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御岳信仰伝 ー分かつ御柱の行方ー  作者: ちとせ鶫
第1章 朝光の家

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11/33

第11話 朝光祭の夜

祭りの夜は、光よりも先に“気配”が動く。

提灯の色が深まり、尾根の闇が沈み、

川の底に眠るものが、わずかに息を返す。

直継の剣が向かう先と、

川が呼び寄せる引きと、

そのあいだにある境界が、静かに揺れ始める夜。

今日は、その揺らぎが形を持つ話。

> ——東御岳 朝光祭 神楽歌 抄(原本焼失、写本のみ現存。一部判読不能)

>

> 朝日さす尾根に剣を捧げよ、

> 光を呼べよ、記憶を照らせよ。

> ……(判読不能)……

> 二本の木の影、ひとつになる朝、

> 神は目覚め、川は——

> ……(以下欠落)


     * * *


 東御岳の尾根に、深いあいの帳が下りてくる。


 残照の気配が完全に消え去り、神域が漆黒しっこくの底に沈んだ瞬間、

 祭りは幕を開けた。


 参道に並ぶ提灯が一斉に灯り、胡粉ごふんの白地から、

 消金けしきんの模様が浮かび上がる。

 その光は黄蘗きはだから柿色かきいろへと階調を広げ、

 境内へと続く石畳を、

 あたかも異界へ誘う琥珀こはくの川へと変えてゆく。


 社務の奥、朝比奈家の準備は静かに進められていた。

 直継は滅紫けしむらさきの羽織に、凛とした白練しろねりの袴を纏う。

 腰に差した二振りの小太刀が、提灯の光を反射して、

 まるで夜の闇を切り裂く鉄紺てつこんの牙のように、

 冷ややかに鈍い光を放っていた。


 毎年この瞬間だけ、緊張がほぐれる。不思議なことに。


 練習のときはずっと何かが引っかかっていた。


 剣先が川に向く。

 由緒書の欠落。

 夢の木。

 それらが頭の中を往復していた。


 でも、いざ正装を整えて小太刀を差すと、体がそれを受け取る感覚がある。

 朝比奈家の血が何十代にもわたって積み重ねてきたものが、

 正装の重さとして伝わってくるような。


 父が側室の入り口に立っていた。


「いけるか」と父が聞いた。

「はい」と直継は答えた。

「川への引きは?」


 直継は少し驚いた。父がそれを聞いてくることを予想していなかった。

「まだあります」と正直に言った。

「そうか」と父は言った。「今夜は堪えろ」

「堪える、というのは?」


 ふと、浮かんだ疑問をぶつけてしまう。


「逆らうな。向かいたいほうに向かわせるな。でも力で押し込めるな。

 ただ、自分の型の中にいろ。

 朝比奈の剣は東の神に捧げるものだと体に言い聞かせながら舞え」

「川の引きが来たとしても?」

「来ても、だ」と父は言った。「来ても、向かうな。今年はまだ早い」

 

 今年は、という言い方だった。

 直継は「はい」とだけ、答えた。


 今年は、と言ったということは、

 来年は違うのか、

 それともただの言い方なのか、聞けなかった。


 境内が人で埋まり始めていた。


 東御岳の住人が集まっている。

 老いも若きも、今夜だけは東の光の下に集まる。

 子どもたちは提灯を持って走っている。

 大人は静かに宮司の祝詞を待っている。

 遠くに神社の本殿が見え、その前に舞台となる広場がある。


 祝詞が始まった。

 宮司の低く朗々とした声が、

 夜の帳が下りた広場に、さざ波のように広がっていく。

 直継は舞台の袖で耳を澄ませた。

 若御魂わかみたまへの祈り。

 東の神よ、生の力よ、この光の中に降りてきてほしい――。

 紡がれる言の葉は、真朱まそほの火花を散らすように、

 冬の夜空へと昇りゆく。


 やがて、宮司が直継を呼ぶ声が響いた。


 舞台の中央へ踏み出す。


 その刹那、周囲の騒がしさが、

 まるで濡羽色ぬればいろの闇に飲み込まれるように霧散した。

 いつものことだ。舞台に立てば、

 現世の音はすべて遠い海鳴りのように掠れていく。

 境内を埋め尽くす人々の吐息や熱気は、

 香色こういろに揺れる提灯の光の粒となって、

 ただ肌の表面を撫でるだけで、声も音も、ここには届かない。


 直継の意識は、ただ一点に収束していく。

 いよいよ小太刀の柄に指をかけた。

 その感触は、長く冬を越した錆浅葱さびあさぎの氷のように冷たく、

 けれど確かな命の鼓動を宿して、静かに喉を鳴らした。

 深く呼吸をし、息を整えた。


 朝光の型。


 動いた。


 剣が、凍てついた空気を鋭く割り裂く。

 一手、二手、三手。

 無機質だった肉体に、血潮が通い始める。

 四手、五手。

 振るう小太刀の軌跡が、夜の広場に鮮烈な光の線を描いた。


 提灯の灯る柿色かきいろが、鋼の刃を鏡面として捉え、

 切り裂かれた闇の中に黄金こがねの残像となって焼き付く。

 直継の動きが増すたびに、境内の空気は白藍しらあいの冷気を孕んだまま、

 提灯の光と激しく混ざり合い、渦を巻く。


 それは舞いではない。

 この閉ざされた夜の底で、神域の帳を強引に引き剥がし、

 無理やりに「夜明け」を呼び込むための、苛烈な調律の儀。


 振るう刃が空を切るたびに、

 周囲の闇が鉄紺てつこんの粒子となって弾け、

 直継の背後に淡萌黄うすもえぎの生命の火花を散らす。

 提灯の橙は、いまや直継の繰り出す剣の速さの中で引き伸ばされ、

 境内に重なり合う千の光の帯となって、この世ならざる光景を現出させていた。


 直継の意識は、すでに自身の肉体から乖離し、

 刃の先に宿る鋭利な一点へと収束していく。

 ここは夜か、それとも朝か。

 境内の境界が崩れ落ち、剣先が描く光の奔流だけが、

 この世界の唯一の真実となって舞い踊っていた。

 

 十手目に入ったとき、強烈な「引き」が全身を貫いた。


 それは中間川の底から這い上がる、抗いがたい水底の重力。

 意識の端が、暗い淵へと引きずり込まれそうになる。


 父の言葉が、脳裏で裏葉柳うらはやなぎの静けさをもって響く。

 向かわせるな。

 でも力で押し込めるな。

 型の中にいろ。


 直継は己の肉体を、冷徹な型の中に封じ込めた。

 水底から招く闇の誘惑を、一振りの鋼が切り裂く。

 剣尖けんせんは、夜の闇を突き抜けて東の尾根を指し示す。


 引きに逆らうのではない。

 ただ、東にある一点へと、意識の糸を張り詰める。


 鉄紺てつこんの闇が、まるで生き物のように直継の視界を侵食し、

 提灯の柿色かきいろが、

 水底の重みに押されて滅紫けしむらさきへと色を澱ませていく。

 空間が歪む。

 境界が溶け落ちる。


 だが、切先は東を向いている。

 確かに引きはある。

 直継の四肢を川へと引きずり下ろそうとする、生々しい冷気が手首を縛り上げる。

 それでも、小太刀の刃は白練しろねりの冴えを見せ、

 夜の帳の向こうにあるはずの「朝」を真っ直ぐに射抜いていた。


 重力と意志が、直継という器の中で激しく衝突する。

 それは舞いではない。

 この閉ざされた空間で、

 何者かと、あるいは川そのものと対峙する、極限の調律。


 直継の背筋が、

 一本の張り詰めた代赭たいしゃの朱の糸となって、

 大地と天を繋ぎ止める。

 夜の闇に抗い、水底の引力に抗い、ただ東だけを向く。


 そのとき、彼の剣先から、淡黄たんこうの微かな光が、

 夜明けの兆しとしてこぼれ落ちた。


 御柱みはしらの型の十八手目。


 右の小太刀を天へと高く突き上げた、その瞬間——世界が裂けた。


 それは川の澱みから這い出した、名もなき「影」だった。

 地面を泥のように這い、

 あるいは大気を黒い糸となって伝い、

 直線的な暗雲のごとく舞台の端を駆け抜けた。

 

 人の速さではない。

 風の速さでもない。

 提灯の灯す柿色かきいろの空間を、

 まるで物理の法則を無視するかのように突き抜ける、

 純粋な「欠落」だった。


 境内を埋めた人々の目には、直継の舞う姿だけが映っている。

 黄蘗きはだの光に彩られた祝祭の華やぎの中、

 誰もその「走る暗闇」に気づく者はいない。

 宮司の祈りは神前に捧げられ、

 父の眼差しはただ息子の背中を射抜いている。


 影は、鉄紺てつこんの闇よりもさらに濃く、

 漆黒しっこくの底に潜む深淵の色をしていた。


 それが通り過ぎた跡には、

 まるで湿り気を帯びた青藍せいらんの冷気が置き去りにされたかのように、

 一瞬だけ提灯の火が青白く明滅した。

 舞台に漂う琥珀こはくの気配が、

 その影に触れた途端、毒を回されたかのように濁る。


 影は一瞬で消えた。


 あとに残ったのは、

 舞台の床板に刻まれたかのような、消えない残像。

 直継の小太刀が切った空気が、影の通過によって歪み、

 その周囲を滅紫けしむらさきの淀みが取り囲む。


 世界は何事もなかったかのように舞い続けている。

 だが、直継の背を駆け上がったのは、冷たい冬の初霜のような戦慄だった。

 空気が凍てつく。

 神域の調律が狂わされた音を、直継だけがその肌で聴いていた。


 直継は最後の手を完璧に決めた。


 その瞬間、張り詰めていた神域の糸が解け、

 境内を埋めていた沈黙の重圧が、

 濁流のような拍手となって四方から押し寄せてきた。

 遠のいていた人々の吐息や衣擦れの音が、

 まるで枯れ木に命が戻るかのように、境内に雪崩れ込んでくる。


 宮司の祝詞を上げる低く厳かな声が、夜気を震わせる。

 歪んでいたはずの空間が収束し、

 東御岳の夜は、先ほどまでの刺すような異界の冷たさを隠し、

 元の冷徹な冬の温度へと静かに回帰していった。


 舞台を下りる直継の足裏に、硬い床板の感触が戻る。


 提灯の柿色かきいろが、再び人々の熱気を映し出す。

 影が走ったあの薄気味悪い鉄紺てつこんの裂け目は、

 もうどこにも見当たらない。

 舞台を支える柱の影に、消炭色けしずみいろの濃い影が、

 何事もなかったかのように静かに寄り添っているだけだった。


 人波を割って歩みを進める直継の視界の端に、父の姿があった。

 父は、この祭りの熱狂から一歩外れた場所に立ち、

 滅紫けしむらさきの着物を纏ったその影を、

 深いあいの夜の帳に溶け込ませていた。


 父の眼差しは、直継の剣が切り裂いた「何か」の気配を追い越して、

 その先にある川底の闇を見通しているようだった。

 父の横顔に当たる提灯の光が、

 香色こういろの柔らかな影を頬に落とし、

 まるで古びた由緒書の一節のように、

 冷たく、そして動かぬ存在感で直継を待ち受けていた。


 直継は、汗ばんだ額の冷気を感じながら、父の元へと歩み寄った。


「どうだった」と父は尋ねてきた。

 舞の出来を聞いているのか、川の引きを聞いているのか、

 あるいは別のことを聞いているのか、わからなかった。


「型は通りました」と直継は言った。「川への引きは、やはり来ました」


 父は頷いた。「影は見えたか」


 直継は一瞬、言い淀む。


「見えました」


 父は何も言わなかった。

 境内の喧騒の中で、少しの間だけ黙っていた。

 それから、「今夜は休め」と言った。「明日、話がある」


 祭りが終わったあと、東の灯がいつまでも消えなかった。


 風が凪いでいた。

 提灯の火が揺れずに、ただ橙色のまま、夜の参道に並んでいた。

 いつもなら深夜には消えているはずなのに、

 直継が眠る前に確認しても、まだ灯っていた。


 明け方に目が覚めたとき、窓の外を見た。


 提灯はまだ灯っていた。


 東の灯が消えていなかった。

 それが何を意味するのか、直継はまだ知らない。

舞は成功した。

けれど、成功の裏側で何かが“裂けた”ことを、

直継だけが確かに感じている。

影は一瞬で消え、

提灯の光は何事もなかったように揺れているのに、

川底の気配だけが、まだ夜の底に残っている。

東の灯が消えなかった理由も、

父が「明日、話がある」と言った意味も、

すべてはまだ言葉にならないまま、

静かに物語の底で繋がり始めている。

この夜を境に、御岳は少しだけ姿を変える。

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