↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/10

第四章 牙を研ぐ日々

 カシラとの命懸けの契約が交わされてから、アジトにおけるシルカの日常は一変した。 かつて路地裏のゴミ箱をあさり、死人のように息を潜めていた少女の姿はそこにはない。夜が明ける前から、シルカはアジトの裏手にある広大な岩場で一人、己の肉体を極限まで追い込んでいた。



「ハッ……、ハッ……、ハッ……!」



 粗い息が、冷え切った朝の空気に白く弾ける。 シルカは自らの体重にそぐわない重厚な鉄の塊――カシラから投げつけられたあの無骨な戦闘用ナイフと、重量のある鍛錬用の鉄棒を握りしめ、岩肌に向かって何度も振り下ろしていた。 喰らい、体力を戻すだけでは意味がない。身につけた肉と血を、すべて殺傷のための筋肉と反射神経へと打ち直さなければならないのだ。 掌の皮膚が破れ、赤黒い血が鉄の柄に滲む。だが、シルカの赤い瞳は微動だにしなかった。痛みを脳の隅に押し追いやり、ただ打撃の角度、踏み込みの深さ、重心の移動だけに意識を研ぎ澄ませる。「おいおい、朝っぱらから正気かよ……あのガキ」 「毎日毎日、手から血流しながら岩ぶん殴ってやがるぞ……」朝の哨戒に向かう盗賊団の男たちが、引きつった顔でシルカの背中を遠巻きに見つめていた。 最初の頃、男たちはシルカを「頭領の物好きな気まぐれで拾われたペット」程度にしか思っていなかった。いつ激務に耐えかねて音を上げるか、あるいはカシラの機嫌を損ねて叩き潰されるかを面白おかしく賭けていた者さえいた。 だが、その予想は完全に裏切られた。 シルカは愚直なまでに鍛錬を重ね、カシラから与えられた大量の飯を喰らい、アジトの荒くれ者たちがこなす倍以上の見張り業務を自ら買って出た。痩せこけて骨が浮き出ていた体躯にはしなやかな筋肉がつき始め、無駄のない引き締まった「戦う者」の輪郭が急速に作られていった。アジトでの生活が始まって一ヶ月が過ぎた頃、シルカの「牙」が試される機会が訪れた。夜深い時間帯。アジトの東側に位置する廃坑道口の見張りに立っていたのは、シルカ一人だった。 カシラが率いるこの盗賊団は、近郊の物流と闇ルートを裏で支配する巨大な勢力だ。ゆえに、その縄張りや保管されている物資を狙う小規模な野盗や、敵対組織の密偵が夜陰に紛れて潜入を試みることが珍しくない。



(……来た)



 冷たい岩壁に背を預けていたシルカの耳が、微かな砂利の擦れる音を捉えた。 暗闇の奥から忍び寄ってくる影は三人。身のこなしからして、足回りの軽い泥棒か、様子を探りに来た下っ端の潜入者だ。「おい、見張りが一人しかいねぇぞ……なんだ、ガキじゃねぇか」 「しっ、声を出すな。運がいい、首を絞めて静かに始末しろ」暗がりから忍び寄る男たちの低い囁き声。彼らはシルカが小柄な少女であることを見て取り、容易い獲物だと踏んで刃を抜き放った。 だが、次の瞬間――足音を殺して背後に迫った男の視界から、少女の影が消えた。



「――がっ!?」



 鈍い衝撃と同時に、先頭の男の喉元に強烈な突刺が叩き込まれた。 シルカは敵が間合いに入った瞬間、躊躇なく自ら間合いを詰め、刃の柄頭で相手の気管を粉砕していたのだ。男が苦悶の声を上げて崩れ落ちるより早く、シルカは滑らかな動作でその男の腰から短剣を抜き取り、二人目の男の太もも深くへと突き立てた。



 「なっ……ひぐっ!?」「騒ぐな。呼吸を乱すな。分母を減らすだけだ」闇の中で輝くのは、冷酷極まりない赤い瞳。 シルカの動きには、一切の無駄も容赦もなかった。ただ生き残るため、敵を無力化するためだけに研ぎ澄まされた合理的で冷酷な殺傷術。襲いかかってきた三人目の刃を紙一重で身をかわすと、シルカはその腕を掴んで支点にし、相手の喉首へ己のナイフを深々と突き刺した。鮮血が夜の空気に吹き出し、シルカの銀髪と頬を赤く染め上げる。 数十秒にも満たない短い交戦。三人の侵入者は、一人は窒息で絶命し、二人は血の海の中でピクピクと痙攣していた。「ふぅ……」シルカは返り血を拭おうともせず、死体の懐から使える武器と金品を冷徹に手際よく回収すると、そのまま死体の首根っこを掴んでズルズルとアジトの中央へと引きずっていった。松明の光が揺れるアジトの大広間。 夜間警戒の交代に集まっていた部下たちの前に、血まみれのシルカが三体の侵入者を転がした。



「東の坑道口。泥棒が三人。処理した」



 無機質な報告。返り血を全身に浴びながら、表情一つ変えずに佇むシルカの姿に、大広間にいた荒くれ者たちは息を呑み、言葉を失った。 そこにいたのは、守られるべき弱者でも、ただの浮浪児でもない。自分たちの誰よりも冷徹に、躊躇なく死を振りまくことのできる「本物の狂人」だった。「……おいおい、マジかよ。あいつ、一人で三人を……」 「しかも顔色一つ変えてねぇぞ……」部下たちのシルカを見る目が、完全に変わった。 嘲笑や侮蔑は消え去り、そこにあるのは強烈な「畏怖」と、組織の一員として認めざるを得ない「異物への敬意」だった。ナメてかかれば、寝首をかかれるのは自分たちの方だ――そう直感させたシルカは、この粗暴な盗賊社会の中で、自らの力だけで確かに「居場所」を力ずくで勝ち取ったのだった。「ふん。少しはマシな顔つきになってきたな」広間の奥、重厚な椅子に腰掛けたカシラが、静かに酒杯を傾けながら低く笑った。 その巨大な目の奥には、自らが与えた「シルカ」という名前の種が、着実に泥の中で根を張り、牙を研ぎ澄ませていることへの確かな愉悦が宿っていた。シルカは血のついたナイフを静かにサヤに納め、カシラの鋭い視線を正面から受け止めた。



(まだ足りない。もっと強くなる。あんたの首に手が届くまで――)



殺意と生存への執念を燃やしながら、少女は静かに牙を磨き続けるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。