第12話 夕暮れの稽古場
> ——西御岳 影送り祭 口伝 抄
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> むかし、西の山に巫女ありけり。
> 彼の女、夕暮れに舞ひ、影を送り、境界をひらきたまひき。
> 舞ひ終はりて、巫女は問はれき。「怖くはないか」と。
> 巫女は答へたりといふ。「影は、光の忘れ物です」と。
* * *
西御岳の稽古場は、家の裏山に向いている。
東御岳の道場が東の尾根を向いて建てられているように、霞沢家の稽古場は西の山影を正面に受ける。日が傾くにつれて山の影が伸びてきて、夕方には稽古場の床板の半分が影に入る。東の道場が夜明けから始まるように、西の稽古場は夕暮れに向かって動く。光が来るほうへ向かう家と、光が去るほうへ向かう家。
柚羽はその違いを意識したことが、これまであまりなかった。
今日は一人だった。母は夕方から神社の打ち合わせがあると言って出ていった。祖母はもう舞を教えられる体ではない。父は柚羽が三歳のときに亡くなっているから、記憶にない。霞沢家の稽古場で舞を見てくれる人間が今いないということは、柚羽がこの場所に一人でいるということと同じだった。
布を手に取った。
影送り祭の奉納に使う布は、西御岳の機屋が毎年丹精して織り上げる。縦糸には白練、横糸には薄鼠を合わせ、その重なりは光の差し方一つで様相を変える。
陽が傾き切らぬ夕暮れ時、布は淡い月白の青みを帯びて静かに浮かび上がるが、夜の帳が下りればその色は深く沈み、揺るぎない利休鼠の闇へと変じていく。
布の端には細い飾り糸が縫い留められ、身動ぎするたび、空気のうねりを孕んでかすかな音を零した。それは鈴のような清冽な響きではない。もっと低く、砂を噛むような、あるいは古びた紙が擦れ合うような、湿り気を帯びた掠れ音だった。
夕霧の招き。
一の型から入る。両手で白練の布をたぐり、腕を横に開きながら、体ごとゆっくりと沈む。沈みゆくにつれ、布は夕光を吸い込み、淡い月白の光沢を放った。右足を後ろへ引き、左足に重心を乗せ切る。布が大きく開いた。晩秋の冷たい空気が布を孕み、端に縫いつけられた飾り糸が、ざり、と低く鳴る。その音が稽古場の静寂を切り裂くとき、柚羽の目の前で空気が微かに震えた。境界が薄くなる——母の言葉が、肌に伝わる冷気となって蘇る。その先にあるものが何なのか、未だに教えられぬまま。
影送りの歩み。
二の型。足を交互に踏み出しながら、布を身体に纏わせるようにたゆたわせる。まっすぐには歩まない。斜めに、ゆるやかな弧を描きながら進む。布が身体を包んでは離れ、離れては包む。その反復は、空気を濾過し、何かを「送り出す」ための儀式だった。何を。そう問うた幼い日の問いに、母は端的に答えた。影を、と。この世の淵に留まろうとする、行き場のない影を、あちら側の利休鼠の闇へと送り届けるのだと。
柚羽はその「影」が何なのか、一度だけ母に聞いたことがある。
「亡くなった人たちの、思い残しよ」と母は言った。
「思い残し?」
「この世に留まろうとする気持ち。それが形になったものが影。西の舞はそれを解いて、向こうへ送る」
「向こうって」
「境界の向こう。生の外側」
それ以上は、聞けなかった。母の声音には、これ以上踏み込めば何かが壊れるという、鋭い拒絶の膜が張られていた。いつもそうだ。霞沢家が守り続けてきた「境界」の深淵に触れるたび、母は言葉を閉ざす。柚羽の知らない、けれど母には明瞭に見えている一線。その手前で、母はいつも静寂の扉を降ろしてしまう。
幽紗の輪。
三の型。布を頭上に掲げ、大きく旋回させる。一回転の軌跡に合わせて体も滑らかに回る。布と身体が重力から解き放たれたかのように同期し、布が柚羽の周囲にひとつの輪を描き出した。その中心で、柚羽は円の軸となる。由緒書によれば、この型は「境界を可視化する」ための動作であるという。
柚羽はその言葉を反芻するたび、微かな澱のような違和感を覚えた。可視化する。つまり、この世の理としてそこにあるはずの境界は、本来、人の目には見えていないのだ。見えないからこそ恐れるのか、それとも見えないからこそ、あちら側からの招きを無防備に受けてしまうのか。輪の中で旋回しながら、柚羽は視界の端がわずかに鈍色に染まるような錯覚を覚えた。布を回しながら、柚羽は稽古場の奥の壁を見た。
壁に影が揺れていた。
布の輪が落とす影だ。西日を受けて伸びた光が、旋回する布の軌跡を歪に切り取っている。丸い影が、壁の染みをなぞるようにゆらりと震えた。道理として、布の動きに合わせて影が揺れるのは当然だ。だが柚羽は、刹那、その動きを止めた。影が布の輪よりも一瞬早く、先回りして床を這ったように見えたのだ。
気のせいだ、と己に言い聞かせ、柚羽はまた型を再開した。
沈みゆく光。
四の型。最後の儀礼。柚羽は布を床へと低く引き寄せながら、自身の体もまた、地へ吸い込まれるように沈み込んでいく。膝が畳に触れると同時に、手にした布を波紋のように四方へ広げた。絹の布地が床を這い、最後にふわりと静止する。そのとき、柚羽は鈴を鳴らす。稽古場の柱に吊るされた小さな鈴に右手を伸ばし、ただ一度だけ、深く打ち鳴らした。
鈴の音が稽古場の隅々にまで満ちていく。
その清冽な響きが、空気に溶けて消え去るまで、呼吸すら許されない。それが「沈みゆく光」の型の終わり。
柚羽は鈴を手に取り、静寂を切り裂くように鳴らした。
響きが震え、消えていく。その静寂の余韻のなかで、壁に落ちた布の影が、再び——今度は布とは無関係に、独りでに揺れた気がした。
音が広がった。稽古場の木造の壁に反射して、低くなって戻ってくる。残響が細くなっていく。細くなって——消える、はずだった。
消えなかった。
鈴の音の残響が、普段より長く続いた。正確に測ったわけではない。感覚的に、だいたいこれくらいで消える、という長さを知っている。それより確かに長かった。稽古場の空気が変わった気がした。鈴の音を引き止めているような、あるいは鈴の音が何かに触れているような。
やがて鈴の音は、稽古場の隅々に吸い込まれるように消えた。
ふたたび静寂が支配する。柚羽は床に膝をついた姿勢のまま、呼吸を整えることも忘れ、留まっていた。
格子窓から差し込む夕光は、刻一刻とその色相を深めている。西の山の稜線に太陽が半分ほど食い込み、縁取られた空は茜色というよりも、血を滲ませたような紅赤に焼けていた。稽古場の板の間は、その境界線が侵食するように影を広げ、柚羽の膝元まで冷たい藍墨茶の闇が這い寄っている。
母の、あの厳格な口調が脳裏で鳴った。
「霞沢の舞は、境界を開くもの」
開くとは、何を変えることなのだろうか。その先にあるのは、安らぎの地なのか、それとも取り返しのつかない深淵なのか。なぜ、この世とあちらを分かつ膜に、手心を加えねばならないのか。
所作は淀みない。布を繰る指先も、重心の移し方も、由緒書が求める正解を正確になぞっている。しかし、柚羽の心にはいつも、乾いた風が吹き抜けるような空虚があった。「境界を開く」という重い理が、自身の身体を通り抜けていく実感だけが、どうしても掴めない。
ただ一つ。
今の、鈴の残響が鳴り止んだ瞬間のこと。
空気がふと重く澱み、誰かの吐息が柚羽の背筋をなぞったような——あの冷ややかな気配だけが、確かに「境界」の裂け目から零れ落ちていた。
柚羽はゆっくりと顔を上げた。
夕影の中に溶けかかった壁を直視する。影はもう、動いてはいなかった。だが、先ほど影が布を追い越したあの一瞬、彼女は確信していた。
自分自身もまた、何かに見つめられているのだと。
布をたたみながら、柚羽は部室での光景を反芻していた。
古文書を手渡したあの日のこと。静馬の瞳に浮かんだ微かな変化が、どうしても脳裏を離れない。驚きでも、喜びでもない。もっとこう、隠されていた地図の折り目を確かめるような、冷徹な合致。あの表情が意味していたのは、一体何の「確認」だったのか。
布の端を合わせ、角を整える。稽古場の外へ出ると、西の山並みに陽は半分飲み込まれ、影が地を這うように長く伸びていた。ふと東の空を見上げる。西の紅赤とは対照的に、そちらはまだ深く澄んだ縹色を残していた。
毎日飽きるほど見慣れた光景のはずだった。けれど今日は、その色彩の分断が、喉の奥に小骨が刺さったような違和感となって柚羽を突いた。
同じ空なのに、どうしてこれほど違うのか。
そう呟きかけて、柚羽は言葉を飲み込んだ。同じ空だから同じに見えるという前提が、この霞沢ではひどく脆弱なものに思えたからだ。見る場所が変われば、世界の色も変わる。ならば、自分が立っているこの「境界」の際から見える景色は、他の誰が見ている景色と同じなのだろうか。
西の稽古場から仰ぐ東の空と、東の道場から望む西の空は、同じ色をしているのだろうか。
どこか遠い場所から呼びかけられたような問いが、夕闇の中に溶け残った。
柚羽は自分の指先を見つめる。先ほどまで舞に使っていた手が、わずかに冷え切っている。それが冷気のせいなのか、それとも誰かに見つめられた名残なのか、判然とはしなかった。




