第10話 同じ夢
夢というのは、ときどき現実よりも輪郭がはっきりしている。
霧の中の木、水の止まった川、呼ばれる名前。
それが何を示すのかはまだわからないけれど、
朝光祭の前には、こうした“揺らぎ”が静かに寄ってくる。
今日は、その揺らぎが三人のあいだに落ちる話。
> ——東御岳 朝光祭 神楽歌 抄(原本焼失、写本のみ現存。一部判読不能)
>
> 朝日さす尾根に剣を捧げよ、
> 光を呼べよ、記憶を照らせよ。
> ……(判読不能)……
> 二本の木の影、ひとつになる朝、
> 神は目覚め、川は——
> ……(以下欠落)
* * *
直継が夢を見たのは、朝光祭の四日前の夜だった。
霧の中にいた。
場所はわからない。
足元に水の感触がある。
川の中、かもしれない。浅い。
膝下あたりまで水がある。
水は流れていない。
完全に静止している。
霧が厚くて、五歩先が見えない。
正面に木があった。
大きい木だった。
幹の太さは、両手を広げた直継が三人並んでもまだ余るくらいある。
樹皮は古く、縦に深い裂け目が走っている。
枝は霧の中に消えていて、どこまで広がっているのかわからない。
根が水の中から出て、四方八方にうねっている。
誰かが名前を呼んでいた。
声の方向がわからない。
霧の中から来ているのか、木の中から来ているのか。
直継の名前を呼んでいる。
「なおつぐ」と。
声はひとつではなかった。
何重にも重なっているような、
一つが分かれているような、
奇妙な響きだった。
近づこうとした。
足が動かなかった。
水の中で根に捕まれているのではなく、ただ動かない。
体に力が入らない。
声だけが続く。
そこで目が覚めた。
部屋が暗かった。
窓から入ってくる光が、まだ夜明け前の色をしていた。
川の音が聞こえた。
いつもの川の音だった。
窓を開けると、夜の空気が入ってきた。
夢の中の木が、まだ目の裏にあった。
祭りの本番が四日後に迫っているからかもしれない。
あるいは由緒書の欠落のことが、
稽古中の剣先のことが、
頭の中で混ざって夢になったのかもしれない。
翌朝、稽古を終えて学校に向かった。
橋を渡るとき、夢の中の水の感触を思い出した。
足元の橋板が、夢の川底と少し重なった。
部室に行くと、珍しく柚羽が先にいた。
直継が入ると、柚羽が顔を上げた。
何か言おうとして、止まった。
「......どうしましたか」と直継は聞いた。
「いえ」と柚羽は言った。「なんでもないです」
静馬がいつもの位置にいた。
二人の様子を見ていた。
何も言わない。
直継は棚から昨日の巻物を取り出して作業台に置いた。
柚羽も資料を広げていた。
しばらく、三人がそれぞれに作業する時間が続いた。
「夢を、見ましたか」
柚羽の声だった。
直継は顔を上げた。
柚羽は資料を見たまま言った。
直継に向けているのか、独り言なのか、わからない言い方だった。
「霧の中に、木があって」と柚羽は続けた。
「川の中に立っていた。水が止まっていた」
直継は答えなかった。
一秒、二秒。
「川の真ん中に、誰かが立っていました」と柚羽は言った。
声が少し、静かになっていた。
「影だったか、人だったか......でも、こちらを見ていたと思います」
「同じ夢です」と直継は言った。
柚羽がやっと顔を上げた。直継を見た。
「どこまで同じか、確かめないとわかりませんが」と直継は続けた。
「霧の中に大木があって、水が止まっていて、声がした」
柚羽の表情が変わった。「声が」
「はい」
「誰の声でしたか?」
「わかりません。名前を呼んでいましたが」
柚羽は少し考えて、「私もです」と言った。
「声が聞こえました。でも、名前だったかどうかは……目が覚めてしまって」
二人は黙った。
静馬が、作業台から顔を上げずに言った。
「川の中に立っていた人影は、三人でしたか」
直継は思い出した。
霧の中に立っていた影のことを。「一人だったと思います」
「私も」と柚羽が言った。「一人でした」
「それは同じ人だったかもしれない」と静馬は言った。
「あるいは、別々の一人だったかもしれない」
「どういう意味ですか」と直継は聞いた。
静馬は答えなかった。
代わりに作業台の地図を指さした。
三本の大木が描いてある地図。
川の真ん中にある「禁足地」の印。
「川底に沈んでいる木の跡地と、夢の中の木が同じかどうかは、今はわかりません」 と静馬は言った。「ただ、二人が同じ夢を見たことは事実です」
直継と柚羽はもう一度顔を見合わせた。
何を話すべきかわからなかった。
ぎこちない沈黙がある。
東と西の子が同じ夢を見た、という事実がそこにある。
「朝光祭は四日後です」と直継は言った。
「影送り祭はその翌週です」と柚羽が答えた。
二人の祭りの間の時間。
その間に、何かが起きるかもしれない。
あるいは何も起きないかもしれない。
でも今朝から、直継の中で何かが動き出した感じがある。
川が止まった橋の朝と、
由緒書の欠落と、
剣先が川に向かう感覚と、
夢の中の木が、
ひとつの場所に引き寄せられていくような感じ。
静馬は何も言わなかった。
でも直継には、静馬が何かを待っていることがわかった気がした。
この展開を待っていた、というか、
この展開を知っていた、というか。
確かめたかったが、聞かなかった。
今はまだ早い、という気がした。
同じ夢を見るというのは、
理由よりも先に“事実”が心に残る。
霧の中の木も、止まった水も、呼ばれた声も、
まだ説明にはならないけれど、
説明にならないものほど、
静かに物語の底でつながり始めることがある。
直継と柚羽と静馬のあいだに落ちたその気配が、
どこへ向かうのかを見ていきたい。




