380話 黄金の天秤 Ⅱ 2
ルナが主軸から天秤棒を外すと、そのときは大した重さがないものに思われた。ルナは半泣きで、てってって、と、ルナにしては精いっぱいの速度で三階のシャイン・システムに行き、応接室まで行って、そこから真砂名神社に飛んだ。
神社の大路はあいかわらず人がいなかった。そのことは幸いだった。
いつのまにか月の女神が、ピンクのウサギの姿となって、ルナのカーディガンのポケットに入り込んでいた。
『ルナ、階段を上がるのよ』
「ひゃい……」
K05区に着いたとたんに、天秤は水でも含んだように重みを増し――階段を前にして、それは決定的なものとなった。
シシーのカードを置いた反対側の、向かって右側の皿に、ガレキのような宇宙色の黒曜石が山盛りになっている。先日、アニタが階段を上がったときと、同じだ。
「お、おも、重いいいいいい」
ルナは後ろにひっくり返りそうになった。
『がんばって上がりなさい! あなたが乗せたんだから!』
月を眺める子ウサギの叱咤を受けながら、ルナは必死で天秤棒を担いで上がりはじめた。
「お、おも……」
たとえるなら、大きな買い物バッグがパンパンになるほど詰め込まれていて、中身はぜんぶ牛乳パックでしたというぐらいの重さだった。
「ひぎ、ひぎい……」
持てないことはない――とはいえ、それを持って百八段の階段を上がるのはつらく、ルナの肩に天秤棒がぐいぐい食い込んだ。
ルナは十段目で、いったん天秤を下ろして息を整えた。カーディガンを脱いで腰に巻いた。これはつらい。最初に階段を上がったときも、運動不足程度のつらさしかなかったルナだ。みんながヒイヒイ唸りながら上がっていた意味が、ようやく分かった気がした。
「ぴぎ……ぷう、」
ルナは何度も休みながら、階段を上がった。
半分まで来たら、いきなり軽くなった気がした。ルナが驚いて顔をあげると、眼前には、黒衣の男神。
「あっ」
ルナがお礼を言うまえに、月を眺める子ウサギの叱咤によって、すぐ重さはもとにもどった。
『兄さま、ルナを甘やかさない!!』
『……』
夜の神が、肩をすくめて手をひっこめた。どうやら軽くなったのは、夜の神が持ってくれたかららしい。妹神に怒られて手は放したが、それでも、心配そうについてきてくれるので、ついにポケットウサギは叫んだ。
『邪魔をしないで!』
『……』
夜の神は眉を上げ、しかたなく姿を消した。
『まったく、兄さまは、これだから……』
月を眺める子ウサギがぶつぶつ言っている。
「ルナちゃーん! なにをやっとるんじゃあ!」
「ふえ?」
ルナが汗だくで振り返ると、階段下には、ナキジンやカンタロウ、紅葉庵向かいのお茶屋の店主をはじめ、大路の店舗の皆が、階段下に集まっていた。
「か、階段、上がってますう~……ふべっ!!」
ルナはそれだけ言うのがやっとだった。うさこが、はやく上がれと言わんばかりに、月のステッキで脇腹を小突くからだ。
「い、いたいうさこ!」
『無駄口たたかないで、シャキシャキ上がれ!』
どこかのクジラみたいな台詞を吐いて、うさこはルナを威嚇した。夜の神は優しかったが、自分が一番手厳しい。
「ピンクのウサギのくせに! ぴんくいろのくせにーっ!」
『ピンクになにか文句があるの』
「ありましぇん!!」
ルナが二歩ずつ、ゆっくりゆっくり階段を上がるたびに、黒曜石は、銀白色の光になって消えていく。
シシーの前世の罪が、すこしずつ消えていく。
「ふへ、ふひゃ、ぴぎい……」
天秤を下ろして、膝に手を突いて休憩した。座り込んだら、もう立てなくなりそうだった。ぽたりと白い石畳に滴がこぼれて、雨かと思ったが、雨は降っていない。ルナの汗が落ちただけだった。
ルナは、ヒイヒイ言いながら、八十段くらいまで上がって――あとすこしだと、上を見上げて、腰を抜かしかけた。
「――!?」
なぜなら、階段の上の、かつて寿命塔が出てきたあたりに、部屋に置いてきたはずの天秤の主軸が鎮座していて、その周囲に、みっしりとひとが固まっていたからだ。
いや――ひとではなかった。
さっき助けてくれた夜の神、太陽の神、昼の女神、イシュメル、ノワ、メルーヴァ姫、アストロスの兄弟神、エタカ・リーナ山岳の神、ラグ・ヴァダの女王に、百五十六代目サルーディーバ――ほかにも、ルナの知らない神様が、たくさん集まっていた。
「真砂名神社に祀られとる神が結集しとる……」
ナキジンは口も目も真ん丸にして階段上を見上げていたし、階段下にどんどん人が集まってきたのは、それが理由だった。
「なにが起こっているんじゃ」
「神様が、みんな集まっとるで!?」
ルナでもわかった。自分のしでかしたことが、尋常でない事態を招いたことに、ようやく気付いた。
神々が見守る中、汗だくになりながら、ルナはようやく階段を上がり切った。
「ひぎい」
ルナは悲鳴とともに、ようやく天秤棒を、主軸に預けた。そして、地面に座り込んだ。ピエロをおんぶして走り回っていたことで、すこしは鍛えられていたのかもしれない。前のままだったら、もっとつらかっただろう。
神々はなにも言わず、ルナを見守っていた。彼女が息を整えるのを、待っていた。
上がることが精いっぱいで忘れていたが、皿の黒曜石はすっかり消えて――シシーのカードも、なかった。
「あ、あれ? カード……」
『カードボックスにもどったのよ』
うさこの呆れ声がし――それは、ポケットからではなかった。めのまえに、ウサギの姿ではなく、黒髪の美しい女神が険しい顔で立っていた。
ルナは、あらためて泣きそうな顔で、「ごめんなしゃい……」と神の集団に向かって頭を下げた。
『ルナ、無事でよかった』
イシュメルが膝をつき、ルナの肩をつかんでいた。いつもの優しい顔ではあったが、真剣だった。
『乗せたカードが、ふつうの人間でよかったな。もし、地獄の審判にでも値するようなカードが乗ったら、一大事だった』
「――!」
ルナのウサ耳が、ぴょこん、と立った。そして、ぷるぷると震えだした。
『もしそうなったら、あなたが地獄の審判を肩代わりしなければならないのよ』
カザマそっくりの顔をした真昼の女神も、困り顔で言った。ルナはますます、目に涙をためた。
月の女神が怒ったのも無理はない。知らなかったとはいえ、ルナはとんでもないことをしたのだ。
『大きな力は、それだけ反作用も大きい。黄金の天秤は、注意に注意を重ねて、使用せねばならぬ』
ルナははじめて見たが、まるで氷の塊でできたような男神が言った。エタカ・リーナ山岳の神だろうか。となりにいる、ペリドットに似た美女は妻神か。
『君以外の者が、天秤にカードを乗せたところで、なにごとも起こらぬ。いかづちのひとつも食らうであろうが。だれかが、君に無理やりカードをあげさせても同じだ。だが、君が君の意志でもって皿にあげたカードは、そこから罪の浄化がはじまる。君が代わりに、階段を上がらねばならぬ』
百五十六代目サルーディーバが、厳かに言った。
「真砂名神社で預かりましょうか」
どこかで聞いた声がしていると思ったら、イシュマールだった。彼は、神々に向かって言っていた。
『それがよい』
『そうしたほうがいい。安全面でも』
神々は、口々に言った。
『さて、罰則はどうしようかしら』
月の女神が腰に手を当て、怖い顔でルナを見下ろすのに、ルナは目にいっぱい涙をためてエプロンを握った。シシーのカードに異常が起こって怖かったとはいえ、あれだけ注意をされたのに、黄金の天秤にカードを置いてしまったのはルナだ。
『ルナも怖い思いをした。これで懲りただろう、許してやれ』
『兄様の意見は却下』
夜の神はかばってくれたが、月の女神は怖い顔でそう言った。
『ルナ、どんなときでも冷静にならなきゃいけない。そういう意味ではあなた、さっきのは0点よ』
やはり、これらは、ルナへの「試験」だったのだ。
0点はへこんだ。学校のテストでも、さすがに0点は取ったことがなかった。
「あの、あのね?」
ルナはやっと言った。
「シシーさんはどうなったの? だいじょうぶですか? あたし、呪文を唱えたら、糸がへんになって……」
ルナは必死で説明を始めたが、神々は、ルナの説明で事態を解したのではなかった。神々の、神々たるゆえんを持ってだ。つまり、ルナの説明は、神であっても意味が分からなかった。
『それは、ルナのせいではないよ』
ルナは、今日初めて太陽の神の声を聞いたが、アントニオそっくりだった。イシュメルに負けないほどひげもじゃだったが。
『おそらく、コトが解決に動き出した瞬間をルナは見たのだろう。ルナの呪文のせいではない』
太陽の神が指を鳴らすと、手のひらに、シシーのカードが現れた。
『あなたがなにもしなくても、ハクニーがシマリスを救済すると、あなたも分かっていたでしょう』
月の女神はため息交じりに言った。
太陽の神の手のひらの上で、シマリスのカードの内容が変化していく。泣いているシマリス――だが、背後にいる化け物たちは、いったんはシマリスに手を伸ばしたが、すぐにそれができなくなった。彼らは互いにつかみ合い、大ゲンカを始めた。
ルナの夢では、ハクニーが現れて、化け物たちを蹴散らし、シマリスを背に乗せて、闇の中へ去っていくシナリオだったが――。
『おまえがシマリスの罪を担いで階段を上がったために、運命が変わった』
太陽の神は言った。
「――!」
『マ・アース・ジャ・ハーナの神は、決まりどおり、シマリスの罪をお許しになられた』
『この者どもは、滅ぼしあうだろう』
『自滅の道を歩む。ハクニーをはじめ、その手先は“手を汚さず”ともすむ。――ちと、時期が早すぎたが、これもこれで、ひとつのさだめ』
『これは三年後に起こり得ることであった』
『時期が早まったのだ。シマリスの罪は、階段を上がらずとも、あと三年すれば消えた』
『しかし、早まった。シマリスは自ら階段を上がらず、お主が労した』
『シマリスは、どこかで代償を払わねばならぬ』
神々の言葉に、ルナはウサ耳をぷるぷるさせて、ふたたび涙をあふれさせた。
「ご――ごめんなしゃい、ごめんなさい」
『代償と言っても、おそろしいことが起こるのではない』
太陽の神は、ルナを励ました。
『まあ――そうだな。ハクニーとの結婚が、三年後に延びるくらいだな』
あの娘は、ずいぶんな苦労を重ねてきた。
太陽の神はそう言って、ルナの涙をぬぐった。
『長の苦労から解放される時期ではあった。だが、おまえはすこし、お節介をしすぎたのだ』
『あなたが天秤にカードを乗せなくても、解決することだったの』
真昼の女神は、優しく言った。
『なにがあっても冷静な判断を忘れないこと。ZOOカードを扱っている最中には、無駄口をきかないこと。呪文をあれもこれもと唱えるのは危険なのよ。アンジェリカが、なぜZOOカードの占術中に、ひとの名前を呼べなかったか分かる? あれは、混乱しないようにするためと、よけいな言霊を減らすため』
『集中するために、友人をそばにおくのはよしなさい』
『そうよ。ZOOカードの結果を判断するのは、あなたの友人ではない。あなたなのよ。素人が関わるのは、問題をややこしくするだけ。相談は、アンジェリカかペリドットだけにしなさい』
「……ひゃい」
優しい口調ではあったが、真昼の神も太陽の神も、そう忠告した。リサやキラに占術を見せたことも、よくないことだったのだ。ルナはますますちいさくなった。
『総合して、いまのところ、点数は30点くらいね』
月の女神は容赦なく言ったが、夜の神は、
『だが、ちゃんと天秤を担いで上がり切った。50点くらいで――』
『あにさま』
月の女神の厳しい声がさえぎった。
『まあ――失敗があってこそ、伸びるものでは。ツルと白タカの件に関しては、わたしは80点くらいあげてもよいものと思う』
グレンそっくりのアストロスの弟神は、そういってくれた。
『そうだな。ハクニーとシマリスについても、これからというところ。ルナよ――あの娘は、よくない縁者を持っている』
アストロスの兄神は、ルナと視線を合わせてしゃがんだ。アズラエルそっくりの声と顔だが、こちらは粗野なところはぜんぜんない。
『リスの娘だけではない。馬の男もまた、縁者のしきたりによって、苦しめられている。ふたりは縁者によって苦しむという縁では共通している』
月の女神がよけいなことをいうなという目で兄弟神を睨んだので、弟神が先に引っ込んだ。――頭を掻きながら。
兄神は、苦笑しながら、後ろに下がった。
「ど、どうしたらよいでしょうか?」
ルナは聞いたが、神々は顔を見合わせた。月の女神だけが、「言っちゃダメ」というふうに、首を振った。やがて、太陽の神が言った。
『リスの問題が、完全に解決するまで待て』
『ルナ、ハクニーの真名は見つけた?』
真昼の女神が聞いた。ルナは「うん」とうなずいた。
「“特別なハクニー”だって」
『“特別”?』
太陽の神がつぶやいた。神々は、ルナに分からない言葉で、ざわざわと騒ぎだした。
『特別とな……』
『なるほど、特別か』
『背景は空白? なにもなかった?』
真昼の神の問いに、ルナはまたしてもうなずいた。
『そう――そうなのね』
『ならば、話は早い』
イシュメルが言った。
『明後日ごろには、始末がついているだろう。そのときに』
『では、そうしよう』
ルナにはまったく意味が分からなかったが、神様たちはそう言って、順に消えていった。ノワは結局、なにも言わなかったわけだが、『ルナ、酒を用意しといてくれな』と言い残すことだけは忘れなかった。
「……」
ルナは呆然と、皆が消えるのを見た。月の女神も消えた。罰則の話は、おかげでうやむやになったが、シシーは大丈夫なのだろうか?
ルナは肩を叩かれて、振り返った。
「ルナ、天秤は、真砂名神社で預からせてもらうぞ?」
「あ、は、はい! おじーちゃん、よろしくお願いします!」
「まあ、元気出せ」
イシュマールは、ルナの手に飴玉をみっつ、握らせた。それから、こっそり耳打ちした。
「夜の神様が、月の女神さんを説得して、罰則はなしにしてくれると」
「……」
ルナは、イシュマールが天秤を抱えていくのを見送り、アホ面をさらして十分間停止した。
「ルナちゃん、いったい、なにがあったんや?」
「だいじょうぶじゃったか?」
「カンタおじーちゃん、ナ、ナキジーちゃん、……」
階段側面を上がってきたらしいナキジンとカンタロウの顔を見たら、ルナの腰がへなへなと砕けたのだった。




