第9話 直継と静馬
祭りの前は、街も人も、どこか輪郭が薄くなる。
光の色が変わり、川の流れが静かに深くなる。
その揺らぎの中で、直継と静馬のあいだにも、
言葉にならない気配がひとつ、そっと置かれる。
今日は、その気配に触れる話。
> ——東御岳 朝光祭 神楽歌 抄(原本焼失、写本のみ現存。一部判読不能)
>
> 朝日さす尾根に剣を捧げよ、
> 光を呼べよ、記憶を照らせよ。
> ……(判読不能)……
> 二本の木の影、ひとつになる朝、
> 神は目覚め、川は——
> ……(以下欠落)
* * *
翌日の放課後、部室に行くと静馬が一人でいた。
作業台に古地図が広げられている。
昨日からずっとそこにあるのか、別の地図なのかは見ただけではわからない。
静馬は直継が入ってきても顔を上げなかった。
「来たんですね」
別に来るとは言っていなかった。
でも、驚いている様子でもなかった。
ただ確認している、という声の温度だった。
「はい。少し調べたいことがあって」
「どうぞ」
直継は部室に入って、棚の資料を見回した。
いつもと同じ場所に同じものがある。
奥の鍵がかかった棚だけが、相変わらず金属の錠で閉じられている。
直継は近くの棚から一束の資料を取り出した。
「剣技の舞について書かれた資料は、ここにありますか」
「何代前までの話ですか」
「わかりません。由緒書に書かれていない時代、
というか、欠落しているところの前後について」
静馬がやっと顔を上げた。
その動き方がややいつもと違った。
何かが引っかかった顔、というより、
予想していた質問が来た顔、に見えた。
「朝比奈家の由緒書に欠落がありましたか」
「はい。ある時代だけ、記録がほとんどない。消されたみたいな跡がありました」
「どのあたりの時代ですか」
「当主の名と年号は書いてあったので......百年ちょっと前、でしょうか」
静馬は地図を脇に寄せて、棚のほうに向き直った。
鍵の棚ではなく、その隣の棚だ。
段ボール箱をいくつか動かして、紙筒を一本取り出した。
筒の蓋を外すと、中に巻物状の紙が入っていた。
「これが何かはわかりません」と静馬は言った。「読んでいないので」
「読んでいない?」
「崩し字が得意ではないので、
柚羽さんが来たときに一緒に確認しようと思っていました」
直継は受け取って、広げた。
毛筆の縦書きで、かなりの速さで書いたものらしく、文字が流れている。
直継にも読みにくい。
ところどころ判読できる箇所だけを拾っていくと、
「朝比奈」「剣」「川向き」「禁」という文字が見えた。
「川向き」と「禁」が並んでいる。
「この部分」と直継は静馬に巻物を向けた。「『川向き禁』と読めませんか」
静馬が覗き込んだ。
しばらく黙って読んでいた。
「そう読めます。前後は……『剣先』……『川向きにするべからず』、
というような意味のようです。由緒書と同じことが書いてあるんですね」
「うちの由緒書にも同じようなことがありました」
「東の剣は川に向けてはならない。それが両方の資料に書いてある」
直継は巻物を作業台に置いた。
静馬も横から見ている。
二人でしばらく、巻物の文字を眺めた。
「なぜだと思いますか」と直継は聞いた。
「まだわかりません」と静馬は答えた。「ですが......」
そこで少し間があった。
「ですが?」と直継は繰り返した。
「川は、生でも死でもありません」と静馬は言った。「東でも西でもない、
間の場所です。剣を川に向けることは、生の力を間に向けることになる。
それが何を意味するかは......今は、まだはっきりとは言えません」
今は、という言葉だった。
「また今は、ですか」
静馬は少しだけ表情が動いた。
笑っているわけではないが、笑いの手前、というような変化だった。
「またですね」と言った。「もう少し時間をください」
直継は窓の外を見た。
中間川が見える。
夕方の光が川面に反射している。
今は普通に流れている。
橋の上には誰もいない。
時の流れからこぼれ落ちたかのように、
その場所だけが透明な虚無を晒し、
何者かの気配すらも吸い尽くしたかのように静まり返っていた。
「地図の話なんですが」と直継は言った。
「どれですか」
「三本の大木が描いてある地図です。柚羽さんが見つけた」
「ああ」
「あれ、今どこにありますか」
静馬は作業台を見た。
広げてある地図の下に何枚か重なっている。一番下を確認して、
「ここです」と言った。直継も覗き込んだ。
三本の大木の記号がある。
川の東に一本、
西に一本、
そして川の真ん中にもう一本。
その横に「禁足地」と書いてある。
「この三本目の木は、今どこにあるんですか」
「今はありません」と静馬は静かに言った。「跡地が川底にあります」
川底に。
直継は川面を見た。
夕方の光の中で、普通に流れている。
水の下に何があるのか、この距離からはわからない。
水鏡はただ空を映すだけで、底に眠る痕跡も、
かつてそこに触れていたはずの熱も、二度と浮上させることはない。
光に満ちた水面のすぐ裏側に、決して解けない沈黙が積み重なっている。
「なぜ川底に」
「切られたんです」と静馬は言った。「大木が。かなり昔に。根元から」
静馬はそれ以上言わなかった。直継も、それ以上聞かなかった。
聞いてもきっと「今は」と言う。
その感覚がある。でも今日は、「今は」の前の一歩ぶんが、
昨日より近づいた気がした。
欠落した記録、川向きの禁、沈んだ大木。
どれもまだ理由にはならないけれど、
理由にならないものほど、
静かに心の底で形を持ち始めることがある。
直継と静馬の距離もまた、
言葉ではなく揺らぎで近づいていく。
静かに続けていきます。




