大(だい)燈(とう)国師は浦上掃部入道覚(かく)性(しょう)と赤松円(えん)心(しん)の姉との間に生まれた。赤松円心の帰依によって洛北紫野の地に小堂「大徳庵」を建立する。その後、宗峰妙超は後花園院の帰依を受け、さらに後醍醐帝より下総(しもうさ)葛(か)西(さい)御厨(みくりや)の替地として播磨国浦上庄を寄進され、これを一族に分配することを許された。当時の当主は浦上新左衛門尉為(ため)景(かげ)入道覚(かく)恵(けい)で、子・七郎兵(ひょう)衛(え)尉行(ゆき)景(かげ)は赤松氏に仕え、備前守護代となる。行景の子・帯刀(たてわき)左衛門尉助(すけ)景(かげ)は備前守護代として活躍。所司代となり美(み)濃(の)守を名乗って入道したが、応永十五年(西暦1408年)に伊勢国山田において誅殺された。これに代わって当主となった浦上美作入道性(しょう)貞(てい)は所司代となるも永(えい)享(きょう)の飢饉で面目を潰され失脚した。再び備前守護代に就いたのは子の掃部助宗(むね)安(やす)である。美作守則宗が当主となるや山城守護代・所司代となり、一族の伯耆(ほうき)守基(もと)景(かげ)に守護代を任せている。赤松政則は守護による直接支配を目論んで国許に戻ったが、播備美を失った山名氏が奪回する動きに出た。文明十五年(西暦1483年)十一月、備後守護山名俊豊は西備前の松田左近将監元成と結んで、福岡城を攻撃した。守る浦上氏、櫛橋氏らは政則に援兵を頼み防戦。だが、政則は山名氏の本国・但馬を衝くべく、反対する年寄衆を無視して播但国境の真弓峠に出陣、山名政豊と戦い大敗してしまう。


 存亡の危機に急ぎ京から則宗が戻ると国人衆の多くが則宗の許に馳せ参じ、政則は堺に出奔した。赤松氏の実権を掌握した則宗は小(こ)寺(でら)加賀(かが)守則(のり)職(もと)らと会談して政則を廃し、赤松氏一門である有馬刑(ぎょう)部(ぶ)大輔(のたいゆう)則(のり)秀(ひで)の子・慶(けい)寿(じゅ)丸(まる)に継がせる画策をしたが幕府に却下された。これは別(べっ)所(しょ)大(おお)蔵(くら)大輔則(のり)治(はる)による政則家督復帰を足利義政が認めたためで、これによって有馬右京亮(のすけ)直(なお)祐(すけ)が山名に寝返り、赤松一族の在田、広岡氏が新たな赤松家当主擁立を目論むなど播磨国衆の混迷は深まってしまう。則宗は政則と和睦し、西播磨の失地回復に奔走した。


 則宗の専横は政則没後から始まる。当主に兵(ひょう)部(ぶ)少輔(のしょうゆう)義(よし)村(むら)を擁立すると、一族の伯耆守村(むら)国(くに)が則宗打倒の兵を挙げたが、宇(う)喜(き)多(た)平(・)左衛門尉(のじょう)能(よし)家(いえ)の働きもあって撃退した。


「そんなことは平左(宇喜多能家)に申し付ければどうにでもなる」

「兄上は何でも和泉入道(宇喜多能家)殿を頼られる」


 宇喜多能家はこの頃、和泉(いずみ)入道常(じょう)玖(きゅう)と名を改めている。永正十五年(西暦1518年)の船(ふな)坂(さか)峠(とうげ)の戦いで義村を敗走させ、和泉守を与えられる。大永三年(西暦1523年)、赤松次郎政村を擁立した浦上村国と小寺則職を討つべく、村宗は播磨に出兵した。この戦いで、先陣を務めた能家の嫡(ちゃく)子(し)・四郎義家が村国の策略にあって討死すると、能家は自ら死地を求めて敵陣に突撃奮戦し、浦上軍に勝利をもたらす。この能家の奮戦を伝え聞いた細川右京大夫高国は、名馬一頭と名のある古(こ)天(てん)明(みょう)の釜(かま)を贈(おく)った。この古天明の釜は釻(かん)付(つき)が長く突き立っており、身は潰れた瓢(ひさご)のような形で、唐(から)犬(いぬ)のように見えることから「唐(とう)犬(けん)」の銘(めい)で呼ばれる。犬馬の労を賞するという高国の心の現れであった。


 義家の討死が堪(こた)えたのか、大永四年(西暦1524年)には家(か)督(とく)を庶(しょ)長(ちょう)子(し)の八郎興(おき)家(いえ)に譲って出家した。とはいえ、興家はまだ三〇歳に満たず常玖の後見が必要で、常玖は村宗の側近として留め置かれている。


「あれより役に立つ男を儂は知らん。戦は強い、政(まつりごと)も出来る、その上商(あきな)いも上手いでな」

「足許を掬(すく)われぬようお気をつけください」


 国秀の諫(かん)言(げん)は一笑に付され受け流される。この懸念は四十年後に的中するのだが、村宗の預かり知らぬことであった。先ずは播磨の統一が先決である。口にした国秀とて本気でそう思っている訳ではなく、憎まれ口を叩いただけであり、二人の意識はそのまま東播磨出兵の支度へと移った。


 翌享禄三年(西暦1530年)正月、東(ひがし)条(じょう)の依(より)藤(ふじ)太郎左衛門尉村(むら)忠(ただ)への使者に立ったのは島村弾(だん)正(じょう)左衛門尉貫(つら)則(のり)である。この年は大雪で、豊(とよ)地(ち)城(じょう)の門前が真白に埋(う)め尽くされていた。


「弾正左衛門尉(島村貫則)殿、ようこそ我が城へ」

「これは忝(かたじけ)ない。当主自ら御出迎えとは畏れ多いですな」


 島村貫則は備前国邑久郡郡代で、元々は則貫と名乗っていたが、村宗の下剋上以後、上下を入れ替えて貫則と改めている。これは村宗の赤松氏に対する嫌がらせで、本人は「殿の酒の席での戯(たわむ)れを儂が真に受けてしまったのよ」と笑っていた。ちなみに島村氏は播磨国多可郡(現・西脇市)島村郷を本(ほん)貫(がん)とする島村城の城主である。島村氏は浦上氏が揖(い)保(ぼ)郡浦上庄(のしょう)を本拠としていた頃からの家臣だ。


「三石(浦上村宗)殿は家臣を大事にするとか。これしきの事は当然では?」

「殿と同じく豊地(依藤村忠)殿もざっくばらんな方であられたか」


 貫則の印象ではもっと堅物であったのだが、歳を重ねたこともあって、人が熟(こな)れたのか。いずれにせよ見誤っては足許を掬(すく)われかねないと、貫則は気を引き締めた。


 依藤氏は鎌倉御家人からの一族で、文治二年(西暦1182年)東条谷の地頭に補任された宇野八郎山城権(ごん)守季(すえ)豊(とよ)が小沢城を築城、入部して土着した。この宇野氏は村上源氏ではなく、藤原南家流で、明徳三年の相(しょう)国(こく)寺(じ)供養式に参列した記録に「依藤太郎左衛門尉藤原資(すけ)頼(より)」とある。入部以後、小田城、豊地城へと進出し、東条谷三村を支配した。


 その後、依藤氏は南北朝にて赤松氏に従い筆頭年寄(おとな)衆となって勢力を伸ばした。嘉(か)吉(きつ)の乱でも赤松大(だい)膳(ぜん)大夫満(みつ)祐(すけ)に従い、幕府軍と最後まで戦ったため、一時没落している。そして赤松氏再興とともに旧領に復した。


 赤松氏が衰退して、浦上氏の勢力拡大すると、連携して勢力を拡大した。東播磨には守護代の別所氏おり、これを牽(けん)制(せい)する意味もある。村忠は「忠誠心だけでは家は守れない」と父・豊(ぶん)後(ご)守秀(ひで)忠(ただ)から口(くち)煩(うるさ)いほどに聞かされており、それ故か、島村貫則に対しても丁重だ。


「それにしてもお久しぶりですな、豊地(依藤村忠)殿。置塩(赤松政村)殿の年賀で会うたのが最後でしたから、彼(かれ)是(これ)十年ほどになりますか」


 浦上村宗が赤松義村を暗殺したのは永正十八年(西暦1521年)で、その年の年賀を最後に浦上村宗は年始の伺(し)候(こう)をしていない。その頃は「豊地殿」などと言える立場ではなく、「東条様」と呼んでいた。今は依藤氏も年賀には赴かず、独立している。


「なにせ懐かしい。これからは顔を合わせる機会も増えましょうから、よしなに頼みます」

「それは重(ちょう)畳(じょう)。頼りにさせていただきます」


 依藤氏も今や浦上・小寺・別所三氏の拡大に挟まれて、浦上氏を頼らざるを得ない状況である。いずれ、浦上氏が播磨守護職を手に入れれば、依藤氏も浦上傘(さん)下(か)となることは明白で、村忠は先見の明があると言えなくはなかった。


 表ではなく、奥座(ざ)敷(しき)へと案内された貫則は一瞬片眉を跳ね上げたが、連れの無表情に慌てて表情を戻した。村忠は東向きに坐り、対面に貫則が着く。連れは開けられたままの障子の外に控えた。


「それで、状況は如何なのですか」

「三木城には堺(さかい)の手の者が出入りしている様子で」


 三木城は播磨国美(み)嚢(なき)郡三木に築かれた平山城で、代々別所氏が城主を務めていた。別所氏は赤松氏の分家で、赤松円心の甥・五郎敦(あつ)光(みつ)が「赤松の別所五郎殿」と呼ばれたのを祖(そ)とする。敦光の子・五郎敦(あつ)則(のり)は赤松則(のり)祐(すけ)――律師妙(みょう)善(ぜん)の三男・右馬助持(もち)則(のり)を養子とした。本家との距離も近く、親類衆の筆頭である。そして、現在は独立して細川六郎に味方して、その勢力は東条谷の直ぐ近くまで来ていた。


「では、そろそろ?」

「まだ小競り合い程度です。己(おの)が手でなんとかしようとし足(あ)掻(が)いているかと」


 貫則は京と豊地の距離を頭で測った。軍勢を急がせれば五日ほどで到着するが、途中三木城に立ち寄るであろうことやそこから戦をすることを考えれば、十日ほど見込んだほうがよい。疲れた兵で戦は出来ぬ。戦上手の柳(やなぎ)本(もと)弾正忠(のじょう)賢(かた)治(はる)が、それが分からぬとは思えなかった。


「糧秣は十分に?」

「此処には半年分ほどですが、一年でも二年でも持ち堪えられます。それに、豊地城のみを攻めても、落とすことは叶いますまい」


 意味を図りかねていると、破顔した村忠は東条谷の絵図を取り出した。そこには小沢城・小田城・豊地城が描かれている。豊地城からみて東条川を挟んで北に小沢城があり、その支城としてさらに南に屋(や)口(ぐち)城、北に土(つち)沢(さわ)城、豊地城の西の川が南へ膨(ふく)らんだ北岸に小田城があった。


「どういうことですかな」

「依藤の城は、すべて隠し通路で繋がっておりましてな」

 

 そして絵図に碁石を置いていった。白石が置かれたのは川である。それぞれの城は川に近く、船着き場を有する城さえあった。それを鑑みると、豊地城を包囲しようにも、他の城や川に邪魔されて囲み切ることができなくなるのが分かる。それは、補給路を断つことができないことを意味した。これが、全ての城に当てはまり、東条は大軍が展開できる広さはない。つまり――


「敵が全ての城を囲み切ることが出来ぬ故、落ちることはないと?」

「そういうことです」


 村忠は自信満々に答えた。なるほどと貫則も肯く。村忠の自信振りに得心がいった。


 東条は摂津(せっつ)国有(あり)馬(ま)郡を抜けて京に向かう街道筋で、山陽道の裏道に当たる。ここから敵が進軍するとして、三木城からは城(しろ)林(ばやし)城が近く、山を迂(う)回(かい)して川沿いに片(かた)山(やま)城、念(ねん)仏(ぶつ)城が並んでいた。軍勢が広く展開できる場所がない、まさしく「谷」である。


「一年でも二年でも持ち堪えてご覧に入れましょう」

「その間に、柳本弾正が首級(くび)を取れば……」


 貫則の評価も上がる。主君・村宗は宇喜多常玖を重んじており、代々の家老たる貫則としては面白くなかった。それ故、この策を国秀に献じて、細川武蔵入道常恒まで抱き込んだのである。


「左様。攻めあぐねるでしょうから寝首を掻く機会はあるかと」

「では、浄春坊を預けます」


 村忠と貫則は頷き合う。攻めるのは四月下旬、念仏城の出城を幾つか落とせば、田(た)尻(じり)大和(やまと)守盛(もり)実(ざね)が別所大蔵大輔村(むら)治(はる)に後(ご)詰(づめ)を頼むであろうし、村治は柳本賢治に援軍を求める筈だ。


「万事手筈通りに――抜かるなよ、浄春坊」

「はい」


 浄春坊は豊地城に留め置かれ、貫則は満足気な顔で出ていった。村忠は面白そうに浄春坊を眺める。


「さて、戦支度をするか」


 微動だにせず、無言のままの浄春坊に飽きたのか、声も掛けず部屋を出ていく。取り残された浄春坊であったが、案内の者が来るまで身(み)動(じろ)ぎ一つしなかった。




 柳本賢治は陣屋の奥で苛(いら)ついていた。豊地城近くの玉(ぎょく)蓮《れん》寺(じ)に陣を置いたのが五月(6月)十五日(10日)である。それから一月半もの間、豊地城をいくら攻めても埒(らち)が明かず、柳本賢治の酒量が増えていた。酒の相手を務めるのは馬廻衆の柳本源七郎治(はる)久(ひさ)である。


「殿、酒が過ぎるのではございませんか」

「分かっている……が、憂(う)さを払わねば、やり切れん」


 賢治はそう言いながら、亡き兄(香西元盛)と共に戦った菱(ひし)木(き)の戦いを思い出していた。川があるというだけで、これほどまで城を攻めあぐねるとは思っても見なかったのである。


 あの戦いでは、中洲に進んだ軍勢の後背に舟で回り込まれ、小(こ)勢《ぜい》に中央突破を許すという失態を犯した。今回は後方に問題はないが、川に阻(はば)まれて城の包囲が不完全である。附(つけ)城(じろ)を築いても、敵兵は自由に動き回っていた。


「そうはいいましても、兵の士気に関わります」

「俺の深酒の所(せ)為(い)ではあるまいよ」


 この一月半、攻めても攻めても城側の疲(ひ)弊(へい)が見えないというのは、異常なことであった。中には豊地城は呪われていると言い出すものさえ居る。雑兵の繰り言と放置していたが、 素破(すっぱ)が紛れ込んでいる可能性が高かった。


 依藤村忠が念仏城を攻め、城主の田尻盛実が四月(5月)廿日(17日)に討死。嫡子・小次郎盛忠は逃れて三木城へと駆け込んだ。別所村治は報復の軍を起こし、念仏城を取り返したまではよかったが、依藤村忠を討たんとして、小寺氏と合力して豊地城を攻めたものの、手痛い反撃を受けている。村治は細川六郎に援軍を願い出て、柳本賢治が一万の兵を率い乗り出した。


「御屋形様に増援を求めては?」

「徒(いたずら)に兵を増やしてもこの地形ではな……」


 東条谷は蛇行する川と狭(きょう)隘(あい)な谷が続いていた。堺からの増援よりも別方面からの協力体制がほしいところだが、北も西も細川常恒の陣営に組み込まれている。


 さらに、賢治を苛つかせているのは、可(か)竹(ちく)軒(けん)周(しゅう)聡(そう)によって、足利義(よし)晴(はる)との単独講和を挫(ざ)折(せつ)させられたことであった。それが、五月(6月)廿五日(20日)のことである。賢治が出陣して半月も経たぬ間に、堺幕府の方針がガラリと変わってしまったのだ。


「今、何時か」

「八つの鐘から大分経ちましたので、そろそろ八つの終わり(午前3時頃)かと」


 外に目をやれば、月も見えぬ。それもその筈、明ければ三十日――晦(つごもり)であった。闇が帳(とばり)を降ろしている。

 

「そうか……源七郎は先に休め」

「はっ」

 

 治久の立ち去る足音を聞きながら、賢治はさらに酒を煽(あお)った。瓶(へい)子(し)を抱えて、浴びるほどに盃(さかずき)を重ねる。それはまるで兄への弔いであるかのようだった。


「……うん?」


 賢治はいつの間にか眠っていたらしい。部屋に風が吹き込んだ気がして、目を開いた。その瞬間、首が燃えるように熱くなる。熱さのあとに痛みが走った。


「がはっ?!」


 曲者っと声を挙げようとして口を開いたが、飛び出したのは血の塊だった。首筋に激痛が走っている。斬られたのだ。


「……ごぼっ……」


 首を抑えるとヌルっとした温かい液体が溢(あふ)れている。


――血だ。


 ぐらりと、賢治の体が傾く。


 物言わぬ屍(しかばね)となった賢治を浄春坊が見下ろした。懐紙で黒光りする匕首(あいくち)を拭(ぬぐ)うと黒漆の鞘(さや)に収める。闇に紛れるためであろうか、黒に染められた装束に身を固めた浄春坊は合(がっ)掌(しょう)して、その場を立ち去った。

書き上がりました。

途中、ChatGPTと依藤氏のことで挌闘しつつ、浦上氏や別所氏のことを盛り込み過ぎて、五百字もオーバーするという状態に(笑)


ツイ友のかりんさんがルビ振りを手伝ってくださったお陰で、普段は二週間も掛かるルビ振りが一週間足らずで終わりました!(嬉)


かりんさんには大感謝です!


今回、新規登場したのは依藤村忠(オリジナル)と中村助三郎(秀周はオリジナル)、浄春坊(奉賢はオリジナル)、島村貫則(島村貴則)ですかね。


まだ配役は決めていませんが、島村貫則は津田健次郎、浄春坊には野間口徹がいいと思ってます。


では次話でお会いいたしましょう!


令和8年2月14日

細川高国の法号が道永から常恒に変わっているのを反映させました。

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