第一章 底辺の虫ケラと異形の野獣
この街には、存在しない人間がいる。
戸籍を持たず、国家の統計にも、他者の視線にも引っかかることなく、ただ世界の隅っこで風化していく者たち。法も秩序も届かないこの最底辺の貧困街において、人間の命の価値は道端の石ころよりも軽い。
その暗く澱んだ路地裏で、銀髪に赤い瞳をした少女・シルカは、古びた鉄製のゴミ箱に細い腕を突っ込んでいた。
指先が触れるのは、捨てられたゴミの山と、微かに腐敗臭を放つ廃棄物だけだ。冷え切った闇の中で、彼女は何か食べられるものを探すように、爪を黒く汚しながらまさぐり続ける。
やがて、指先に引っかかった泥だらけの何かを引きずり出す。
「……………今日も、生き残った……」
乾いた唇から漏れたのは、歓喜でも悲鳴でもなく、ただ事実を認めるだけの無機質な呟きだった。
吐き捨てるように口に入れたそれは、いつの時代主のものかも分からない傷んだ食糧の残骸に過ぎない。舌を刺すような苦みと酸味を、シルカは冷め切った赤い瞳のまま黙々と咀嚼し、胃の腑へと無理やり押し込んでいく。
十六歳という、本来であれば人生で最も華やぐはずの年齢でありながら、極度の栄養失調と過酷な環境が彼女の発育を完全に阻んでいた。その体躯はまるで十二歳の子どものように小さく、痩せ衰えている。骨が浮き出た肩口はボロ布の衣服に覆われ、冷たい夜風に晒されるたびに微かに震えていた。
咀嚼する乾いた音だけが、夜の重苦しい空気に溶けていく。街のどこからも温もりは感じられず、生きることはただ「死なないための苦痛の継続」でしかなかった。
だが、その濁った瞳が、ふと別の場所へと向けられた。
路地裏の闇を抜け、視線の先にあるのはひと際明るく、喧騒を撒き散らしている建物だった。
この近郊を我が物顔で闊歩する、ならず者や盗賊たちが集う酒場である。
窓の隙間から漏れ出る光は、外の世界の暖かさをあざ笑うかのようにギラギラと輝いていた。飢えた獣のような足取りで近づいたシルカは、汚れた頬を窓枠に寄せ、恐る恐るその内部を覗き込む。
そこには、地上の人間とは別の理で生きる者たちの、異様な光景が広がっていた。
二一五センチメートル、百キログラムを超える常軌を逸した巨体の男。荒くれ者たちがひしめくこの無法地帯において、その圧倒的な暴力と恐怖の支配によって君臨する盗賊頭領――「カシラ」が、大ぶりの木製ジョッキを片手に座っていた。周囲に群がる部下たちがどれほど騒立とうとも、彼自身は誰にも迎合せず、ただ冷徹に酒を酌み交わしている。
「カシラ、また一人で飲んでやがる!」
部下の一人が、どこか畏怖を含んだ野太い声を上げる。カシラはそれに返事もせず、無言のままジョッキを傾けた。その巨体から放たれるのは、周囲の人間を完全に寄せ付けない圧倒的な孤高の気配だった。
窓の外の闇から、その男の背中をシルカは冷徹に見据えた。
自分の命に価値などない。明日死のうが、ここで凍えようが、社会の誰も気にとめやしない。誰も自分を名前で呼ぶ者などいない。ならば、あの強大な男の首こそが、自分のちっぽけな命の価値を証明する、世界で唯一の切符になるはずだ。
あの首を刈り取ることができれば、私は「存在しない人間」から脱却できる。
「……あの首なら、私の価値になる」
シルカはボロ布の懐から、刃こぼれし、赤錆にまみれた短剣をそっと引き抜いた。そして、凍えた指でその柄をしっかりと握りしめる。勝算など最初からない。あるのは、ただここから這い上がるための狂気的な執念だけだった。
次の瞬間、古びた酒場の重い扉が、ガタァッ!とすさまじい音を立てて内側に蹴破られた。
「ガキが、何しに来た!?」
突然の侵入者に、店内の空気が一瞬で凍りつく。怒号をあげる部下たちの視線が集中する中、泥まみれの浮浪児の姿をしたシルカが、剥き出しの殺意を纏ってその場に飛び込んできた。
「その首をもらう!」
少女の細い声とは思えない鋭い叫びと共に、シルカは錆びた短剣を構え、一直線にカシラのいる中央へと突進する。
あまりの唐突さと、相手が子供であるという油断から、酒場の男たちは一瞬反応を遅らせたが、すぐに「殺せ」「鼠が一匹迷い込んだぞ」と怒号をあげて飛び出した。複数の屈強な男たちが、邪魔立てしようと足元を掴みにかかる。
しかし、死線の底を這いずり回ってきたシルカの身のこなしは、野獣のようにしなやかだった。泥と血にまみれた身体で巧みに敵の包囲をすり抜け、襲いかかる刃を紙一重でかわしながら、冷酷なまでに容赦のない突きを繰り出して牽制する。ただのガキの喧嘩ではない。本気で相手を殺すために研ぎ澄まされた、剥き出しの殺戮衝動がそこにあった。
だが、その喧騒の只中で、カシラがゆっくりと席を立った。
その巨体が立ち上がるだけで、部屋全体の気圧が変わる。先ほどまで酒を飲んでいた男とは思えない、底知れぬ暴力の気配が酒場の空気を完全に凍りつかせる。
逃げる間などなかった。
カシラは一切の手加減なしの、ただ一撃の剛腕を放った。
「ドンッ!!」
常人の想像を絶する重さと速度を持った拳が、空気を引き裂いて直撃する。凄まじい爆音と衝撃が店内に響き渡り、木製のテーブルや椅子が粉々に砕け散った。
圧倒的な筋力と暴力の差の前に、シルカの小さな体はまともに受け止めることすらできなかった。防御する暇もなく、彼女の体はまるで紙屑のように宙を舞い、酒場の壁を突き破って外の冷たい路上へと盛大に吹き飛ばされた。
外の荒れた瓦礫のなかに、人形のようにぐったりと投げ出されるシルカ。
散乱した木片と舞い散る砂塵の中、痛みに呻く声すらない。
「……おい。普通なら、死んでいるぞ、あんなの一撃で……」
酒場の入り口から顔を出した部下の一人が、冷や汗を流しながら呆然と呟いた。頭領の加減なき一撃をまともに食らえば、屈強な大男であっても全身の骨が砕けて即死するはずだった。
静まり返った夜気の中、誰もが少女の死を確認しようと視線を向けた。
だがその時、地面に倒れたままのシルカの双眸が、ゆっくりと見開かれた。
その両の赤い瞳に宿っていたのは、敗北への恐怖や、死への絶望などではなかった。痛みを完全に切り捨てたかのように冷徹で、次にどうやってあの懐に潜り込むかを計算する、狂気的な生存者の意志そのものだった。
血まみれになり、骨が軋む痛みに支配されながらも、シルカは地面に這いつくばったままかすかに唇を動かす。
その声は、夜の闇に消え入りそうになりながらも、確かな刃の切れ味を宿していた。
「……まだ。切れる首じゃない」




