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第二章 二十三個の生首と太い首

 昨夜の喧騒が嘘のように、その夜の酒場はいつも通りの重苦しい濁った空気に包まれていた。 木製のカウンターの隅では、荒くれ者たちが昨日の夜に起きた「奇妙な出来事」について、酒の肴にするように下卑た笑い声を交わしながら語り合っていた。 「おい、昨日のガキはどうなったんだ? あのカシラの直撃をまともに食らって、形すら残ってねぇだろ」 「当たり前だ。頭領の拳は壁すらブ抜く代物だぜ。貧民街のドブネズミが分不相応な背伸びをした末路よ。どうせ今頃は、野良犬の餌にでもなってらぁ」 男たちの軽薄な嘲笑が、店内のあちこちに響く。カウンターの特等席で、ひときわ巨大な影を落としながら一人でジョッキを傾けているカシラは、その雑音に微動だにせず、ただ静かに琥珀色の液体を喉へと流し込んでいた。 昨夜、あの小柄な浮浪児が放った底知れぬ眼光。死の淵にあってもなお牙を剥こうとしていた赤い瞳の残像が、カシラの脳裏の片隅に小さなしこりのように残っていたが、彼はそれを無言のまま酒と一緒に胃の腑へと押し流そうとしていた。 所詮は、路傍の虫ケラの一匹に過ぎない。 誰もがそう思い込み、夜の深まりとともに酒場の熱気は再び下世話な日常へと溶け込んでいこうとしていた。 その時だった。



「――ギィ…………ッ」



 店内の誰の耳にも異質に響く、不気味で重苦しい軋み音。 風でもないのに、酒場の古びた表扉がゆっくりと、まるで何か重い呪いを引きずり込むかのように内側へと押し開かれた。 ふと、冷たい夜の冷気が店内に流れ込み、換気を嫌う男たちの悪態が漏れかける。だが、開いた戸口に目を向けた瞬間、店内の空気が文字通り凍りついた。音を立てていた者たちの喉が引きつり、誰もが息を呑んで硬直する。 「おい、またあのガキか……!? な、なんだありゃ……ッ!」 誰かの恐怖に満ちた叫びが、店内の静寂を切り裂いた。 そこに立っていたのは、昨日、確かに全身の骨を砕かれて瓦礫のなかに投げ捨てられたはずの少女――シルカだった。 だが、その姿は昨夜よりもさらに凄惨であり、そして常軌を逸して異様だった。 全身のあちこちに昨日の傷跡と真新しい血のりがこびりつき、衣服はボロ布を通り越してただの血まみれの布切れと化している。彼女の小さな両手には、幾重にも編み込まれた太く汚れた麻縄がしっかりと握りしめられており、彼女はその重労働に耐えるように、それをズリズリと引きずりながら店内に足を踏み入れていた。



ジャラ



 不気味な金属と硬質な何かが擦れ合う音が響く。 シルカが引きずってきた麻縄の先――その結びつきにあったのは、この無法地帯の周辺を牛耳っていた敵対盗賊団「黒狼団」の残党たちの、生々しい二十三個の生首の山だった。 血を滴らせ、恐怖と絶望の表情を張り付けたまま無惨に積み上げられた二十三個の首。その中心には、昨日まで威勢を振るっていた敵対組織の首領の生首が無残に転がっている。生煮えの血の臭いと、獣のような鉄の臭いが一瞬にして酒場全体を充満させた。 店内の荒くれ者たちが、恐怖で椅子から転げ落ちるように後ずさる。子供の力で、これだけの数の首を狩り、引きずってくるなど人間の所業ではない。それはもはや、死の底から這い上がってきた復讐鬼の具現そのものだった。 血に染まった銀髪を揺らし、シルカは虚ろで、しかし底知れぬ狂気を湛えた赤い瞳をまっすぐに向けた。 そして、積層する生首の山を踏みしめるように立ち止まると、冷徹な声で言い放った。



「――分母を減らした。次は、あんたの首だ」



 店内に、針の落ちる音すら聞こえないほどの完全な沈黙が支配した。誰もがその少女の狂気に気圧され、武器に手をかけることすら忘れている。 だが、その圧倒的な恐怖の只中で、カウンターの奥からゆっくりと立ち上がる影があった。 盗賊頭領・カシラである。 二一五センチメートルの巨体がゆっくりと伸び上がり、店内の天井を圧迫するかのような圧倒的な存在感を放つ。彼は手元にあったグラスを静かにテーブルに置き、積み上げられた二十三個の生首を一瞥し、それから目の前に立つボロボロの少女を見下ろした。 その巨大な顔に、驚愕の色はない。あるのは、底知れない興味と、野生の獣が獲物を見極めるような冷徹な光だけだった。 カシラは低く、地鳴りのような声で問いかけた。 「……なぜ昨日、俺の首を取りに来なかった? あの場で死に損なったお前なら、そのまま路地裏で野垂れ死んでいてもおかしくなかったはずだ」 店内の男たちが唾を飲み込む中、シルカは一歩も引かず、冷め切った赤い瞳でその巨躯を真正面から見据えた。怯えなど微塵もない。彼女の頭の中にあるのは、純粋な損得勘定と生存の計算だけだった。 少女はかすれた、しかしはっきりと響く声で答えた。



「……この近郊で、あんたの首が一番太くて、まだ切れそうになかったから」



 他の雑魚の首をどれだけ狩っても、自分の「存在しない人間」という現実の価値を書き換えることはできない。この無法地帯で最も太く、最も硬く、最も価値のある首――それが目の前にいる男の首だった。だからこそ、昨日の今日で無謀に突っ込むのではなく、周囲の邪魔な雑魚を夜通しで狩り尽くし、自身の肉体の限界を試しながらここまで戻ってきたのだという、狂気的なまでの合理的思考。 その言葉を聞いた瞬間、カシラは一瞬の沈黙のあと、ぐっと喉の奥から底抜けの歓喜を押し出すように、ニィッと口端を野獣のように吊り上げた。



「――はっ。ははははっ! 面白え!」



 酒場が揺れるような豪快な笑い声が響き渡る。 恐怖ではなく、自らの命を本気で狩りに来るその狂気と生存合理性を、カシラは心の底から面白いと感じていた。弱者をいたぶるだけの日常に飽き飽きしていた彼にとって、このボロボロの浮浪児が放つ殺意こそが、何よりも刺激的なスパイスだった。 カシラは腰に差していた無骨な戦闘用ナイフを引き抜くと、それを手元で一回転させ、シルカの足元の床板めがけて勢いよく投げつけた。 ズプッ、と鈍い音を立てて、ナイフの切っ先が深く床に突き刺さる。 「いいだろう。俺の首を取れるまでそこに這いずり回って育つか、それとも途中で俺の機嫌を損ねて切り捨てられるか……ここで試してみろ」 カシラは巨体を傾け、床に突き刺さったナイフの柄に手をかけたまま、さらに冷酷で、しかし奇妙な慈悲を含んだ言葉を叩きつけた。 「今日から、お前の名は『シルカ』だ。……その腐りかけた名無しの虫ケラを捨てろ。俺の首が細く見えたときは、いつでもその首を狙いに来い。だが、その前に貴様の首が細く育っていなければ――俺がその手で切り落としてやる」 初めて与えられた「名前」。 社会から完全に無視され、存在しない人間として生きてきた少女にとって、それは自分という存在がこの世界に「定義された」瞬間だった。 シルカは足元に突き刺さったナイフを見下ろし、そしてゆっくりと顔を上げて、血まみれの小さな唇を微かに歪ませた。



「……シルカ。……分かった」



 殺意と、奇妙な契約の合致。 世界で最も危険な男の懐に、最も危険な牙を隠し持った少女が、こうして「シルカ」という名前を背負って足を踏み入れた瞬間だった。



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